第0奏:始まりの音
放課後。
藤原綾乃は、家の近くの公園へと向かう。
春の柔らかな日差しが差し込む公園の片隅、古びたゴミ捨て場に、一つの紺色のベースが立てかけた。
風に乗って舞い散る桜の花びらが、紺色のセミロングの髪にひらひらと降りかかる。
「……さよなら」
誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。
重たい鎖で心を縛りつけたかのように、感情のこもらない声。
彼女にとって、それはただの楽器ではなかった。
中学生の頃から肌身離さずそばにあった、もう一人の自分。
しかし、今はもう、その音を奏でる資格はない。
綾乃は過去の記憶が焼き付いたその存在を、この手で終わらせようとしていた。
ゆっくりとベースに手を離そうとした、その時。
「ねえ、それ、捨てるの?」
明るく澄んだ声が、静寂を破った。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、まぶしいほどの金髪ロングヘアの少女。
日本人離れした赤い瞳が、夕日に照らされてキラキラと輝いている。
彼女は、綾乃と同じ制服を着ていた。
綾乃は彼女を見て、第一印象が今まで出会ったことのない、向日葵のような、太陽のような子だと感じる。
「そのベース、すごくいい音色でそうだね」
そう言って、少女はベースを愛おしそうに眺めていた。
少女の瞳にはかつて自分が持っていた、音楽への純粋な情熱が宿っているように見え、綾乃はただじっと彼女のことを見つめてしまっている。
「私、バンドがやりたいんだ。もしよかったら、私のバンドのベースやってくれない?」
その言葉に、綾乃の心がざわめいた。
胸の奥にしまい込んでいたはずの感情が、まるで弦を弾かれたかのように震える。
「……無理」
絞り出すような声で、ようやくそう答えた。
「これは、私が捨てなきゃいけないの」
再びベースに手を離そうとした瞬間、少女がその腕を掴んだ。
「なんで? こんなに綺麗な音を出す楽器を、なんで捨てなきゃいけないの?」
まっすぐな瞳で問いかけられた。
その言葉は、綾乃がずっと見ないふりをしてきた心の傷を容赦なく抉るようである。
「……もう、音楽なんてやらないから」
それが、綾乃が言える精一杯の言葉だった。
しかし、少女は悲しそうに微笑む。
「大丈夫。私、ギターもベースも何も弾けないけど、歌なら歌える。歌なら、誰にも負けない自信があるから」
そう言って、彼女は目を閉じ、力強く歌い始めた。
それはまるで、魂を揺さぶるような、圧倒的な歌声。
その歌声は、綾乃の閉ざされた心に、たった一筋の光を差し込んだ。
この瞬間の出会いが、綾乃の止まっていた時間を再び動き出そうとするのであった。
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