第2奏:空っぽのケースと、再会した音色
藤原綾乃は、自宅に戻るとすぐに蕎麦屋鶴ノ庵の手伝いを始めた。
春の新しい風がお店の中を通り抜け、鈴の音が軽やかに鳴る。
そして客の注文を聞き、料理を運び、父・浩介と忙しく動き回っていた。
しかし、綾乃の頭の中は先ほどの出来事が鮮明に思い出される。
月野イヴの歌声、純粋な笑顔、そして「そのベース、譲ってくれないかな?」という言葉。
綾乃は無意識のうちに、シンクでグラスを洗いながら、ベースの弦を弾く自分の指を動かしていた。
もうベースは弾かないと決めていたのに。
「綾乃、ぼーっとしてないで、早く皿を洗ってくれ」
父親の声に、綾乃はハッと我に返る。
心は、音楽をやめたあの日のまま。
なのに、なぜかこの胸にはぽっかりと穴が空いてしまったような、言いようのない喪失感が広がっていた。
仕事が終わり、日付が変わろうとする頃。
綾乃は、ベースケースを手に再び公園へ向かっていた。
花びらの舞う道、夜になっても桜の香りはほんのりと漂っている。
『捨てる』と決めたはずなのに、イヴの言葉が頭から離れない。
もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。
「……あ」
そう淡い期待を抱いてゴミ捨て場に向かうと、そこにはもう、ベースは残っていなかった。
誰かに拾われたのか、清掃業者に回収されてしまったのか、それともイヴと名乗った少女が持ち帰ったか。
何一つ手掛かりはなく、あるのは空っぽになった心と、ゴミ箱の周りに散らばった枯葉だけ。
その日の夜。
綾乃は自分の部屋でベースケースの蓋を開けていた。
中は、何も入っていない。
虚しさが、心を支配する。
もし、イヴに会った時、ベースは持ち帰っていない、なんて答えが返ってきたら。
もし、「やっぱり捨てちゃった」なんて答えが返ってきたら。
やめたはずなのに、捨てようとしたはずなのに、ベースに対する後悔と自責の念が、彼女を責め立てる。
綾乃はその晩、眠ることができなかった。
翌日の放課後。
綾乃は心にぽっかりと穴が空いたまま、重い足取りで学校を出る。
そして昨日イヴと会った公園に立ち寄ると、そこに金色の髪をなびかせながら彼女が立っていた。
散った桜の木々の下で、イヴは春の光を浴びている。
「綾乃ちゃん!」
イヴは、満面の笑みを浮かべて綾乃に駆け寄ってきた。
しかし、その背中を見て、綾乃は息を飲む。
イヴの背中にはギターケースを背負われていたのだ。
そしてその両腕には、綾乃が昨日捨てようとした、あの紺色のベースが抱えられている。
「よかった、来てくれたんだ!」
まるで宝物を見つけた子どものように、そのベースを綾乃に差し出した。
「やっぱり、これは綾乃ちゃんの音だから。誰にも譲れないよね!」
その言葉に、綾乃は言葉を失う。
心の中で渦巻いていた後悔と喪失感が、一瞬にしてイヴのまっすぐな優しさに塗り替えられていく。
そしてイヴは綾乃のベースを抱えながら、そっと彼女に微笑んだ。
「ねえ、綾乃ちゃん。私と一緒にバンドやろう!」
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