7 竜舎の掃除
エステルは放課後、学園に併設されている小さな竜舎に来ていた。小さな、と言ってもドラゴンが休めるだけの大きさは必要なので、高さもあり広い。ただ学園の竜舎にはドラゴンが三頭しかいないので、立派な校舎と比べれば小さかった。
「よし!」
汚れてもいい体操服に着替えたエステルは、少し興奮しつつ竜舎の前に立つ。エステルは昨日、いきなり担任から竜舎の掃除係に任命されたのだ。
貴族の子女たちに掃除なんてさせられないし、教師からすればエステルが一番仕事を押し付けやすかったのだろう。元々掃除担当の男性を雇っていたらしいが、今は体調を崩して休んでいるため、彼が復帰するまでエステルが仕事をしなければならないらしい。
いつ彼が復帰するかは分からないようだし、放課後は勉強もしたいのにと最初は不満に思ったが、ドラゴンと触れ合える良い機会だと思い直した。
(ちょっと怖いけど、学園のドラゴンはよく調教されてて大人しいらしいし……きっと格好良くて可愛いわ)
ここにいるドラゴンは、授業でドラゴンの生態を学んだり騎乗の練習をしたりする時に使うようだが、エステルはまだそういう授業は受けていない。ドラゴンを間近で見るのは初めてだった。
(楽しみ)
わくわくしつつ開け放たれたままの竜舎の扉に近づく。しかしドラゴンたちを驚かせないようにそっと中を覗くと、そこにいたのは作業服を着た青年が一人だけだった。竜舎は四つに仕切られていたが、その小部屋にドラゴンたちはいなかったのだ。
「君が掃除係の子? 女の子か。大丈夫かな……」
掃除にも体力がいるのか、青年は心配そうに呟いた。
エステルは頭を下げて挨拶する。
「初めまして。二年のエステル・ドールです。よろしくお願いします」
「よろしく。僕はリック。ここのドラゴンたちの調教と世話をしてる」
リックは一見学生に見えたが違うらしく、ちゃんとした調教師で歳は二十五らしい。明るい茶色の短い髪をしていて、身長は平均的、気さくで話しやすい雰囲気だった。
「あの、ドラゴンたちは……? 三頭飼育されていると聞きましたが」
「ああ、みんな今は放牧場に行ってるよ。学園から少し離れたところに森があるだろ? あそこまで飛んで行ってるんだ。ちゃんと時間になったら戻ってくる」
「へー、賢いんですね」
エステルが感心して言うと、リックはこう返した。
「三頭とも大人だからね。性格も落ち着いてる子ばかりだし。あ、でも今一頭妊娠してる子がいて……といってもドラゴンは卵生だからお腹にいるのは胎児じゃなくて卵だけど。とにかく彼女は最近気が立ってるから気をつけて。お腹で卵がどんどん大きくなってるなんて分かってないからさ、体調もいつもと違うしイライラしてるんだ。今はそのドラゴンは授業にも出してないんだよ」
「そうなんですか。でも、ということはもうすぐ赤ちゃんが見られるんですか?」
エステルが瞳をきらめかせて尋ねる。
「いや、産卵まであと一ヶ月くらいで、孵化まではそこからさらに一ヶ月かかる。だけど生まれて、母親と赤ん坊の体調が安定したら学園の生徒たちにもお披露目できるよ」
「わぁ、楽しみです!」
思わずパチパチと拍手してしまった。そんなエステルを笑いつつ、リックは続ける。
「妊娠してるのは赤い体色の子だよ。でも気をつけてって言っても、君が掃除に来る放課後はドラゴンたちは基本的に放牧中のことが多いし、僕も掃除の手伝いや餌の準備で竜舎にいるから特に心配しなくていいけど」
「そうなんですか……」
「どうしてがっかりしてるんだい?」
首を傾げるリックに、エステルは照れ臭そうに返した。
「いえ、あの、ドラゴンと仲良くなれたらなってわくわくしてたので」
その答えにリックは軽く笑い声を上げる。
「ドラゴンたちは疲れたら早めに放牧から帰ってくるし、そのうち会えるよ」
「楽しみです」
そんな会話を終えると、リックは掃除用具が置いてある場所にエステルを案内してくれた。と言ってもシャベルや箒、わらを運ぶフォークなどが竜舎の中の壁に立て掛けてあるだけだったが。
「掃除用具はこの辺使って。靴が汚れてしまうから長靴も貸してあげるよ。ドラゴンのフンの掃除とかもしてもらうけど大丈夫? 来るとしても男子生徒が来ると思ってたからびっくりして。君、この学園の生徒ってことは貴族のお嬢様とかじゃないの?」
リックの問いかけにエステルは素早く首を横に振る。
「いえ、違います! 一般庶民です。フンの掃除もやりますよ。妊娠中で体調が優れない子がいるなら尚更張り切ってやります。綺麗なお部屋で少しでも快適に過ごしてもらいたいですから」
「良い子だねー。大変だけど、頼んだよ」
リックは笑顔でそう返すと、エステルに竜舎の掃除の仕方を教えてくれたのだった。
一時間ほどかかって竜舎の掃除を終えると、エステルはタオルで汗を拭いて息をついた。掃除の主な内容はドラゴン三頭のフンと汚れた藁の掃除、そして床のブラシがけだ。リックも手伝ってくれたが、体力もいる大変な仕事だった。
「でも楽しかったです」
エステルが笑顔で言うと、リックは驚いたようだった。
「こんな仕事もうやりたくない! って、明日から来なくなることも覚悟してたんだけどな」
「いえ、掃除は大変ですが体を動かすのは楽しいです。勉強ばかりしてるとじっと座って動かないので。竜舎を綺麗にしながら体力もつけられるなんてお得です」
「変わった子だなー。でも楽しんでやってくれて俺も嬉しいよ。明日からもよろしく」
「はい!」
長靴を洗い、靴を履き替え、掃除用具も片付けてリックと別れると、エステルは竜舎の外に置いておいた鞄を持って校門に向かう。すでに夕方だが、初夏に差しかかろうかという季節なので外は十分明るかった。
「思ったより服は汚れなかったわ」
特にフンはついていそうにないが、もしかしたら臭いはついているかもしれない。しかしフンの臭いに慣れてしまったせいか、自分の服を嗅いでも臭さが分からなかった。
「帰ったらこの体操服を洗って、夕食前に少し勉強して……」
帰ってからの予定を呟きながら校舎に沿って歩く。しかし建物の角を曲がって校門が見えてきたところで、ふと視界に他の生徒の姿が映った。
生徒は三人いて、玄関の外で何やら話をしている。
(あ、レクス殿下とご友人方!)
三人はこちらを向いていなかったが、髪型や背格好からすぐに誰だか分かり、エステルはパッと嬉しくなった。レクスの姿を遠くから見られるだけでも幸せなのだ。
レクスは友人二人――紫のボブヘアの女子と褐色黒髪の青年――と一緒にいて、馬車を待たせたまま手持ち無沙汰に立っている。
(何をしてらっしゃるのかな)
三人で立ち話はしているが、話が盛り上がってなかなか帰れないというほどでもなさそうだ。
「いつまで勉強してるんだ? ってか本当に勉強してるのか?」
褐色黒髪の青年が暇そうに言うと、レクスはこう答えた。
「それ以外に校舎に残る理由がないだろうからな」
「お友達もいないようだしね」
ボブヘアの小柄な女の子は、嫌味な感じなくあっけらかんと言う。
(誰かを待ってるのかな?)
そう思いながらエステルは立ち止まった。レクスに挨拶したい、が、馴れ馴れしく近づくことはできないと迷って足を止めたのだ。
(というか、竜舎の掃除をした後だから尚更レクス殿下に近づけないわ)
体操服や髪に臭いがついていて、レクスに臭いと思われたら悲しくて立ち直れないだろう。
エステルがそう考えた瞬間、レクスはふとこちらを振り返った。つられて友人たちも同じ方を見る。と同時にエステルはとっさに踵を返し、校舎の影に隠れた。
「思わず逃げちゃった……」
服は臭いかもしれないし、汗もかいて髪も乱れている。こんなふうに状態が良くない状況で好きな人には会いたくない、と恋する乙女らしいことを思って体が動いてしまった。
「いやでもよく考えたら失礼過ぎるわ。レクス殿下の顔を見た途端逃げ出すなんて!」
顔を青くしてエステルは少し逡巡した。
(どうしよう。やっぱりもう一度出て行ってちゃんと挨拶しないと。目が合ってしっかりこちらの顔を見られた気がするし……。臭いと思われないように少し距離を取れば大丈夫かしら?)
汗で張り付いている前髪を両手で賢明に整え、後ろ髪も手櫛で梳く。藁がついているかもしれないと体操服をパンパン叩き、「よし」と自分に掛け声をかけてから建物の影から出た。
が、その時すでにレクスたちは、そばで待たせていた黒塗りの馬車に乗り込んでいる最中だった。誰もこっちを見ていない。
「元気出して。何かの間違いよ、きっと」
「そうそう、そんなに落ち込むなよ」
肩を落としたレクスが馬車に乗り込み、友人たちも何やらレクスを励ましながらそれに続く。御者が扉を閉め、御者台に座ると、馬車は滑らかに走り出した。
「レクス殿下、何かあったのかしら?」
エステルは心配して呟く。彼ら三人が放課後この時間まで残っていたのは、もしかしたらレクスが気落ちするような何かが日中に起こり、友人たちが話を聞いて励ましていたからなのだろうか?
(私のことは怒っておられないようでよかったけど……)
ホッとしたような寂しいような気持ちで思った。目が合ったと思ったが、エステルのことなんてレクスは気にしていなかったようだ。一人であたふたしていたことが恥ずかしくなる。
「でも本当に心配だわ」
一体レクスに何があったのだろうと、エステルは心から心配したのだった。
翌日、エステルは寝不足の状態で学園に向かった。レクスに何があったのだろうと気になってよく眠れなかった。
(殿下には幸せでいてほしいのに)
昨日、レクスが落ち込んでいる様子を見て、自分の今一番の願いがそれになっていることに気づいた。レクスが自分に振り向いてくれなくてもいい、結ばれなくてもいいから彼には幸せでいてもらいたいのだ。レクスが辛そうだとエステルも胸が引き裂かれそうになるし、レクスが悲しんでいるとエステルもきっと泣いてしまう。
(何とかレクス殿下には幸せになってもらわなきゃ)
それが自分の幸せにも繋がるのだ。
ちっぽけな自分がレクスのために何か出来るとは思えないけど、いても立ってもいられないので、レクスに会ったら昨日何があったのか尋ねてみようと考えた。
(レクス殿下に確実に会えるのは昼の食堂。そこでどうにか話を聞けないかしら?)
そうして昼になるとエステルは一番乗りで食堂に入った。食事を注文し、トレーを持って長テーブルのいつもの席に座るとゆっくり食べ始める。他の生徒たちも続々と食堂にやってきて、席が八割ほど埋まったところでレクスと友人たちも現れた。
(来た!)
エステルはフォークを持つ手を止めてレクスの様子を観察する。遠くて分かりにくいが、目の下に隈ができているように見えた。表情に元気はなく、視線を床に落としたまま歩いている。肌の白さも相まって、ゆらゆらと彷徨う美しい幽霊のようだ。
今日は四人いる友人たちから肩を叩かれたり励まされている様子だが、レクスは反応していなかった。
弱っているレクスは妙に色気があってエステルは思わずドキドキしてしまったものの、すぐに不安と心配の気持ちが心を覆う。
(もしかしたら今日は元気を取り戻しているかもと期待したけど、全くそんなことなかったわ。むしろ酷くなってる)
レクスがここまでダメージを受けるなんて、一体昨日何があったのかとますます気になってしまう。
と、レクスがふとこちらに虚ろな目を向けてきたので、エステルは会釈をした。が、一秒と経たずにレクスは視線をそらしてしまったので、エステルの会釈は誰にも届かなかった。
視線のそらし方がエステルから逃げるような性急な感じだったが、気のせいかもしれない。
(すぐにでも話しかけに行きたいけど、〝あちら側〟に行く勇気がない)
エステルは顔をこわばらせつつ、食堂の左側――王族であるレクスや地位の高い貴族の子女たちが座る丸テーブルの席を見つめた。学園の中でも最底辺にいるエステルには、食堂の中央を越えていく度胸がなかった。
レクスと自分しかいないならともかく、食堂には大勢の生徒がいるので、エステルがレクスに話しかけたりすれば注目の的になる。義姉のロメナにもきっと目撃されてしまうだろう。
結局、エステルは食堂ではレクスに話しかけずに、彼らが食事を終えて教室に帰る時を狙った。後ろからついて行き、人通りの少ない廊下で勇気を振り絞り声をかけたのだ。
「あのっ! レ、レクス殿下……!」
レクスは優しいと分かっているが、こちらから声をかけるなんて緊張して死んでしまいそうだった。それでも勇気を出したのは、やはりレクスのことが心配だからだ。独りよがりな想いではあるが何もせずにいられなかった。
エステルが声をかけるとレクスはぴたりと足を止め、驚いた顔をしてゆっくりこちらを振り返る。レクスと一緒にいた友人四人もエステルの方を見て少しびっくりしていたが、緩いウェーブの金髪の美人だけはすぐに顔を歪めて嫌そうにした。
「あ、す、すみません、私なんかが声をかけてしまって」
レクスが驚いた顔をしているのは、混血で庶民のエステルなんかが声をかけたせいだろうと思い、とりあえず謝る。
「いや…………どうした?」
戸惑っているような間があった後、レクスが尋ねてくれたので、おずおずと尋ねる。
「いえ、あの、レクス殿下の表情が暗く見えたので、何かあったのかと心配になって……。私なんかが殿下を心配するなんておこがましいんですけど……すみません」
エステルは再度謝る。
「だ、大丈夫ですか……?」
固まっているレクスを見上げて恐る恐る聞くと、レクスの隣りにいた褐色黒髪の男子生徒がクククと笑って震え出した。
「いや原因……っ」
大笑いしそうになるのを堪えている様子で、震え声で呟いている。金髪の美人以外の二人も安心した感じで笑う。
エステルは彼らがなぜ笑っているのか分からなかったが、レクスがやっと言葉を発したので、まずはそちらに注目した。
「私は大丈夫だよ。君こそ昨日、様子が……いつもと違ったように感じたが」
「昨日ですか?」
「そう、昨日。放課後、玄関のところで……」
「あ! も、申し訳ありません!」
目が合ったのに逃げたことを言われているのだと察して、エステルはまた謝った。そして慌てて言い訳する。
「あの時、私竜舎の掃除を終えたばかりで! フンの掃除もしたので汚れてましたし、臭いも移ってるんじゃないかと思って、その状態でレクス殿下に近づくのは失礼だととっさに踵を返してしまって……!」
エステルが必死で言うので、それが嘘でないことはレクスにも伝わったようだ。レクスは静かに息を吐くと、肩の力を抜いてほほ笑んだ。
「そういうことか」
「逆に失礼なことをしてしまってすみませんでした!」
「いやいいんだ。そういうことなら、いいんだよ」
しおれていた花が水を与えてもらって蘇ったような、そんな雰囲気でレクスの表情は明るくなったのだった。