63
負傷したレクスは、炎の精霊ヴェーダや他の精霊たちから離れたところで騎士たちによってドラゴンから降ろされ、地面に寝かされた。
「殿下!」
そこへナトナと共に到着すると、エステルは真っ青な顔をしてレクスの頬に手を当てた。
「レクス殿下!」
「エステル……」
レクスは痛みに表情を歪めつつも、段々と顔色は白くなり、視線はぼんやりしていった。意識を保つのもやっとなのだろう。
レクスの右脇腹からは大量の血が滲み出ていて、騎士たちが緊迫した様子で布を当てているが、その布もどんどん赤く染まっていた。
「一体何が……」
「あの炎の精霊が尾を振り回して小屋を砕き、その瓦礫が飛んできたのです」
エステルの呟きに騎士が答えた。飛んできた瓦礫に当たったのはレクスだけではないようで、騎士の中にも腕や頭を負傷している者がいたが、みんな自力で歩いていてそれほど酷い怪我ではないようだ。一番深刻な被害を受けたのがレクスらしい。
「治癒魔法をかけてもらわねば無理だ! ルージェ殿はどこだ!」
「怪我をした民間人の手当てに……」
「すぐに呼んでこい! 緊急事態だ! 治癒魔法が使えれば他の魔法使いでもいい!」
騎士の一人がほとんど怒鳴り声に近い音量で指示を出し、他の騎士がバタバタと動き出す。場は混乱していてみんなが慌てていた。それはエステルにとって、レクスの容態が危機的なのだと判断するのに十分な状況だった。
「レクス殿下、どうか……」
エステルは縋るようにレクスの顔を覗き込むが、レクスは気を失うようにまぶたを閉じてしまった。
「殿下!」
悲鳴のような声を上げ、エステルは凍りつく。そしてレクスからかけられた優しい言葉の数々が頭に浮かんでは消えていく。
『努力家なところも尊敬しているんだ』
『混血であるからこそ素敵だと思っている。人間と竜人のいいところを両方持っているんだよ』
『エステルの瞳は光を閉じ込めたようにきらめいていて綺麗だね』
『醜いところなんて一つもないし、エステルの全てが愛おしい』
その言葉はどれも宝物で、思い出すだけで心を温かくしてくれる。
レクスのおかげでエステルは自分に自信を持てたし、自分を愛せた。
レクスを失う恐怖が限界を超えたのか、エステルの心は今度はやけに静かになってきた。
エステルはレクスを見つめて考える。番だからじゃなく、愛する人だから守りたいと思う。
「危ない!」
エステルが黙っている間にも精霊は周りで町を破壊していて、また瓦礫が飛んできたようだった。騎士がとっさに庇ってくれたが、それより早くナトナがベールを張る。黒いベールはエステルとレクス、それにドラゴンや騎士たちのことまで包み込み、瓦礫からみんなを守ってくれている。
(さっきより大きなベール。私が何度も危険な目に遭うから、ナトナもどんどん力を成長させてくれている。ありがとう……)
エステルは視界の端にいるナトナに心の中で感謝する。ナトナは四つ足で立って集中しながらベールを維持していた。
「レクスは大丈夫か」
そこへハーキュラもやって来て、ベールの中に入って声をかけてくる。そして騎士たちから容態を訊くと、普段より固い声で言った。
「私に癒やしの力はない。できるのは攻撃くらいだ。何とかレクスを助けたいが……」
ここにいる全員が何とかレクスを救いたいと思っていながら、ただ治癒魔法の使える魔法使いの到着を待つしかできない中で、エステルは深呼吸を一つすると冷えた頭で考えた。
(私たちサーフィアの一族が精霊を作り出すには、危機的な状況や恐怖が必要……。いえ、きっとそんなことない。精霊はもっと優しくて平和的な存在で、こちらが求めれば助けてくれる。大事なのは、あなたが必要だと求めること)
レクスのことを心配するあまり、気を抜けば一瞬で叫び出して取り乱しそうになる心を沈めて、冷静に呼びかける。
「どうか力を貸して。お願い。私の愛しい人を助けて……!」
焦る気持ちと同じくらい、上手くいくという確信もあった。極限の状態だからこそ、自分の魔力の流れをいつもより鮮明に把握できている。
エステルの魔力はふわりと周囲に広がって、近くにあった森の木々に届く。するといくつかの木が薄っすらと光を帯びて、その木から生まれ出るように幼い精霊たちが現れた。
やけにのそのそと動く、猿に似た動物の赤ちゃんが十匹。みんな目元を隠す黒いマスクをつけているかのようにその部分の毛色は黒く、精霊なので瞳はなかった。口はにっこり笑っているみたいで、愛嬌のある顔立ちだ。
「な、何だ?」
周りにいる騎士たちは突然現われた猿に驚いていたが、相手があまりにのんびりしていて敵意の欠片も持っていなかったので剣を抜いたりすることはなかった。
「急いで! お願い!」
一方、エステルはゆっくりと地べたを這ってこちらに向かってくる木の精霊たちを順番に抱っこしてレクスの元まで連れて行く。彼らは図鑑で見たナマケモノという動物に似ていた。
「騎士のみなさんも手伝ってください! 早く!」
「え? はい、ですが……」
「この子たちは精霊です! レクス殿下を癒やしてくれます。まだ赤ちゃんで力は弱いですが、十匹もいれば何とか……」
「精霊!?」
混乱しながら騎士たちも木の精霊を運んでいく。そして運ばれた精霊は、自分が何をするため生み出されたのか分かっている様子でレクスを取り囲んだ。
焦る気持ちはあるものの、エステルは番が瀕死という状況にしては冷静だった。
(だって絶対に助けると私が決めたんだもの。だから大丈夫。私の愛しい人を死なせはしない)
そうして精霊たちに「お願い」と指示を出すと、木の精霊たちはレクスを見つめ、それと同時に彼の体に変化があった。
血に染まる傷口がぼんやり光ったかと思うと、そこから次々に植物の芽が出てきたのだ。
「エステル、本当に大丈夫なのか? この者たちはあまりに幼過ぎて心配だ」
ハーキュラが声をかけてくるが、エステルには自信があった。
「レクス殿下を助けてほしいと、私が求めて生まれてきた精霊です。きっと癒やしの力は持っています」
エステルのその期待に応えるように、木の精霊たちはレクスの体に手を近づける。するとたくさんの芽は葉をつけながら二十センチほど伸び、そこでぴたりと成長が止まった。
精霊たちは集中を切らせてこてんと横になったり、レクスの髪で遊び始めたりしている。
「エステル、本当に大丈夫なのか?」
ハーキュラに再度尋ねられ、エステルは今度は自信なく木の精霊たちに尋ねる。
「これ、あの、どうするの? 血は止まったようだけど、殿下のお腹から芽が生えたままだと困っちゃうわ」
すると木の精霊たちは「?」という顔をしながら芽を見て、少し考えてからゆっくりと再び手を近づける。二匹遊んだままの子もいたが、残りの八匹が頑張って力を込め、伸びた枝が枯れて消えると、後には綺麗に傷の塞がった皮膚が見えた。
「治っている!」
「すごい!」
騎士たちが歓声を上げ、エステルもひとまず安堵してへなへなと座り込んだところで、治癒魔法が使えるという中年女性の魔法使いが到着した。
「殿下! ……あら? 殿下が大怪我をされたと聞いたのだけど」
「はい、今、精霊たちに癒やしてもらって傷は塞がったようですが、完全に治っているか分かりませんし、念の為もう一度治癒魔法をかけてもらえますか?」
エステルが頼むと魔法使いは頷いてレクスの体を確認し、血に塗れた布の多さに顔をしかめた。
「こんなに血を流されたなんて……。これだけの傷を治すとなるとある程度長い呪文も必要だし、私では間に合わなかったかもしれないわ」
そうなっていた未来を想像してゾッと鳥肌を立てながら、エステルは木の精霊たちを抱き上げていく。
「みんな、ありがとう。助かったわ。良ければ怪我をした騎士たちのことも癒やしてあげて」
そう頼むと、木の精霊たちは血を流している騎士たちの元にのそのそと歩いていった。
一方、女性の魔法使いは歌うように長い呪文を紡いでいき、やがてその詠唱が終わると、レクスは全身を白い光に包まれる。
光は数秒持続し、鎮火するように消えていくと、レクスの血色があきらかに良くなっているのが分かった。
「レクス殿下!」
エステルが声をかけると、レクスはゆっくりとまぶたを持ち上げる。
おそらく木の精霊たちは傷を治して出血を止めたが、失った血の回復まではできていなかったようで、そこを魔法使いが補ってくれたのだろう。
レクスは普段と変わらぬ様子で起き上がり、エステルを見る。
「エステル? 私は……」
「殿下! 良かった!」
レクスに抱きつくエステルを見ながら、魔法使いがにっこり笑って言う。
「治癒魔法って魔力の消費が激しいのよ。私一人では殿下を完全に癒せなかったわ」
安心したように息を吐く魔法使いからは、疲れた様子が見て取れた。血を回復させるだけでもかなり魔力を使ったらしい。
一方レクスはその言葉を聞いた後、周りにいる木の精霊たちやエステルを見回して、気を失っていた間の出来事を大体察したらしい。
「彼らは精霊なのか? エステルが彼らを?」
自分の脇腹を確認して、服は無惨に穴が開いて血まみれなのに傷は綺麗に治っていることにも驚いている。
そしてエステルを改めて抱きしめて言った。
「君を残して死ぬ恐怖をはっきりと覚えているのに……こうして生きているなんて不思議だ。ありがとうエステル。ルージェにも感謝する」
女性魔法使いにも礼を言うと、レクスは立ち上がって町を壊し続ける精霊たちを見た。
「だがまだ問題は解決していない。ここからは私の力は届かないし……」
もう一度精霊に近づくべきかレクスが思案している横で、エステルも精霊を睨むように見上げて言う。
「町をこんなに破壊して、レクス殿下を傷つけるなんて……」
一瞬、番を傷つけられた竜人の本能が燃え上がりそうになったが、すぐに首を横に振って呟いた。
「いえ、でもこの子たちは支配されているだけ。何も悪くない」
「支配されている?」
ハーキュラはその言葉に納得して言う。
「なるほどな、それで長く生きているようなのに言葉も通じないのか」
「この子たちは『町を破壊しろ』と命令を受けているんです。だからそれを忠実に守ってる。でもきっと本当はこんなことしたくないはず」
ナトナの黒いベールで見にくいが、エステルはヴェーダを始めとした精霊たちを見上げて続けた。
「だから命令を都合良く解釈して、建物だけを破壊しているんです。『人を殺せ』という命令は受けていないから」
町の住民たちがみんな無事に逃げ出せているのも、精霊たちが見逃したからだ。
ハーキュラも頷く。
「私もそう考える。この者たちはひたすら家屋を壊すだけだ。おそらく自分たちを止めてほしいのではないだろうか。私もだいぶ魔力を消費してしまったが、どうにか全員倒してやらねば……」
「いや、ハーキュラは私を守ることに力を注いでくれないか? そして私はもう一度彼らに近づく」
ハーキュラを護衛につけたとしても、エステルはもうレクスに危険なことはしてほしくなかった。
だが誰かが精霊たちを止めなければならない。誰かが――
その時ヴェーダの雄叫びが周囲に響き渡り、エステルは瞳のない彼と目が合ったような気がした。
そしてその瞬間、自分が行かなくてはという強い使命感が心に満ちる。助けてほしいという幻聴が聞こえた。
(この子たちはルファールの精霊。だからつまり、私の先祖が作り出した精霊で間違いない。そしてそれならば、きっと私が解放してあげられる)
エステルは自分を助けてくれた風の精霊――仔イタチの姿をした精霊のことを思い出した。
(あの子は死んだのではなく、役割を終えて消えていった。私を守った後、レクス殿下が来たから安心して自然に還ったのよ。ナマズの姿をした水の精霊もそう。私がお礼を言った途端消えていった)
サーフィアのような一族に生み出された精霊は、助けてと願って作り出されている。つまり役割を持って生まれてきているのだ。
そして役割を終えたら消えていくが、ヴェーダたちは次から次へと仕事を与えられて感謝されることもなく、役割を終えたと思えるタイミングが一度もなかったのだろう。
(だったら、私が彼らの役割を終わらせてあげればいい。誰に支配されていても、生みの親の一族である私ならきっと解放させられる)
エステルはそう考えて、ナトナのベールの外へと歩み出た。
「エステル! 危険だ」
そう言いながらレクスもついてくる。一方、ナトナはエステルの覚悟を分かっている様子でその場に留まったまま、他の騎士たちを守っていた。
「エステル?」
真っ直ぐに精霊たちを見上げるエステルを、レクスはベールの中に戻すことはしなかった。
この距離でも十分想いは届くという確信があったので、エステルはナトナのベールから少しだけ離れた位置で止まって祈るように手の指を組んだ。
「ごめんね、たくさん働かされて辛かったでしょう。でももう自由よ。もういいの。誰も、何も傷つけなくていいのよ。強力な力は失うけれど、これからは目には見えない自然の一部として、安らかに、穏やかに時を過ごして。本当に今までごめんなさい、ありがとう」
エステルが目をつぶって強く祈った瞬間、暴れていた精霊たちは動きを止めて空を見上げた。死を待つ人が天からのお迎えに安堵したかのような、心底安心した顔をしている。
そうして精霊たちは金色に輝く光の粒子に変化していき、風に乗って明るい空に溶けるように消えていく。
「すごい……」
「なんと美しい」
後ろにいる騎士たちから感嘆の声が上がった。確かに幻想的で思わず見とれてしまうような光景だ。
精霊たちは消滅したわけではない。エステルの先祖が『精霊』の形にする前の状態に戻しただけ。
「これは私の想像ですが、自然界では目には見えないほど小さな光の粒が満ちているんだと思います」
目の前の光景に息を呑んでいるレクスにエステルは言う。
「サーフィアの一族はそれを集めて魔力を加え、精霊を作り出せる」
「すごい力だね」
レクスはエステルの腰を抱いて、金色が溶けていく空をまだ見上げていた。




