第1奏:五線譜が動き出す日
公園に響いていた歌声が止むと、あたりは再び静寂に包まれた。
綾乃は、ただ茫然とイヴを見つめる。
彼女の頭の中は、今聞いたばかりの歌声で満たされていた。
その歌は、綾乃の感情を揺さぶる力を持つ。
喜びや悲しみ、希望、そして諦め。
言葉にできない想いが、歌声という形になって綾乃の心の奥深くまで届いた気がした。
「……すごく、うまいね」
気がつくと、そう呟く。
イヴは目を大きく見開いた後、満面の笑みを浮かべた。
「ほんと!? ありがとう! えへへ、歌だけは誰にも負けない自信があるんだ!」
自信に満ちた笑顔。
そんな彼女の姿に、綾乃はなぜか胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
かつて、自分も持っていたはずの、純粋でまっすぐな情熱。
「ねえ、改めて自己紹介! 私は月野イヴ!」
月野イヴ。
彼女の名前は、綾乃の心にしっかりと刻まれた。
「……藤原、綾乃」
綾乃もか細い声で答えると、イヴは「綾乃ちゃん、よろしくね!」と再び笑顔を向けてきた。
「綾乃ちゃんはなんで、そのベースを捨てようとしているの? まだ弾けそうだし、捨てるのやめなよ!」
イヴは、綾乃の手からベースを奪うようにして抱え込んだ。
まるで、大切なおもちゃを見つけた子どものよう。
「……私は、もう音楽なんて」
「でも、さっき言ったじゃん。『うまいね』って! ねえ、綾乃ちゃんはベースが弾けるんでしょ? だったら、私の歌を、あなたのベースで彩ってよ!」
イヴの言葉は、まるで魔法のようだった。
綾乃の閉ざされた心を、少しずつ溶かしていく。
その時、綾乃のポケットに入っていたスマートフォンが震えた。
画面を見ると父からの着信で、『お店が忙しくなったから、手伝ってくれ』と書かれたメッセージに、綾乃は我に返る。
「……ごめん、もう行かなきゃ」
綾乃がそう言うと、イヴは少し残念そうな顔をした。
「そっか……じゃあさ、これ!」
イヴは、自分のスマートフォンを取り出し、画面を綾乃に向ける。そこには、SNSのIDが表示されていた。
「よかったら、いつでも連絡してね!私は、いつでも待ってるから!」
綾乃はイヴの言葉を無視するように振り返り、イヴのIDを登録することもなくその場を立ち去る。
イヴが今どんな顔をしているか、綾乃にはわからない。
しかし、綾乃の頭の中はイヴの言葉と胸に残った歌声だけが残されていた。
その日、綾乃の止まっていた五線譜に、新しい音が記される。
それはまだ、たった一つの音だったが、これから始まる物語の始まりを告げる、確かな音だった。
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