53
国王夫妻との顔合わせが終わった後、エステルはナトナと一緒にレクスの私室を訪れていた。
「子供の頃からこのお部屋を使っておられたんですか?」
「そうだよ。内装は変わっているけどね」
壁は白、カーテンや絨毯は濃い青色の部屋は、確かに調度品は必要なものだけといった感じで、決して殺風景なわけではないが上品でシンプルだ。
ナトナは初めて入った部屋を探索するべく、匂いを嗅ぎつつ歩いて回っている。
すると――、
「おいで」
「え?」
突然手を引かれたかと思うと、エステルは椅子に座ったレクスの膝の上に腰掛けることになった。
「え、あの、これ」
王子の膝に座るなんて、これも不敬罪にならないだろうかとあたふたする。
「殿下の膝に座るなんて、と、とんでもなく無礼なのでは」
「そこが心配なの? 照れたりはしないんだ」
腰を抱くと、レクスはわざとエステルの耳元に口を近づけて言った。
「てっきり真っ赤になって恥ずかしがる姿が見られると思ったんだけど」
意地悪な笑みを見せるレクスに、エステルは一歩遅れて赤面した。
「……っで、殿下! からかわないでください! 殿下はいつもお優しいのに、どうして今はちょっと意地悪なんですか」
「元々性格は悪いよ、私は」
そう言って笑うレクスは王子然とした雰囲気を消していて、ちょっと子供っぽいけれど親しみやすかった。
「エステルの瞳は間近で見ると、光を閉じ込めたようにきらめいていて綺麗だね」
レクスはエステルの目をじっと見つめながら話を変えた。金色の奇妙な瞳に自信のないエステルは、とっさに顔を背けて弱々しく返す。
「そんなに近くでよく見ていられますね。気味が悪いでしょう?」
「ああ、そうだった。君は自分の外見にも自信がないんだったね。気味が悪いなんて……幼い頃から周りの者にそう言われてきたのかな」
「だって事実、醜いですから」
「人と違う色を持っていることを醜いとは言わないんだよ」
するとレクスはエステルの目尻にキスをして、それから薄桃色の髪に触れた。
「瞳の色も髪の色も素敵だ。美しくて見とれてしまう。醜いところなんて一つもないし、エステルの全てが愛おしい。瞳は宝石のようだし、髪は花びらを溶かしたみたいに華やかだ」
あまりにすらすらと褒め言葉が出てくるので、レクスが普段からそう思っていたのだろうと分かる。
エステルは恥ずかしがりながらそっとレクスを見ると、レクスのアイスブルーの瞳に頬を染めた自分が映っていた。醜くて奇妙な外見だと思っていたけれど、こう見ると確かに少し、可愛いのかもしれない。
レクスがエステルを認めて褒めてくれるたび、自分の中に確実に自信が湧いてくる。
「好きだよ」
そう言ってもう一度今度は頬にキスを落とすと、レクスはエステルの左手を優しく握った。エステルは今日はドレスに合わせて白いレースに水色の糸で刺繍された、手の甲だけを隠す手袋をつけている。
「鱗に触れてもいい?」
「え? はい、どうぞ」
レクスが慎重に言うのが意外だった。エステルにとって手の甲の鱗はそれほど重要なものではないからだ。
以前、好きでもない男子生徒に触られそうになった時には嫌だと思ったが、それは手でも肩でも同じこと。鱗は特別だという意識はあまりない。
(さっきから殿下は何気なくキスされてるけど、私にとってはそちらの方がよっぽど照れるわ)
あまりに自然にされるので受け入れていたが、本当はいちいち赤面して叫んでしまいそうなのだ。決して嫌ではなく、むしろ嬉しいけれど、とにかく恥ずかしい。
「エステルはもう少し、鱗を人に触られたり見られたりすることに敏感になってほしいな。前にも触られそうになっていただろう? あの時も私がどんなふうに思ったか」
レクスはそこで剣呑な雰囲気を漂わせると、真剣な目をしてエステルに言う。
「私以外の男には触らせてはいけない」
命令のようでいて懇願しているようでもある言い方だ。ただ、顔は怖かった。
しかしすぐに表情を緩めると、エステルの手袋を脱がせながら軽い調子で続ける。
「私もエステルにしか触らせない。私の全ては今やエステルのものだからね。好きにどこでも触れていいんだよ」
「……じゃあ、私も殿下の鱗に触れていいですか?」
「もちろん」
レクスは今日は手の甲だけを隠すタイプではなく、通常の白い手袋を両手につけていたが、エステルに言われてするりと取り去った。
「これが殿下の……」
ただの鱗だと思っていたのに、何だか構えてしまう。レクスの鱗はエステルのものよりはっきりしていて、瞳と同じ薄いブルーだった。朝日を反射して光る澄んだ泉みたいに綺麗だ。
そっと触ってみると、滑らかで硬く、ひんやりしていた。他人の鱗を触るのは不思議な感覚だ。
興味津々で夢中になって触っていると、レクスが少しだけ照れたように言う。
「触り過ぎ。いいけど」
そしてレクスもエステルの淡桃色の鱗に触れた。とても繊細な手つきで、優しく。
するとその瞬間、触れられている部分に弱い静電気が走ったような刺激があり、エステルは驚いて瞳を瞬かせた。自分で触っても何も感じず、むしろ普通の皮膚より鈍感だと思っていた鱗なのに、今は熱を持って敏感になった感じがする。
くすぐったくて肌が粟立つような、でも気持ち良くてずっと触っていてほしいような感覚だ。前にリシェが鱗は唇のようなものと言っていたが、確かに唇をずっと優しく撫でられているような刺激に近いかもしれない。
「さ、触り過ぎです!」
恥ずかしくなってエステルは手を引っ込めたが、レクスは文句を言わなかった。というか、片手で自分の目元を隠してちょっと頬を赤くしている。
「待って。鱗が可愛過ぎる……」
そうしてぼそっとそう呟いた。鱗に可愛いも何もないんじゃないかとエステルは思ったが、竜人独特の感覚なのだろうか。
手をどけたレクスは、熱のこもった瞳でエステルを見つめた。エステルも同じように見つめ返す。
(何だか雰囲気が……。殿下の手が熱い)
甘い空気にくらくらする。けれどこのままどこまで進むのだろうと考えると少し怖くなった。自分もレクスも両想いになって自制が効かなくなっているし、流れに身を任せてしまいそうだ。
この空気を壊してくれそうなナトナは、柔らかい絨毯の上でお腹を出してウネウネと動いているだけで役に立たない。
と、そこでレクスが言う。
「怖い? 手に力が入ってる」
エステルは自然と止めていた息を吐くと、素直に認めて返した。
「少しだけ」
「緊張しないで。何もしない。エステルの心の準備ができるまで待つよ。両想いになったんだから焦ったりしない」
「本当ですか? いつまででも待ってくれますか?」
「うーん……」
レクスは悩んだまま結局「うん」とは言わなかったが、それでもエステルはホッとして笑った。
レクスも一緒に笑ったが、次には怖い顔をして言う。
「とりあえず、そんな可愛い鱗は絶対に誰にも見せないで。前まで手袋をつけていなかったなんて本当に信じられない」
「はい……」
二人で手袋をつけ直し、他愛もないお喋りを続ける。
「私、レクス殿下に出会ってからずっと熱に浮かされている感じです。この感覚がもう普通になってしまって、殿下と出会う以前には戻れません。味気なくて、物足りないです」
「私もだよ。エステルは特別だ」
そこで数秒間を置いた後、エステルは続ける。
「殿下、番とは何なんでしょう? 強い子を生むための竜人の本能だということは授業でも習いました。でもそれなら私が殿下の番なのはおかしいです」
「どうして?」
「だって、混血の私が強い子を産めるとは思えません。私の血が混ざることによって、殿下の一族、つまりドラクルスの王族が弱くなってしまうんじゃないかと心配です」
「それは……」
はっきりと言葉を返さないレクスに、エステルはさらに尋ねる。
「人間の血が混ざって竜人が弱体化する。ドラクルスが弱くなる。これは殿下も心配されていたことですよね? 弁論大会の時にそんなことをおっしゃっていました」
「確かにそうだし、今もそれは思っている。だが、制限なく人間を受け入れたりしない限り、ドラクルスに住む竜人全体の能力が下がるようなことは起こらないだろう。それにエステルの場合は話が違う」
エステルを膝に乗せたまま、レクスは冷静な口調で言う。
「エステルは精霊に関する何らかの魔力特性を持っているから、その力を得て王族はより強くなるのかもしれない」
「でも、ピンチの時に幼い精霊がもしかしたら助けてくれるかもという程度の力です」
「いや、エステルの魔力特性ははっきり判明していないし、正しい力の使い方が分かればもっと強力なものになるのかも」
レクスはあまり興味なさそうに言ってから、エステルを見て安心させるようにほほ笑んだ。
「私にとっては、エステルの力なんてどうでもいいんだよ。どんな力であれ私は君を変わらず愛するし、将来生まれてくる子が何の魔力特性も持っていなくても構わない。王としての器は、魔力特性のあるなしでは測れないからね。私の父も魔力特性はないし、強いわけでもないけれど、臣民から支持される立派な王だ。すごい人だよ」
自分の父を思い浮かべているレクスの眼差しには、尊敬の気持ちが滲んでいた。初対面のエステルでもすぐに素敵な国王だと思ったくらいなのだから、息子のレクスが敬愛するのも分かる。ロベリオの器の大きさを、今まで何度となく感じてきたのだろう。
「王族が弱くなることは心配しなくていい。我々は戦士ではないからね。王族に必要なのは身体的な強さや魔法の能力ではないのだということは、父を見ていれば分かる」
「殿下は国王陛下を尊敬されているのですね」
良い親子の関係だなとほほ笑ましく思いながら言ったのだが、レクスは何故か微妙な反応をした。弱々しく、曖昧に笑ったのだ。
その反応からただの尊敬だけではない複雑な感情があるような気がしたが、詳しく聞いていいか分からず、エステルはおずおずと言う。
「尊敬、されているのですよね……?」
するとレクスはこう質問を返してきた。
「エステルは今日、父に初めて会ってどういう印象を持った?」
「ええと……何と言うか、ドラクルスの民として誇れるような方でした。聡明さと器の大きさを感じましたし、何より私にも優しくしてくださって慈悲深い国王様だと思いました。あんな素敵な方が私たちの王で嬉しいです」
「そうだよね。きっと多くの臣民がエステルと同じように感じてる。ロベリオ王が一番だと。だからこそ次の国王としては引け目を感じる」
「あ……」
そこでやっと、エステルはレクスが父に感じている複雑な感情の正体に気付いた。レクスはロベリオを尊敬しているけれど、劣等感も持っているのだ。
「でも、レクス殿下も素晴らしい人なのに。聡明で優しいところも同じです」
「いや、私は優しくないよ。エステルに優しいだけで、他の者からは冷たい印象を持たれていると思う」
「そうなのですか?」
しかし思い返してみれば、エステルもレクスと初めて出会った時――姿を見てから恋に落ちるまでの一瞬の間に感じたレクスの印象は、無愛想で冷淡だった。
ルイザもレクスのことをプライドが高いし優しくないと言っていたし、エステルに向かってほほ笑むのを見たリシェたちが驚いた顔をしていたこともある。
「元々、常に明るく笑顔でいるようなタイプではないが、実は周囲に冷淡な態度を取っていたのは少し演技も入っているんだ」
「演技ですか? 何故わざわざ……」
戸惑いながらエステルが尋ねると、レクスは視線を床に落として言う。
「父は困っている人がいれば真っ先に気づける人だ。他人に興味があってよく観察しているから、気持ちや状況を察することができる。その上で手を差し伸べることもできるんだ。対して私はそこまで他人に興味がない。だから優しさや気遣いで父には勝てない」
エステルは黙って話を聞いた。ナトナはいつの間にかお腹を出した姿勢のまま眠ってしまっている。
「父を真似ても父を超えられない。幼い頃からそう思っていたから、穏健派で混血や人間も受け入れる姿勢の父とは逆の王を目指すことにしたんだ。私が純血主義を訴えたのはそういう理由もある。実際父を見ていて優しい王というのは危うさもあるなと思い、私は色々な方面に厳しくいかなければと考えた。けれどどちらにせよ全く敵を作らないというのは無理だから、『父には敵わないから厳しい王になろう』などと考えたのは安直だったと今は思う」
レクスはこの前、純血主義という自分の主張に迷いもあったと言っていた。『エステルと出会う前から、自分は純血主義のままでいいのか考えていた』と。
それはきっと純血主義になった理由の一つが、父への劣等感だったからなのだろう。ロベリオが混血に寛容だから自分は逆を行く、そんな考えでいいのかときっと迷っていたのだ。
そこでレクスは顔を上げてエステルを見ると、自嘲するように笑う。
「恥ずかしいよ、本当に。こんなことエステルには知られたくなかったんだが」
「私は知ることができて良かったです。話してくださって嬉しい。どんな悩みも二人で共有すれば、きっと乗り越えられますから。ですが私は何も心配していません。だってレクス殿下はとっても素敵で魅力的な方ですもの」
「それは番の欲目だよ。番の評価ほど信用ならないものはない」
レクスはそう言いながらも、言葉とは裏腹に嬉しそうに笑っていた。
「でも完璧に見える殿下も、意外とご自分に自信がない部分があったんですね」
「側に自分より優れた人がいるとどうしてもね」
エステルはそんなレクスの手を改めてぎゅっと握ると、今までレクスに言われてきた優しい言葉の数々を思い出しながら、きらめく瞳を細めたのだった。
「でしたら、これからは私が殿下をたくさん褒めます。殿下が私にそうしてくださっているように」




