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「ところで竜舎の掃除をしてるって?」
レクスは話題を変えてエステルに尋ねてきた。廊下を歩く他の生徒たちは、擦れ違いざまにエステルたちの様子を目を丸くして見ていく。混血と王子の組み合わせは異常に思えるのだろう。
他の生徒たちの視線を受け、エステルは居心地の悪さを感じてうつむきつつ答えた。
「昨日、掃除係に任命されたんです。元々雇われていた掃除係の方が体調不良でしばらくお休みするらしく、代わりが必要だと」
「教師から頼まれたのか? なぜ君に役割が回ってきた?」
「え? えと……」
レクスの声も顔も少し怖くなった気がして、エステルは怯んだ。それに気づいたレクスは「ごめん」と言ってから質問し直す。
「どうして君が掃除係になったの?」
「先生に頼まれたので引き受けただけです。大変ですけど、楽しいですよ」
何となく教師を庇わないといけない気がして、エステルは後半の言葉を付け加えた。
するとレクスの友人である褐色の肌に短い黒髪、レクスより少しだけ背の高い男子生徒が驚いて声を上げる。
「楽しいって? 臭くて汚いドラゴンのフンの掃除が?」
「いえ、えっと、運動にもなりますし、調教師の男性がとても良い人で、お喋りしながらやるのは楽しいんです」
エステルは学園に友達がいないが、リックはエステルが混血であることを気にすることなく話してくれた。
「調教師の男?」
小さく低い声でレクスが呟く。近くにいなければ聞こえなかったかもしれない。
エステルがレクスを見上げると、彼は窓の外を見て真顔で何か思案しているようだった。そして数秒後にエステルを見てにこやかに言う。
「そんなに楽しいなんて少し気になってきたな。私もそのうち竜舎に見学に行かせてもらうかもしれない」
「えぇ!? 掃除のですか?」
「そう」
にっこり笑ったまま頷くと、「じゃあまたね」と言ってレクスたちは去っていった。
「まさか殿下が竜舎の掃除に興味を持たれるなんて……」
エステルは彼らの後ろ姿を見ながら、唖然として呟いたのだった。
放課後になり、体操服に着替えて竜舎に行くと、小屋の前にレクスが立っていた。エステルは一瞬目を疑ったが、古びた竜舎が全く似合わないあの美麗で少し冷たそうな容貌の男子生徒はレクスしかいない。学園の白い制服も元々上等なものではあるが、レクスが着ているとさらに上品に見える。
レクスは昼間『〝そのうち〟竜舎に見学に行かせてもらうかも』と言っていたが、早速来たようだ。
驚いたし、王子にフン掃除の様子を見学してもらうなんて申し訳ない気持ちがあるが、レクスと放課後も会えたのは嬉しかったので、エステルは笑顔でレクスのもとに走った。
「殿下! 待っていてくださったんですか? 来るのが遅くなり申し訳ありません」
「いや、私も今来たところだよ」
嬉しくて笑顔になっているエステルを見て、レクスも柔らかく笑って答える。
食堂では幽霊のようだったが、もうすっかり元気を取り戻したようでエステルは安心した。
「では殿下は扉の外で見学されますか? 靴が汚れてしまうので中には入らない方がいいと思います」
「そうか」
勝手が分からないからか、レクスは素直にエステルの言うことを聞いて扉の前で立ち止まる。一方エステルは鞄を外に置くと、扉が開け放たれたままの竜舎の中に入り、すでに作業を始めていたリックに声をかけた。ドラゴンたちは今日も放牧中でいないようだ。
「リックさん、こんにちは。今日もよろしくお願いします」
「エステルちゃん、よろしく。……あれ? 彼は?」
エステルの後方、扉のそばに立ってこっちを見ている男子生徒に気づいてリックが尋ねた。
しかしエステルが紹介するより先に正体に気づいたようで、だんだんリックの顔が引きつっていく。
「え? あれってレクス殿下では? この国の王子の……」
レクスに聞こえないよう小声で言う。リックは竜舎にこもってドラゴンの世話をしているだけでなく、ドラゴンの操り方や生態を教える授業をすることもあるらしいので、レクスのことを認識していたようだ。
エステルは元気よく言う。
「はい! レクス殿下です。リックさんも殿下のお顔は知ってらっしゃったんですね」
「そりゃ知ってるよ。授業もしたことあるしさ。とにかく挨拶しておかないと」
わたわたと掃除用具を置いてレクスのもとへ駆け寄ると、リックは頭を下げて挨拶をし、用件を尋ねた。
「それで……竜舎に何かご用でしょうか?」
するとレクスはリックをじっと観察した後で、親しみやすさがあまりない口調でこう答えた。
「エステルが掃除係になったと聞いたから見学しに来ただけだ」
「そ、そうなんですか」
そこでリックはエステルの方を振り返ると、緊張でカッと目を見開きながら小声で尋ねてくる。
「エステルちゃん、殿下と親しいの?」
「いえいえそんな、親しいというほどでは! 混血の私に気を遣ってくださって、ありがたくも優しくしてもらっています」
エステルがそう答えるとレクスは不満げな顔をして何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わずに唇を閉じた。
リックはエステルとレクスの正確な関係を把握できていなかったが、レクスの機嫌をうかがいながらおずおずと言う。
「彼女が掃除している様子を見学されるということですね」
「ああ、私のことは構わなくていい」
「分かりました。……じゃあエステルちゃん、掃除しようか」
リックは非常にやりにくそうに掃除を開始した。エステルも長靴に履き替えて作業に加わる。
二人で床に散らばった藁やフンを集めながら、リックはひそひそと質問してくる。
「エステルちゃんって混血なの?」
「はい。竜人の血は八分の一しか入っていません」
「そうなんだ。気づかなかった。まぁどうでもいいけどさ」
リックの返答にエステルは安堵した。混血だと分かると途端に態度を変えて見下してくる竜人もいるからだ。
「でもレクス殿下って確か純血主義だよね?」
「はい、そうですけど……でも混血がいじめられたりすることは望んでおられないようです。いじめられていた私を助けてくださったりして、良い方なんです」
「ふぅん、何かよく分からないな」
「私も最初は混乱しました」
レクスに聞こえないように話しながら掃除を続ける。
リックは少し考えた後で心配そうに尋ねてきた。
「混血だから良いように使えるってことで、助けてくれたわけではない? 助けてもらった後でこき使われたりはしてない? 今も自分の使用人が真面目に働いてるか監視しに来た感じじゃなくて?」
純血主義者の王子が混血に優しくする意味が分からず、リックは自分の中で何とか納得のいく理由を作り出した。
エステルはそんなふうに思ったことはなかったが、レクスがここに来た理由として『エステルの働きぶりを監視しに来た』というのは、『竜舎の掃除に興味を持ったから』という理由よりしっくりくる。
「で、でも、私はレクス殿下にこき使われたりしてないです。そんな方じゃないと思うんですけど」
レクスは良い人だと自信を持って言えるが、その自信は恋心から来ているものなのかもしれない。恋は盲目と言うし、客観的にレクスの人となりを把握できているかどうかは分からなかった。
と、二人でこそこそ話していると、レクスがいつの間にか竜舎の中に入ってきて不機嫌そうに言った。
「私も手伝おう」
レクスはリックの持っていた藁をすくうフォークに手をかけている。
リックは驚いてすっとんきょうな声を出す。
「うぇぇ!? 手伝うって、掃除をですか? でもここにはフンもたくさん落ちてますし、靴が汚れてしまいますよ。何より殿下に掃除だなんて……っ」
エステルはリックの気持ちがよく分かったので、リックと一緒に顔を青くして震えた。レクスに竜舎の掃除をさせるなんて、それだけで何か罪に問われるんじゃないかと思うのだ。本人が希望しようと周りの竜人が許さないのではないか?
エステルは慌ててレクスを止める。
「ででで殿下、おやめください。私たちが『殿下に掃除をさせた罪』に問われてしまいますっ!」
「そんなものはないよ」
レクスはエステルにクスッと笑った後、リックに向かって続けた。
「いいから、手伝うと言っている。君は調教師としての仕事もあるだろう」
「いえ、今はあの、ドラゴンも放牧中ですし……」
「では竜具の手入れは完璧か?」
完璧かと聞かれると自信がなくなったのか、リックはスーッと息を吸ってレクスに持たせまいとしていたフォークから手を離した。
そして顔をこわばらせたまま懇願する。
「殿下、せめて長靴を履いてくださいませんか? 粗末な長靴ですが、あちらに予備の新品があります」
「分かった、履こう」
「ありがとうございます!」
リックは声を高くして喜んだ。レクスは制服姿のまま長靴を履いてエステルのそばに戻ってくる。
「じゃあ始めようか。汚れた藁やフンを運べばいいんだね?」
「はい、そうですが……本当にされるのですか?」
「ああ」
レクスが作業を始めたので、エステルも戸惑いながらも動き出す。せめてフンは自分が先に全部取ろうと、スコップを持って集めて回った。
(本当に良い方……)
掃除を続けながらちらりとレクスを見て思う。そしてさっきリックに言われたことを思い出した。
『混血だから良いように使えるってことで、助けてくれたわけではない? 助けてもらった後でこき使われたりはしてない? 今も自分の使用人が真面目に働いてるか監視しに来た感じじゃなくて?」』
だがレクスはエステルをこき使うどころか、こうやって掃除を手伝ってくれている。だからやはりレクスは善意でエステルを助けてくれたのだろう。
(掃除なんて一生しなくていい身分なのに、嫌がらずにやってくださって……)
真剣に作業をしているレクスを見ると、尊敬すると共にキュンともする。やっぱり自分はこの人が好きだなと思った。制服に長靴という変な格好だし、やっていることは竜舎の掃除で別段格好良いことでもないのだが、すごくグッとくるのだ。一生懸命やっている姿に惹かれるのかもしれない。
(好き。すごく好き。格好良い)
エステルはスコップの柄を両手で握って目を閉じた。掃除をしているレクスを目にしただけなのに彼への好意が溢れ出してきてしまった。キュンとするポイントが自分でも分からない。