桜と成った魔女
_____「いいですか?グレイ」
今でも、夢に見ます。貴方の、触れるその手の温もりも、少し冷たく、されど相手を気遣うような声も、貴方のその春の木漏れ日のような温かさのある瞳も、私は忘れることができませんでした。
何時も、慈愛に満ち溢れた瞳で、母様は私の頬に触れてくださいました。
その瞳の温かさが、その手の温もりが、いじらしくて、くすぐったかったのを今でも覚えております。
母様の言葉は、一門一句覚えております。
忘れる事など、私には到底できませんでした。
それほどまでに、母様が私にくれた物は人生を根底から変えてしまうほどのものでした。
それは、最早、私の人生そのものだったのです。
そう思ってしまうほどに、母様の存在は、私の中で大きく、一番はっきりと象っておりました。
母様は、私の頬を撫でながらおっしゃいました。
_____「私は死んだら、桜となります」
他の人が聞いたのならば、気でも狂ったのか、だの頭の可笑しい人だと言い、馬鹿にすることでしょう。しかし、私にはどうしてもそれが嘘には思えなかったのです。
何故ならば___この世には、所謂『魔法』と呼ばれるものが、確かに存在するからでございます。
魔法は、魔力を持つ者にしか扱えず、その希少さと、何よりも危険性故に、『魔力者』は迫害され、現代でも投獄対象でございます。
捕まったら、何をされるかなど、想像しただけで身の毛がよ立ち、髪が逆立ちます。
そんな『魔力者』の代表例と言ったら、百人中九十人は『魔女』と答えることでしょう。
ええ、ええ。もうお察しの方も居らっしゃると思いますが、母様のことでございます。
そして、母様に拾われた私もまた、『魔力者』に分類される人種でございます。
母様に拾われていなければ、今頃、何か恐ろしい獣の血肉となっていたに違いがありません。
だからこそ、私は母様を敬愛し、忠誠を誓い、崇拝しているのです。
それ故に、私にとって、母様は、命の恩人であり、母親のような存在であり、私の人生そのものと言っても過言ではございません。
母様にとって私は、ただの拾い子に過ぎないかも知れません。
ただの気まぐれで拾った、ただの薄汚ない子供かもしれません。
それでもーー母様の為ならば、この命、惜しくはないと、そう心の底から思っております。
…それほどまでに、私は母様のことを、ただ信じて疑わなかったのです。
「さくら、でございますか?」
私はまだ幼かったため、母様の「桜になる」と言う言葉に、態とらしく首を傾げ、上手く回らぬ舌に苦戦しつつ、そう聞いた、とは一概に断言することは出来ませんが、確かにそう尋ねたような、そんな覚えがあるのです。
そんな私に母様は、まるで小鳥が歌を歌うような、そんな可憐でき着心地のよい声で、くすくすと、可愛らしく笑っておられました。
まだまだ幼かった私を、誰よりも慈しむような瞳で、母様は見下ろし、私に言い聞かせるように、囁きました。
「ええ、そうです。春を彩る、あの美しい桜となるのです。」
子守唄を歌っているような、そんな聴き心地の良い声でした。母様は、うっそりと頬笑みを浮かべて、ぷかぷかと宙に浮かんでいるような、そんな心地で言うのです。
「桜となり、私は春を彩るのです」
それは、美しい願いだ、と私は幼心で思いました。
何とも、薄っぺらい感想しか覚えられなかったのは、私はまだ未熟者であり、知識の乏しい人間であったからだと、今となってはそう思いました。
――――――――
まだまだ夏の暑さが残り、葉は、どの色にも染まりきらぬまま、風に揺られておりました。
そんな、中途半端な季節の、ある日のことでした。
母様は、風に攫われそうなほどに、軽くなっておられました。
ただ、いつものように、ロッキングチェアに腰掛けて、ゆらゆらと揺れ、まるで生きているかのように振る舞っておられました。
ただ、虚ろで何も映すことの無い瞳に、動けなくなった私はーーその瞳に、恋をしてしまったのです。
絵画と言っても過言ではないほどに、美しく、完成されたその光景に、ただただ私は心を奪われ、遂には思考すらも捧げてしまったのです。
その、あまりにも神聖な場所を、私は穢すことが出来ずに、今も尚、息を止めることを神様に許されてはおりませんでした。
それからというもの、母様は、少しずつ、静かに乾き始めました。
やがて、その御姿は、最早人とは呼べぬものへと変わっていったのです。
手足は、まるで木の根のように長く、太く、脈打っており、その場に根付いておりました。
母様の、シルクのように美しかった黒髪は、抜け落ち、見る影もありませんでした。
私が触れるようなこともしていないのに、母様のお腹は徐々に裂けていき、しまいには、ぽっかりと穴を開けてしまいました。
しかし、不思議なことに、その真っ黒な穴から、何かが芽吹いておりました。
瑞々しい緑でした。
……まるで、命が、そこに戻ってきたかのような――
そんな、錯覚を覚えました。
まるで、神様の出来ていく工程を見ているような光景でした。
――――――――
辺り一面が真っ白になり、吐く息も白く染った、本格的に寒くなり始めた時期のことでした。
また、いつものように母様の様子を見に行き、思わず息を詰まらせ、目を見開いたまま、失礼もを顧みず、母様を凝視してしまいました。
母様は、桃色に染まっておられました。
神秘的な光景でございました。
ロッキングチェアの下は、まるで絵の具を零したかのように真っ白にも関わらず、点々と、桃色が白を染めておりました。
なによりも、母様は、桜となったのです。
他のどの桜よりも、力強くその場に根を張り、狂い咲いておりました。
ハラハラと降る雪すらも、桃色に変え、母様は確かに、夢を叶えておられました。
なんと、美しい光景だったか。筆舌に尽くしがたく、この世にある言葉全てを並べても足りません。
それは、何とも奇妙で、そして……なんとも、美しかったのです。
私は、思わず、宙に舞った一枚の花弁を手に取ります。
懐かしい温もりを、この花弁に、確かに感じたのでした。