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それから四日、秋学期が終わり、何事もなく冬期休暇に入った。レクスはエステルを視界に入れると王子らしからぬ甘さ全開の顔になってしまうため、学園ではずっとルノーやリシェたちによってエステルと隔離されていた。
エステルも何とか自分を律して、レクスに対する想いを周囲に悟られぬようにしていた。そのおかげで学園の生徒たちは二人の関係に気づかなかったようだ。
「少し休憩しましょ。ずっと座っているのも体に悪いわ」
自室で勉強していた休暇中のエステルは、立ち上がって伸びをする。
そして側にいたナトナを抱き上げて言った。
「池にいた小さなナマズのこと、みんなに聞いてもよく分からなかったわね」
仔イタチのことも、彼らが金色の光になって消えてしまったことも話してみたが、マルクスとルノー、そして精霊のハーキュラですら答えが見つからないようだった。
『光になって消えたということは、その精霊は死んだということだろうか?』
『精霊に〝死〟はないはずだ。別に誰かにそう教わったわけではないが、私が消える時も死ぬのではなく自然に還るのだろうという予感がする。他の精霊の死を目の当たりにしたこともないし、よく分からない』
マルクスの問いにハーキュラはそう答えていた。
そして次のルノーの言葉にもハーキュラは腕組みしながら考え込んだ。
『まぁ死ぬのか自然に還るのかは今はどちらでもいいよ。疑問なのはエステルがよく幼い精霊と遭遇すること、そして彼らがすぐ消えてしまうことだ』
『消えてしまうのは、エステルを助けるのに力を使って体を保てなくなったからかもしれない。だが何故見ず知らずのエステルを助けるのか、そしてエステルが幼い精霊とよく遭遇する理由も考えつかない』
エステルは以前レクスにも言った持論――身の危険を感じた時に念のような魔力を精霊に送れるのではないか、という説を話してみたが、本気で身の危険を感じる状況というのを作り出すのが難しく、検証はできていない。それに本当にそんな力があったとしても、幼い精霊だけ現れるのはおかしい。
けれどマルクスたちも色々調べてくれるらしいので、いつか答えが得られることを願うしかない。
そして目下、エステルがやらなければならないのは国王夫妻への挨拶だ。
「決して粗相があってはいけないの」
エステルは真剣な顔をしてナトナに言う。
「姿勢良く、明るく賢そうに、控えめだけど消極的に見られないように、行儀作法もしっかり頭に置きながら挨拶するのよ」
ナトナは何のことか分かっていないだろうが、クゥンと鳴いて相槌を打ってくれた。
「一番心配だったのは何を着ていけばいいかってことだけど、これはリシェ様……じゃない、リシェが『任せておいて』って言ってくれたから」
ずっとリシェ様と呼んでいたが、様なんてもうつけなくてもいいとリシェから言われていたのだ。
『うちは伯爵家で、エステルはもう侯爵令嬢。さらには王子の婚約者だからね。様なんてつけていたら変よ。それに何より、私たちは友達なんだから』
そう言われて、敬称をつけずに呼ぶことにした。
(半年くらい前はリシェのこと雲の上の人だと思っていたのに、不思議な感覚だわ)
仲の良い友人と理想の家族を手に入れて、好きな人と相思相愛になって、色々上手く行き過ぎている気がする。幸せ過ぎて怖いくらいだ。
「私がこんなに幸せになって、天罰が下らないでしょうか?」
昼食の時間、家族で豪華な食事を囲みながらエステルは尋ねた。一階の食堂に集まっていたマルクスとターニャ、ルノーは、そう聞かれて驚いた顔をする。
「そんなわけないよ。エステルは当たり前の幸せを手にしただけだ」
ルノーは持っていたフォークとナイフを置いて言った。
「でも、こんな素敵な家族と恋人まで得てしまって……」
「温かな家族と恋人なんて、特に努力もなく普通に手にしている人も多いんだよ」
笑って返したのはマルクスで、ターニャもそれに続いて言う。
「エステルは今まで大変な思いをしてきたのだから、その分大きな幸せがやってきたって不思議じゃないでしょう? 安心して受け入れると良いわ」
――と、そこで食堂の扉が開き、廊下からエリオットが現れた。このフェルトゥー家の長兄であるエリオットは普段は次期領主として領地で過ごしていることが多いが、週末を家族で過ごすため、しばしばこうして王都の屋敷にやって来る。
「私も食事を貰おう」
屋敷に着いたばかりのエリオットは、帽子とステッキを執事に渡しながら言った。
「エリオットお兄様!」
ハーキュラにモネ、ナトナといった精霊たちも食堂に集まっているし、家族が全員揃って嬉しくなったエステルがパッと表情を明るくしてエリオットに駆け寄る。
「エステル、元気か?」
「はい、とっても。……ところでお兄様、それは?」
エステルが気になったのは、エリオットが片腕で抱えている大きなクマのぬいぐるみだった。
「これか? これはもちろんエステルへの土産だ」
「え? 私にですか?」
「他に誰が欲しがる」
エリオットは真面目で、少しぶっきらぼうで、いつも厳しい表情をしている。どこの馬の骨かも分からないエステルにも最初は冷たかったが、本当は家族思いで優しい人物だ。一度受け入れた相手のことは大切にしてくれる。
「ルノー、欲しいか?」
「いらないよ」
ルノーに抱えているぬいぐるみを見せ、拒否されると、「ほら」とエステルにそれを渡した。
「わっ、本当に大きい」
エステルは瞳をキラキラさせながら大きなクマを抱きしめる。ナトナも気になるようで足元をうろうろしていた。
エリオットは王都に来るたびお土産を買ってきてくれるが、正直、今回が一番嬉しいかもしれないとエステルは思った。
(大きなぬいぐるみって、実は子供の頃から憧れていたのよね)
ドレスや宝飾品に興味はないが、本やぬいぐるみは心惹かれる。子供の頃、義姉や他の子が持っていて羨ましくて、でもエステルは決して買ってもらえなかったものだからだ。
エステルはぬいぐるみをぎゅーっと抱きしめた後、エリオットにお礼を言った。
「エリオットお兄様、ありがとうございます! すごく嬉しいです!」
「この前、ブローチを買って帰った時とは反応が違うな。今回は喜んでもらえて良かったよ」
「あ、いえ……! ブローチもとてもお気に入りで」
エステルは慌てて言ったが、エリオットは笑って「分かった分かった」と流したのだった。
(寝室のベッドに置こう。前にエリオットお兄様から貰った小さいぬいぐるみの隣に並べて……)
大きなぬいぐるみを抱えたままエステルが密かにわくわくしていると、エリオットは食事をするため椅子に座り、マルクスたちと向かい合った。そして少しだけ怒っている様子で言う。
「ところで父上。手紙で教えてもらった件ですが、私はエステルとレクス殿下の婚約には反対です」
「え?」
思わず声を出したのはエステルだ。
フェルトゥー家の人にとって王家との婚約は喜ばしいものだと思っていたので、エリオットが反対していることに驚いた。
抱きしめていた大きなぬいぐるみを空いている椅子に座らせ、エステルはルノーの隣に腰掛ける。
「反対? エリオットお兄様は私の婚約に反対なのですか?」
エステルはおずおずと尋ねる。するとエリオットは眉間にしわを寄せて「そうだ」と頷いてから、マルクスに向き直った。
「大体、私にはまた手紙で事後報告ですか?」
「しょうがないだろう、お前は基本的に領地にいるんだし」
マルクスは息子に詰められながらも穏やかに返す。
ルノーも兄を落ち着かせるように言った。
「婚約に反対したってさ、エステルたちは番なんだから。どうしようもないよ」
「番だろうとエステルには荷が重いだろう。純粋で世間知らずなところがあるのに、これから先、殿下と並んで貴族社会を渡っていけると思うか? 殿下の婚約者になれば、我々家族も守りきれないような場に出ていかねばならない時もある。心配だ。幼子を魔物の住む森に放り込むようなものだぞ」
どうやらエリオットが婚約に反対しているのは、エステルを心配してのことらしい。エリオットはエステルの生い立ちに同情している上、エステルが小柄だったり世間知らずだったりで頼りないこともあり、いつの間にか一番過保護になっていた。
しかしルノーは自信を持って反論する。
「確かに僕たちではエステルを助けられない場面も出てくるかもしれない。でも代わりにレクスが守るよ」
そう言われて口をつぐんだエリオットに、マルクスもこう続ける。
「エステルのことももう少し信用してあげなさい。彼女は賢いし、芯がある」
「別に信用していないわけではありませんが……」
不安そうなエリオットにちらりと見られると、エステルはぐっと拳を握って言った。
「頑張ります!」
その言葉を聞いてもエリオットはまだ心配そうにしていたが、婚約の話をなしにはできないと最初から分かっていたのだろう、ため息をつくだけで強硬に反対することはなかったのだった。
そうしてあっという間に国王夫妻に会う日がやって来た。今日は朝からリシェとデザイナーであるリシェの母親がフェルトゥー家に来て、エステルをどこに出しても恥ずかしくない令嬢に仕立て上げてくれた。
リシェの母親がこの日のために作ってくれたドレスは、急ぎで作業したとは思えない完璧な出来だった。彼女は型破りで新しいものが好きなようだったが、自分の好みは抑え、ターニャの要求通りに少し古風なドレスを作ってくれたらしい。
「まぁ、素敵! さすがね! 伝統的だけど野暮ったくなくて爽やかだわ」
ターニャは手を叩いて喜び、リシェの母親であるリサを称賛する。今日は黒と紫のマーメイドドレスを着ているリサは、自分のセンスに満足している様子で頷いた。
「髪と同じ薄い桃色にしようかとも思ったけど、水色がよく似合うわ」
エステルのドレスは、露出は少なめだが鎖骨は見える程度に襟ぐりは空いていて、小花の刺繍やレースで飾られている清楚な水色のドレスが、ボリュームのある白いスカートに被さっているような形だった。水色のドレスは臍の辺りから左右に割れて、そこから白色のスカートが覗いているのだ。上半身は細身で綺麗な形だが、袖はフリルがついていて豪華だった。
髪はまとめて、カチューシャ型のヘッドドレスをつけてある。清潔感と爽やかさ、そして少し真面目な感じがしつつも年相応の可愛らしさもある出で立ちになった。
「アクセサリーは最小限、化粧もほどほどなのに輝いているようだわ。若いって良いわね」
「それもあるけど、エステルは髪と目の色が華やかなのよ」
「確かにそうね」
ターニャとリサがエステルを眺めながらそんなことを言い合っている。
そしてリシェは緊張して人形のように固まっているエステルに声をかけた。
「エステル、大丈夫? コルセット苦しくない? 陛下たちの前で吐かないでよ」
「は、はい……」
と言いつつ正直吐きそうだったので胸を押さえていると、そこでルノーとマルクスに案内されてレクスが部屋にやって来た。
「レクス殿下、来てくださったのですね!」
「ああ、エステルおはよう。とても綺麗だね」
さらっと褒めながら側に来ると、着飾ったエステルを改めて眺めてからレクスはほほ笑む。
するとその表情を見てルノーとリシェが順番に言った。
「まるで花嫁のウエディングドレス姿を見た新郎みたいな顔してる」
「誇らしげで、愛おしげね」
レクスは二人の言うことを気にしていない様子で、まずリサに握手を求めた。
「完璧です。ありがとうございます」
「気に入っていただけて良かったわ」
エステルを置いてけぼりにして固い握手を交わす二人。そしてレクスはリシェにも感謝を述べて「やはりお前は分かっているな」と握手をしていた。
「でも実際良いよね。可愛いよ、エステル」
「ああ、そうだな。とても可愛らしい」
ルノーとマルクスにも褒められて、エステルは少し赤くなった。するとそれを見たレクスがそっと頬に手を添えてエステルを自分の方に向かせる。
「?」
じっと見つめるだけで何も言わないけれど、レクスの機嫌が少し悪くなっている気がした。ちょっとだけ視線が鋭く、責めるようにエステルを見てくるのだ。
「えっと……?」
何かしただろうかとおどおどし始めたエステルに、またもやルノーとリシェが順番に言った。
「他の男に褒められて赤くなるなってことだよ」
「言っておくけどねエステル、あなたの番って結構面倒な男よ」
「なるほど……」
こんなことで嫉妬するんだとびっくりしたが、不思議と恋心はこれっぽっちも冷めない。むしろ可愛くて好印象だ。
(殿下が何しても大抵のことは好意的に見ちゃう)
家族に褒められ照れているだけで嫉妬するレクスも大概だが、レクスが多少格好悪いところを見せても全部『可愛い』になってしまう自分も来るところまで来たなとエステルは思った。レクスのことが好き過ぎて逆に胸を張りたくなるような気持ちだ。
「さぁ、ではそろそろ行こうか」
とそこで、マルクスがエステルを見て言った。ターニャもマルクスと腕を組み、にこやかにこちらを見ている。今日は二人も一緒に来てくれるので心強い。
「準備は良い?」
腕を組めるよう、レクスも肘を軽く浮かせてエステルに声をかけた。エステルはそこに手を差し込むと、緊張しつつも気合を入れて頷く。
「はい!」




