第9奏:再生のハーモニー
綾乃が「空いたベースの枠、私が埋める」と告げたところ、楽屋の空気が一変した。
イヴは信じられないものを見るかのように目を丸くし、やがてその表情は満面の笑みに変わる。
「綾乃ちゃん、本当に!? ありがとう!」
イヴは涙を流しながら綾乃にぎゅっと抱きしめた。
その温かい体温が、綾乃の冷え切っていた心をゆっくりと溶かしていくの感じる。
「月野さん、どういうこと?」
険しい顔をした女性が、イヴを睨みながら問いかける。
「凛さん!綾乃ちゃんが、ベースを弾いてくれるって!」
イヴは嬉しそうにそう答えた。
しかし、女性はいきなり現れた綾乃がベースを弾くと申し立てたことに困惑が拭えない。
「でも、こんな急に。それにこの子、本当に……」
「大丈夫です」
綾乃ははっきりとそう言って、凛さんと呼ばれた女性にに深々と頭を下げあ。
「私に、時間をください。最高の音を必ず奏でます」
そして綾乃は頭を上げ、そのまっすぐな瞳に女性は言葉を失う。
女性は大きなため息を吐きながら、静かに頷いた。
「……わかったわ。ライブまで残り20分。廊下の突き当たりにある部屋、使っていいから」
女性がそう言うと、イヴは「ありがとうございます!」と言って、綾乃のベースを持ち、綾乃の手を引いて楽屋を出て行く。
綾乃とイヴが楽屋に出ると、廊下に二人と同じ制服を着た腰ぐらいまで長い黒色の髪をした女の子が立っていた。
「琴音! ちょうどよかった。綾乃ちゃん、紹介するね!」
イヴは満面の笑みでその少女の元へ駆け寄る。
「この子が私たちのキーボード、森野琴音だよ。琴音、こっちが綾乃ちゃん!」
キーボード担当と言われた琴音は、イヴに促され、綾乃に顔を向ける。
「はじめ、まして……森野、琴音です。よろしく、お願いします」
彼女は小さな声でそう言うと、すぐに目を伏せてしまった。
「藤原綾乃です。よろしくお願いします」
軽く自己紹介を終えた三人は女性に言われたスタジオへ向かう。
ライブまで、残り20分。
廊下の突き当たりにあるスタジオに入ると、中にはすでにキーボードとギターがセットされていた。
そしてイヴは、楽屋から取ってきたベースを綾乃の前に差し出す。
「綾乃ちゃん、これ」
その瞬間、綾乃の心臓が大きく跳ねるのがわかった。
心臓がバクバクと鳴るのがわかる。
自分の手で選び、何度も弾き込んだ紺色のベース。
そして、一度は手放したかつての相棒。
(また、この子を弾く……。だけど、やっぱり私にはそんな資格……)
綾乃の手が震える。
あの日、もう二度と音楽なんてしないと誓い、捨ててしまおうとしたベース。
そのベース、その弦に眺めるたびに過去の辛い記憶が蘇ってくるようだ。
「綾乃ちゃん?」
イヴの不安そうな声に、綾乃はハッと我に返った。
彼女の瞳には、まだ希望の光が宿っているのが目を見てわかる。
綾乃は意を決してベースを受け取った。
その重みと木材の冷たい感触が懐かしく、そして痛々しい。
「……ライブって、何曲やるの?」
綾乃は、ふと疑問に思い、イヴに尋ねる。
「今回は一曲だよ。このライブハウスは、毎月アマチュアと新人バンドだけを集めてライブをやってるんだけど、参加人数は3人以上って決まってて。だから出たいって言った時、嘘ついて、ギター、ベース、キーボードの3人で出る言っちゃったんだ」
それをイヴは申し訳なさそうな顔でそう言った。
すると、琴音がオロオロしながら楽譜を綾乃に差し出す。
「これ……」
受け取った楽譜に目を通した綾乃は、驚きを隠せない。
そこには、ギター、ベース、キーボードのパートが、緻密に書き込まれているのだ。
「この曲、誰が作曲したの?」
綾乃の問いに、イヴが明るく答える。
「私は歌詞を書いたけど、他は琴音が一人で全部作ったんだよ! すごいよね!」
綾乃は思わず、琴音に視線を向けた。
先ほどまで俯いていた彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめ、イヴの言葉に恐縮している。
(まさか、この子が……)
その繊細で完成された曲のイメージと、大人しく引っ込み思案な琴音の姿が、綾乃の中で結びつかなかった。
この子から、こんなにも力強いメロディが生まれるなんて。
綾乃の心に新たな驚きと、そしてこの曲への好奇心が芽生える。
「ありがとう。最高の音にさせるよ」
綾乃はそう言って、琴音に向かって微笑んだ。
止まっていた時間が、再び動き出す。
綾乃は自分自身の心の中でに忘れかけていた音楽への情熱が、蘇ってくるのを感じているのがわかった。
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