第4奏:五線譜の共鳴と、響く過去
ギターのレッスンを始めてから、二週間が経った。
放課後の公園は、綾乃とイヴの定位置になっている。
桜の季節は終わりを告げ、代わりに若葉が芽吹き始めた木々が、柔らかな春の光を浴びていた。
そして淡い緑に染まった木々の下、イヴは真新しい赤色のエレキギターを抱え、綾乃の教えるコードを必死に練習している。
「うん、イヴ。指の力、もっと抜いて」
綾乃は、イヴの指にそっと触れ、正しいフォームを教える。
彼女は少し照れくさそうに笑いながらも、「う、うん!」と返事をした。
イヴは、のめり込みが早い。
綾乃の目には自分と会わない時間、イヴは家で熱心に練習しているを手元の動きや弦を押さえる指先を見てすぐ分かった。
そして綾乃もまた、イヴに教えるために必要最低限のギターの知識を本を読んで頭に入れていた。
「ねえ、綾乃ちゃんって、本当にすごいね! 全部知ってるんだもん」
「別に、そんなことない」
「ううん、すごいよ! 私、綾乃ちゃんに教えてもらうのが、毎日すごく楽しみなんだ!」
イヴの言葉は、綾乃の心に温かい光を灯した。
音楽をやめてから、誰かとこんな風に話すことはなく、ましてや、誰かに「教えて」と頼られることもない。
そんな日々が、綾乃の凍りついた心を少しずつ溶かしていくのを感じていた。
そしてその日のレッスンが終わり、綾乃はベースケースを背中に背負って帰ろうとした時。
「ねえ、綾乃ちゃんに、いいお知らせがあるんだ!」
イヴは、まるで子どものように、興奮した声で綾乃に話しかけた。
淡い緑の葉が、彼女の金髪に影を落とす。
「今度、ライブに出ることになったんだ!それも五日後に!」
「……え?」
綾乃は突然のことに驚き、イヴを見つめる。
「綾乃ちゃんと出会う前、帰国してからずっと会ってなかった幼馴染と再会して、その子とバンド組んでるんだ! そのバンドで今度、ライブハウスに出ることになったの!」
「……帰国?」
綾乃は、思わず聞き返す。
見た目からして、イヴは外国人とのハーフであるとは思っていたが、彼女が海外に住んでいたことまでは初耳だ。
「うん! 私、つい最近までアメリカにいたんだ。で、日本に戻ってきてから、また幼馴染と会うことが出来たの!」
イヴの瞳は、太陽のようにキラキラと輝いている。
その姿はかつて綾乃が憧れた、音楽に夢中になっていた自分自身と重なって見えていた。
「すごいね……」
綾乃は、思わずそう呟く。
心になんとも言えないような感情が入り混じっていた。
「うん!だから、綾乃ちゃんも見に来てくれたら嬉しいな!」
「あ、うん……」
綾乃は曖昧に頷く。
イヴが自分の音楽を、誰かに聞かせようとしている。
その純粋な情熱に、綾乃は胸を打たれていた。
「ねえ、綾乃ちゃん」
イヴは、真っ直ぐに綾乃を見つめ、再び口を開く。
「もう一度、綾乃ちゃんをバンドに誘ってもいいかな?」
その言葉が、綾乃の心を深く抉った。
突如、脳裏に過去の光景がフラッシュバックする。
全国大会の舞台。
客席にいたはずの母親が病院のベッドにいる。
そしてステージに立つことなく、解散していくバンドメンバーたち。
あの日の後悔と痛みが、津波のように綾乃の心を襲った。
「やめて……!」
「……え」
綾乃は、自分の紺色のベースを抱きしめる腕に、さらに力を込める。
「もう、私に音楽の話はしないで!」
綾乃はイヴの問いかけに、強く、そして冷たく言い放った。
イヴの笑顔が凍りつき、その瞳に困惑と悲しみが浮かぶ。
その瞳を見た綾乃は逃げるようにベースをベースケースにしまい、すぐに立ち上がった。
「待って、綾乃ちゃん!」
イヴの声に、綾乃は固まる。
しかし、すぐにこの場を離れたいと思っていた綾乃は、ベースケースを彼女に差し出した。
「これ……あげる」
イヴは信じられないという表情で、綾乃を見つめる。
「どうして……?」
「これで他のベーシストでも探して。もう、私には関係ないから」
綾乃はそう言い残すと、イヴに背を向け、気づいたら公園の出入口へと走り出していた。
イヴはただ茫然と、綾乃が走り去る方向と手に残された紺色のベースを交互に見つめることしかできずにいる。
そして止まっていたはずの五線譜は、再び動き始めていたはずだった。
しかし、そこに記された音は、決して美しいハーモニーではないのかもしれない。
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