第8奏:空白を埋める音
ライブハウス「RESONANCE」に到着した綾乃は、入り口で立ち尽くしていた。
時刻は午後6時。
ライブハウス特有の重低音が、ドアの隙間から漏れ聞こえてくる。
それはかつて、自分にとって最も慣れ親しんだ、そして最も苦しい音。
「……来てしまった」
綾乃はそう呟く。
行くべきではない、関わるべきではないと向かう最中に何度も自分に問いかけていた。
しかし、最終的にはここへ辿り着いた。
スマホのメッセージアプリに残された、イヴから送られてきた手書きのライブハウスの地図。
その地図を頼りに、綾乃はここまで来たのだ。
ライブ開始まで、残り30分。
どうにかしてイヴに会いたい。
でも、どうやって?
綾乃は戸惑いながら入口を見つめていると、後ろから声をかけられた。
「遅かったね」
振り返ると、そこに立っていたのは公園で出会った倉本響だ。
「どうして、君がここに…?」
綾乃の疑問をよそに、響は手で「こっち」と促す。
彼女は迷うことなくライブハウスの入口をくぐり、綾乃に振り返った。
「ついてきて」
綾乃は困惑しながらも、響の後を追って中に入っていく。
多くの人でごった返すロビーを響は慣れた様子で進んでいた。
その道中、すれ違うスタッフや他のバンドマンが、響に挨拶をしていく。
「響さん、お疲れ様です!」
「倉本、トリ、楽しみにしてるからな!」
響は、その一つ一つに軽く会釈を返していく。
楽屋までの道のりや周りの反応から、彼女はここの関係者なのだろうか。
綾乃はそんなことを考えながら響について行った。
そして一つの楽屋の前で、響が立ち止まる。
ドアから漏れ聞こえてくる声に、綾乃はハッとした。
「月野さん、いつになったらベース担当の子は来るんだ? もうライブまで時間がないぞ!」
それは、大人の女性の声。
響がドアを開けると、そこには険しい表情でイヴを問い詰める女性と、俯いて困り果てているイヴの姿があった。
「ごめんなさい……連絡がつかなくて」
イヴは、消え入りそうな声で謝っている。
そしてその奥には見慣れた紺色のベースがベーススタンドに立てかけられていた。
綾乃にとって見間違えるはずもない、あれは自分のベースだ。
その瞬間、綾乃の心臓が止まる。
視界に飛び込んできたのは、イヴの絶望的な顔。
その光景に息をのむ。
険しい顔をしている女性は楽屋の扉の方に顔を向けると、初めて綾乃に目があった。
その鋭い視線に、綾乃は体がすくむ。
その時、響が綾乃の前に一歩進み出た。
彼女は綾乃を振り返ると、まっすぐな目で問いかける。
「ねえ、君。ベース、弾けるんだよね?」
綾乃は言葉を失う。
「おい、倉本。どういうことだ?」
女性の問いに、響は淡々と答えた。
「この子が、月野さんが探していたベースの子です」
綾乃の体が、微かに震える。
違う、自分は違う。
そう言いたかったが、言葉が出てこない。
「嘘だろ? そんな、素人みたいな子に今からライブを任せるわけにはいかない!」
女性の声が、楽屋に響き渡る。
イヴは、はっと顔を上げた。彼女の目に、一筋の光が灯る。
「……綾乃ちゃん?」
イヴが希望と不安の入り混じった声で綾乃の名前を呼んだ。
その声を聞いた瞬間、綾乃の頭の中でかつての痛ましい記憶が鮮明に蘇る。
(私には無理だ。また、みんなを裏切ってしまうかもしれない)
しかし、その記憶をかき消すようにイヴが駆け寄ってきた。
「綾乃ちゃん! 来てくれたんだね!」
イヴは、綾乃の両手を強く握りしめた。その手は、冷たく震えている。
綾乃はイヴの不安が、恐怖が、手に取るように伝わってくるのを感じていた。
「お願い……綾乃ちゃん。力を貸して」
イヴの瞳には、涙が浮かんでいる。
今、ここにいる時点で綾乃は、過去に縛られている場合ではないのだと思った。
それは目の前にいるこの子が、助けを求めるほどに窮地に立たされているからだ。
「……わかった」
綾乃は、静かに頷く。
「空いたベースの枠、私が埋める」
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