60 雲行き
(そもそも異国の賓客であるルファールにドラクルスの護衛はついていないのかしら?)
エステルは馬車の小窓にそっと視線を向けたが、すぐにルファールに気づかれてこう言われる。
「ドラクルス側の護衛でも探してる? 確かに私たちがこの国にいる間は護衛という名の監視が付いていたが、ナトナの力で操って、その騎士たちはとある場所で待機してもらっている。ナトナが離れて、今頃は正気を取り戻しているかもしれないけどね」
ルファールはそこでナトナをじっと見て続けた。
「心を操れる闇の精霊は便利だ。サーフィアの一族に作らせた精霊は火や水が多くてね。闇の精霊は我が一族の手持ちにはいなかったから嬉しいよ」
「ナトナはあなたのものじゃありません」
そう反論して、膝の上のナトナを隠すように両手で包む。
エステルが過去に精霊を作り出した時の状況――特に池に落ちて溺れた時のことを考えると、サーフィアの一族に作らせた精霊に火や水が多いというのは恐ろしい。きっとそれを使って拷問に近いことをして危機を感じさせ、精霊を作らせていたのだろう。
エステルは何とかルファールに考えを改めてもらいたくて言う。
「王子の婚約者を攫うなんて、これがきっかけで戦争になったらどうするつもりですか?」
庶民のエステルを攫われたなら、悲しいけれど全く問題にはならないだろう。だが王子の婚約者となると話は別だ。
しかしルファールはのんびりと返した。
「戦争に? そこまで行くかな。だって傍目から見ればエステルは自ら望んで私に付いてきたように見えるはずだ。自分で馬車に乗って、今も何の抵抗もしない。脅されて従っているわけでないことは、君と一緒に校門まで来たあの学園の教師が証言してくれるだろうし」
確かに教師は『レクス殿下より私を選んでくださいますね?』というルファールの言葉を聞いて、エステルがルファールと駆け落ちしたと勘違いしていてもおかしくない。というか、勘違いさせるためにルファールはわざと言ったのだろう。
「それに手紙だって残してきた。君の筆跡を真似て書かせた手紙をね」
「それ、一体何が書いてあるのですか?」
嫌な予感しかしないし答えは聞きたくなかったが、尋ねずにいられなかった。
するとやはり予想通り、こんな答えが返ってくる。
「エステルからレクスへの別れの手紙だよ。違う人を好きになったから後を追わないで、とかそんなことが書いてある」
「そんな手紙、レクス殿下は信じません」
エステルは強く言うが、ルファールは余裕の態度で続ける。
「そうだといいね。でなければ、エステルは〝人間の王子に簡単に惚れてしまって番であるレクスを捨てた女性〟として今よりもっと有名になってしまうだろうから。やっぱり混血は薄情だと、ドラクルスで差別が強まらないといいけど」
他人事のようにルファールはフッと笑い、次にはエステルを剣呑な目で見下ろして話す。
「でもたとえ戦争にまでなってしまったとしても、お前は必ずうちの国に連れ帰らなくてはならない。精霊を生み出せるというエステルの本当の力をドラクルスの者たちが知る前に、多少強引でも奪わなければならなかった」
ルファールがここまで必死になる理由は分かる。彼らの一族は別に精霊に好かれる魔力特性は持っていないから、普通に生きていても精霊が寄ってきてくれることはない。だから精霊を作れるサーフィアの一族無しでは何の力もないし、逆にサーフィアの一族さえいれば力を得られ、地位は安泰だ。
ルファールにとってエステルは絶対に逃がせない存在だろう。
「監視用の鳥を操っていた魔法使いからレクスに連絡が行って、今頃もう追手が来ているかな。それともエステルは私と駆け落ちしたと思われて、追いかけては来ないかな」
ルファールは小窓から空を覗き込み、言う。
「追手が来た場合、ドラゴンに乗って飛ばれると一気に追いつかれてしまうから、そろそろ私たちも次の手を打とう。王都も抜けてこの辺りは人もいないし、ちょうどいい林もある」
いつの間にか王都の街を出ていた馬車は、今は草原と畑に囲まれたのどかな街道を走っていた。平地が広がって建物もほとんどないこの場所で、確かに空から見下ろせば、この馬車と馬車を囲む騎士の隊列は簡単に見つかるだろう。
ルファールの合図で馬車は一旦停止したが、その後方向転換してゆっくりと街道を逸れていった。草原を進み、林の中まで入り込むとそこで停まる。木と木の間は比較的開いていて、馬車が通れる余裕はあった。
「ここから国境近くまで魔法を使って一瞬で移動する。本当は一気にアウェーサムに入りたいが、国境には大抵シールドが張ってあって魔法を使った移動はできないからね。今ならまだ国境にドラクルスの増援も到着していないだろうし、馬車ごと移動したらその後はアウェーサム王家の威光で押し切れる。国境警備の騎士が異国の王族を拘束するなんて、よほど強い命令がないとできない」
その命令も、エステルが自ら望んでルファールについて行った可能性が高い状況では、レクスも出せないかもしれない。
離れた場所にいる騎士とレクスが魔法を使って声だけで連絡を取っている場面を見たことがあるので、人を送らなくても国境警備の騎士に瞬時に命令を出すことはできるはずだが。
(私はもしもレクス殿下が他に好きな人を見つけたら、殿下の幸せを願って身を引くことを考えるかもしれない。レクス殿下も今、そんなふうに考えていたら……)
エステルがルファールを好きになって彼についていくのならその意志を尊重しなければと、必ず捕まえろという命令は出せないでいるのではと予想した。その優しさがエステルを不幸にするのは皮肉だ。
「一旦降りよう」
ルファールと一緒にナトナを抱いたエステルも馬車を降り、移動魔法の準備を進めている騎士たちをそわそわと観察する。上手くいかないでほしい、準備に時間がかかってほしいという気持ちを、ルファールのために全てが上手くいきますようにという偽物の感情が覆い尽くす。
見落としていたが、護衛の騎士たちに紛れて魔法使いもいたようで、中年のその魔法使いが指示を出して迅速に準備を進めている。魔法文字の書かれた幅広の長いリボンを、馬車を中心に周囲の木々に張り巡らせ、どうやら星と円を組み合わせたような形を作りたいらしい。
しかし全ての木がちょうど良い位置に生えているわけではないので歪になってしまい、調整に時間がかかっていた。紙に書くように綺麗な形を作ることは不可能だろうから完璧でなくても良いのかもしれないが、それでもなるべく整った形にしなければならないのだろう。
「手前のその細い木は切ってしまって、奥の木を使ったほうが良い」
ルファールも作業を見守りながら指示を出している。そしてその隙に、エステルはナトナを抱いたままそっと後ろに下がってルファールと距離を取った。
準備が完了してしまったら、国境まで一瞬で着いてしまう。そうなったらアウェーサムに入るのは容易で、レクスは簡単には助けに来られない。エステルの奴隷生活が決まったようなものだ。
エステルはルファールに同情してしまう気持ちを何とか押さえつけながら、ナトナを見て小声で懇願する。
「ナトナ、お願い……。どうか支配から抜け出して」
ナトナはエステルを見上げ、困ったような泣きそうな顔をしている。耳もしっぽもしょぼんと垂れて、どうしたらルファールの支配から抜け出せるのか分からずに、ナトナもエステルに助けを求めているように見えた。
「このままではナトナも生涯あの人に良いように使われてしまうわ。そんなのは嫌よ」
ナトナは自由でいてほしい。好きな時に寝て、好きなように外を駆け回って、自分の使いたい時だけ力を使って欲しい。陰謀や戦争の道具になんてさせたくない。
「ナトナ、心を強く持って。あの人に従っては駄目」
エステルが何とかナトナの魔法から逃れて正気を保ったとしても、ナトナが支配されている限り、何度でも心を操られてしまう。だからナトナがまずルファールの支配をはね除けてくれなければどうにもならないように思えた。
(私とナトナの二人が正常な心を取り戻したとしても、ルファールや騎士たちから逃げるのは難しいけれど……)
それでもこのまま素直にアウェーサムに連れて行かれるのは嫌だった。逃げられるという僅かな可能性に賭けて抵抗したい。
(この林の周囲には何もなかったけれど、馬車で三分ほどの場所には民家がたくさんあった。そこにどうにか逃げ込んで……いえ、でもそれじゃあその家の人に迷惑をかけるだけかも。最悪目撃者を消すために殺される。そもそも走ってそこまで逃げられるかどうか。やっぱりナトナに支配を逃れてもらって、ルファール殿下を操り返すしか)
頭の中で色々考えていると、落ち葉を踏みながら足音が近づいてきた。
顔を上げるとルファールがいて、眉尻を下げてほほ笑みながらこちらに手を差し出している。
「さぁ、エステル。もう移動できそうだよ。大人しくアウェーサムに来てくれるね? 君なしでは私は更なる力を得られない。だから協力してくれるだろう?」
困ったように言われて、エステルは思わずその手を取ってしまった。ルファールの力になりたいなんて本心ではちっとも思っていないのに、体が勝手に動いてしまう。
「ありがとう、エステル。君は最高の存在だ」
感謝の言葉も、目を細めただけで全く笑っていない顔で言われても嬉しくない。
ルファールはそのままエステルの手を拘束するように握り続けながら、命令するように言う。
「国に帰ったら、君には私に忠実な臣下の妻になってもらう。たくさん子を産め。私の妻にとも考えたけど、将来の王妃にすると権力を持ってしまうからね。しかしそれにしても――気味の悪い目の色だ」
こちらをじっと見ているルファールに突然蔑まれて、エステルはショックを受けた。最近は優しい言葉ばかり受けて癒やされていた心の傷が、またぱっくりと開いて血が流れていく。
このままルファールと行けば、一度手に入れた幸せを全て失って、あのひどい義家族との生活に戻ってしまうかのような、あるいはそれ以上に非情な生活が待っているに違いない。
「行こう」
ぐいっと手を引かれて、リボンで形作られた魔法陣に向かっていく。
ルファールに仕える魔法使いは、紙の巻物を取り出して長い呪文を唱え始めた。大掛かりな魔法なので呪文も覚えきれないのだろう。
エステルは怖くて震えそうだったが実際には体は動かず、ただ大人しくルファールの手を握っているだけ。
けれど涙だけが静かに零れて、ナトナの頭にぽつりと落ちた――その時だった。
うつむいていたエステルは、地面に落ちるいくつもの大きな影にいち早く気づいた。鳥が空を飛んでいるにしては大き過ぎる影だ。ルファールも影に気づいてハッとして空を見上げ、エステルも同じように上空を見る。
するとそれほど高くないところに赤や黄色、茶色や黒のドラゴンたちが十頭以上旋回していて、その中から濃い青色のドラゴンが一直線にこちらに降下してきた。
他のドラゴンも続けて下りてきて、そこで初めて彼らの背中に騎士たちが乗っていることに気づく。
しかも先頭にいる濃い青色のドラゴンに乗っていたのはレクスだった。レクスは風で乱れた髪を気にすることなく、真っ直ぐにエステルだけを見てドラゴンから降りる。
「レクス殿下……!」
ホッとして崩れ落ちそうになりながら、エステルは大好きな人の名前を呼ぶ。
けれどまだ油断できない状況は続いている。魔法陣はすぐ側にあり、魔法使いは呪文を唱え続けているし、さらにルファールは炎の精霊を自分の側に呼び寄せた。
「来い、ヴェーダ! 姿を現せ」
城でも見せてもらったが、現れた炎の精霊はやはり大きく、ドラゴンよりも体格が良くて首や尾が長かった。
ヴェーダという炎の精霊はドラゴンや騎士たちに向かって威嚇するように吠え、その拍子に口から炎が漏れ出た。ドラゴンの中には驚いて後ずさったり目を丸くする者もいたが、負けじと吠え返す者もいる。
エステルが自分からルファールに付いて行った可能性もある上、相手は隣国の王子ということで、騎士たちがすぐに攻撃を仕掛ける様子はない。
彼らは緊迫した空気が流れる中でじりじりと距離を詰めつつも、ルファールやエステルの表情や動きを観察している。
(もしかして手を繋いでいるように見えるかも)
エステルはハッとしてルファールの手を振りほどいたが、そこから一歩が踏み出せない。今すぐレクスの元に走って行きたいのに、ルファールへの同情心があるせいで彼を見捨てられなかった。
ルファールはため息をついて独り言を言う。
「来たか。予想より早い。私の精霊たちが騒ぎを起こしているはずなのに、そっちには行かなかったんだな」
「精霊? 騒ぎ? どういうことです?」
エステルが聞き返すと、ルファールは淡々と答えた。
「こことは反対の、ドラクルスの西の方に私の精霊たちを向かわせたんだ。一応護衛のために残しておいたヴェーダ以外全てね。そこで村でも町でもどこでもいいから破壊しろと命令した」
「なんですって?」
愕然として思わず強い口調で返す。どうしてそんなひどいことを、しかも精霊を使ってできるのか理解ができなかった。
「そうすれば騎士たちの多くはそちらの対応で手一杯になるし、あわよくばレクスもそちらに行ってくれればと思ったんだけどね。精霊に襲われているという情報がまだ届いてないのか……いや、騎士の少なさからしてやはりそちらにも人員を割いているか」
ぶつぶつと話した後、ルファールはレクスを見てにこやかに声を張り上げる。
「レクス殿下! よくここが分かりましたね」
するとレクスはエステルからチラッとだけ視線を外してルファールを見た。
「監視用の鳥が、校門にアウェーサム王家の馬車が停まっているのは見ていた。教師の目撃証言もある。だから王都からアウェーサムに続く道をしらみ潰しに探しただけだ。空から見ればすぐ分かる。人の婚約者を奪おうなど、呆れる愚行だ」
「恋というのは時に人を愚かにさせるものです。あなたなら理解してもらえるかと。それに私は別に奪ったつもりはありません。エステルの方から私を選んでくれたのですから。彼女の手紙を読まれたでしょう?」
そんなふうに言っても無駄だ、そうエステルは思った。レクスが信じるわけがない。
(私がレクス殿下を捨ててルファール殿下を選ぶなんてありえないもの。私たちは番なんだから。手紙も偽物だってすぐに気づいたに違いないわ)
エステルはその考えに自信を持って、レクスがルファールの言い分を一蹴してくれるのを待った。
「手紙? ああ、読んだ。すぐに破り捨ててしまったがな」
ほら! とエステルは一瞬喜ぶ。あんな手紙エステルが書くはずがないとレクスも分かっているのだ。
ルファールは竜人の番の結びつきを甘く見ている――そう思っていたのだが、
「レクス殿下?」
こちらを見るレクスの目が何やら淀んでいて、薄いブルーの瞳が漆黒に塗りつぶされているようにすら見えた。表情は抜け落ちているようでいて恐ろしくもある。
そしてここに着いてからずっとエステルのことばかり見つめてくるが、その視線は不穏で病んでいた。
エステルは愛する番の変化を敏感に察知し、冷や汗をかく。
(雲行きが怪しい……。レクス殿下、まさか……)
エステルがルファールを選んだなんて、そんなことレクスが信じるわけないと思っていた。
しかしレクスはルファールが精霊を支配できると知らないので、ナトナが支配され、そのナトナにエステルが心を操られているなんて考えつかないのかもしれない。
だからエステルが本当にルファールを好きになったのだと思ってしまったのかも。
(まずいかもしれないわ……)
エステルはちょっと青くなりながら手のひらに汗を滲ませる。冷たく激昂しているような、そんなオーラをレクスから感じながら。




