48 答え合わせ
時刻はまだ昼で、明るい日差しがエステルたちの座っているテーブルまで差し込んでいて、それほど寒さは感じない。
エステルの膝に乗っているナトナは、エステルに片腕で抱きしめられたままリラックスしてぬいぐるみみたいにじっとしている。
そしてレクスはエステルの左手を握りながら、ゆっくり話し始めた。
「私がエステルの存在を最初に認識したのは、春に食堂で出会った時だった。君も覚えているだろうか? あの時の衝撃は決して忘れられない」
「はい……、覚えています」
エステルは控えめに頷く。確かにレクスと初めて会った時、強烈な一目惚れのような衝撃を受けたが、レクスも同じ気持ちだったことに驚いた。
「その日は衝撃であまり頭も働かなくて、よく眠れないまま朝が来て、弁論大会で君が私の反論者として出てきたことに驚いた。君が混血だということもその日に知ったんだ」
レクスの口調は穏やかだ。大好きな相手と両想いだったと分かったのに、エステルもやけに落ち着いていた。レクスの隣にいるとドキドキもするが、自然な形に収まったような安堵感も感じる。
「私はエステルのことをまだほとんど知らなかったが、わりとすぐに君が自分の番である可能性に気づいていた。そうでなければこんなに感情を乱されるはずがないし、姿を見たいだとか声を聞きたいなんて欲求を抱くこともないはずだからだ」
姿を見たい、声を聞きたいなんて気持ちはエステルがレクスに思っていたことだ。それをレクスがエステルに対して思うとは、にわかに信じられなかった。
「だが、最初は君を番だとは認めたくなかった。というか、恋に狂っている自分自身を認めたくなかった。自分で言うのも何だけど、私は私のことを冷静で理性的だと思っていたし、自制心にも自信があった。物心ついた時から王族らしく、自分を律して生きてきたからだ。でもそれが恋をしたら全部崩れた。自分が今まで築き上げてきたものが全部」
その気持ちもエステルは少し分かる。エステルは王族ではないので自分を律して生きてきたわけではないが、恋にかまけるような性格ではないと自負していたのに、そうでもないと分かってショックだった。最初の頃は、レクスを好きになり過ぎている自分に嫌気が差していた。
「だからリシェたちに聞かれても、始めのうちはエステルが番だとは認めなかった。これはエステルが問題だったわけじゃなく、本当に私自身のプライドの問題だ。本能で人を好きになってしまった自分が気に入らなくてね。だって我々は理性を持つ生き物だ。それを動物のように本能のまま番を求めるのは私のプライドが許さなかった。自分は番の本能などに負けない、と半ば意地になったりもした」
そこでレクスは申し訳なさそうな笑みを浮かべてエステルを見る。
「だから最初のうちはエステルを番だと認めたくなくて、エステルが私に何か魔法をかけたんじゃないかとか、ナトナが心を操っているんじゃないかとか疑ったこともある。だがその線も、王宮魔法使いの『何の魔法も呪いもかけられていません』という一言でなくなった。それでも自分が本能に負けたと思いたくなくて、何度も調べてもらったんだ。結果はいつも同じだったけどね」
今度は自嘲気味に笑って、レクスは下を向いた。
「とにかく私は迷走していた。プライドが高いゆえに恋に落ちた自分を認めたくなくて、番を否定して、けれどエステルの行動に一喜一憂して、離れようと思うのに気づけば声をかけてしまって、エステルのことを調べて……。中途半端な行動を取っていた」
レクスの静穏な低い声が耳に心地良く、眠たくなったのだろう。ナトナがうとうとと頭を揺らし始めた。
「それでも夏季休暇の前辺りには、もうエステルは自分の番で間違いないと認めざるを得ない状況になっていた。距離を取ろうとしても引力があるかのように引きつけられて話しかけてしまうし、優しくしてしまう。これに抗うのはとんでもなく苦痛だったから、無理に本能に逆らうのはやめていた」
まるでレクスもエステルを大好きみたいな話し方をするので、エステルは戸惑いながらも耳を傾け続ける。
「だが、感情のままエステルに自分の想いを伝えることもしなかった。私が告白すれば立場的にエステルは断れないだろうという心配もあったし、エステルは私ほど強い感情を持っていないと感じることもあって、一人で先走りたくなかった」
「どういうことですか? 私の想いがレクス殿下より弱いなんて……」
レクスは、この胸に渦巻く嵐のような恋心を知らないからそんなことを言うのだろうとエステルは思った。
だが、レクスはエステルを見て自信あり気に言う。
「実際、そうだと思うよ。番に惹かれるのは竜人だけが持つ本能。だとしたら竜人の血が八分の一しか流れていないエステルは、純血の私よりも冷静だったはずだ」
「でも……」
自分がレクスより冷静だったとは思えなくて、エステルは反論する。
「でもこんなに激しい感情今まで感じたことないんです。苦しくて辛くて幸せで嬉しくて、レクス殿下の行動一つで胸が引き裂かれそうになったり絶望したり、反対にこの世の全てに感謝したくなったりするのに?」
「ああ、そうだね。私も同じだよ。だけどやっぱり、これまでのエステルの様子を見ていて、絶対に私の方が強い気持ちを持っていると思う」
そうレクスは断定する。
だが、もしも本当に血の濃さで番に囚われる気持ちの大きさも変わるなら、レクスはエステルの八倍の激情を感じていて、それを今まで抑えてきたということになる。
(私が感じている『好き』の八倍って……!)
考えただけで恐ろしくなり、エステルは絶句してしまった。レクスはよく狂わず自分を律していたなと尊敬してしまう。自制心があると自分で言っても十分許される理性の強さだ。
「よく頭や胸が爆発しませんでしたね」
呆然としながら呟くと、レクスはフッとほほ笑んだ。
「エステルのことを考えて自分を抑える決断をしたからね。エステルのためなら何でもできる」
こちらが恥ずかしくなるようなことをさらりと言うと、レクスは話を戻して続ける。
「つまり私から告白できなかったのは気持ちの大きさの違いが怖かったのと、立場の違いを考えてのことだ。好きだからという感情だけで動けないのが王族なんだ」
「それはもちろんそうですよね、私が生まれながらの貴族令嬢で純血で、レクス殿下と釣り合う女性であったなら、殿下を困らせることもなかったのでしょうけど……」
エステルが申し訳ない気持ちになりながら言うと、レクスは慌てて訂正した。
「いや違うんだ、そういう意味じゃない。むしろ私が王子であるせいで、恋人になったりすればエステルが大変な思いをすると憂慮していた。周りから嫉妬をされて色々なことを言われるだろうしね。それに純粋なエステルを貴族社会に引きずり込むことになるのも嫌だった。将来の王妃に媚びを売る者もいれば、反発してくる者もいるだろう」
「将来の王妃……」
それはエステルのことを言っているのだろうか。だとするとレクスはエステルと結婚する未来を視野に入れていたということだ。
そう考えると、エステルは嬉しいような戸惑うような気持ちになった。妄想することもおこがましいような気がして、エステルはあまり付き合ったり結婚したりする将来は思い描いてこなかったから。
「エステルは私と一緒にいない方が幸せになれるという答えが自分の中で出ていた。平凡だとしても穏やかな生活を送る方が、エステルにとって良いと思っていた」
物語を読むように、レクスは静かに話す。
「そしてそんな折、エステルが学園の生徒からいじめられていることも分かって、私が半端に側にいるせいで実際にエステルが不幸になっていると思った。それで君と距離を置いたけれど、それは自分の本心にも番の本能にも反する行動だから、上手くはできなかった」
「上手く、とは?」
「上手く程よい距離を取れなかったということだよ。エステルに優しくしたい自分を必死で抑えていたから、必要以上に冷たくして目すら合わせられない時も多かった。きっと傷つけただろう。すまなかった」
確かにそれは辛かったが、レクスを責める気にはなれない。
「エステルがフェルトゥー家の養子になっても、やはり距離は取り続けなければと思った。侯爵家の末っ子になるのと将来の王妃になるのとでは訳が違うからね」
レクスの言う通り、その二つでは重圧の差は大きいだろう。
エステルはレクスの気持ちに理解を示しながら、ぽつりと呟く。
「近づけば全力で愛してしまって、離れようとすれば必要以上に冷たくしてしまう……。番の本能って厄介ですね」
「ああ、本当に苦しんだよ」
レクスは苦笑しながら続ける。
「でも最近では、番の本能を抜きにしてもちゃんとエステルに惹かれていたけどね」
「どういうことです?」
「エステルと接しているうちに、君の真面目なところや優しいところ、控えめで努力家なところとか、ほほ笑んだ時や赤くなった時の可愛らしさとか、色々なことを知ってもっと好きになっていたんだ。エステルのことを何も知らないのに強制的に恋に落ちている状態ではなくなっていた。ただの強烈な一目惚れじゃなくなっていたんだよ」
「それ……分かります」
嬉しくなりながら同意した。エステルも最初はレクスのことを外見以外知らないまま好きになって、そんな軽薄な自分を恥じた。
だが、それから交流を深めてレクスの優しさを知り、信頼するようになった。最初の激しい恋心は自分でも戸惑うような疑わしいものだったが、その後徐々に得たレクスに対する穏やかな好意は信用できるものだった。
「最初にエステルに惹かれたのはただの番の本能だった。だけど今では……こんな言い方はおかしいが、きちんと君に恋してる。本能で惹かれているだけじゃない」
そこでレクスはホッとしたように深く息を吐くと、続けてこう言う。
「やっと自分の気持ちを伝えられた。でもやはり先にエステルに告白させてしまったことが申し訳ないな。君と出会ってからずっと中途半端な行動ばかりしていて、格好悪いったらない。近づいてみたり距離を取ったり、私も右往左往していたからエステルのことも随分混乱させてしまっただろう。ルノーに嫉妬したりとか、あまりに無様で君には詳しく話せないこともたくさんある」
「え?」
ルノーに嫉妬した詳細が気になったが、先に詳しく話せないと言われてしまったのでこれ以上は聞けない。
レクスはエステルの左手を両手で包むと、優しい声で言う。
「さっきも言ったように、私はエステルには穏やかな生活が似合うと思っていて、エステルが幸せになるためには自分は近づいてはいけないと考えていた。だから自分の気持ちに蓋をした。ややこしい立場の私よりも、エステルを幸せにできる男がいると思っていた。だが――」
そこで心底嬉しそうな、泣きそうな笑顔を見せ、レクスは続ける。
「エステルが私がいいと言ってくれた。私のことが好きなのだと言ってくれた。だから私ももう我慢しない」
「はい」
エステルもつられてほほ笑みを浮かべ、答える。
しかしレクスは人差し指を立てると、まだエステルのことを心配している様子で尋ねてきた。
「でも最後にもう一度、ちゃんと確認しておこう。私の側にいるのは危険も伴う。嫉妬されたり、政治的な思惑に巻き込まれたりもする。もちろん守るが、守るためにエステルの行動を制限してしまうこともあると思う。今までのように自由ではいられない。ずっと私の側にいてもらう。それでもいい?」
するとエステルは明るく笑って、なんてことないというように話す。
「そんなこと気にしません。レクス殿下と一緒にいられるのが私の一番の幸せなんですから、むしろ望むところです。それに殿下こそ大丈夫ですか? 私は混血です。混血の番なんて、周りの人たちから殿下が何と言われるか」
不安になって尋ねると、今度はレクスが笑って返した。
「それこそ気にしないよ。私が何か言われることなんて。それよりもこれまでのことを改めてエステルに謝りたい」
「これまでのことですか?」
「私が純血主義者だったせいで、君がいじめられたりしたことだよ。本当にすまない」
学園で一番地位の高いレクスが純血主義だったせいで周りの生徒もそれにならい、混血のエステルが被害を受ける面は確かにあったかもしれない。
でもレクスがどんな主張をしようと、エステルをいじめる人もいればいじめない人もいた。結局はその人の人間性だとエステルは思っているので、レクスのことは恨んでいない。
レクスは静かに続ける。
「私は純血主義者だと、自分でそう主張してきた。これ以上、他国から人間や混血を受け入れるのをやめて、竜人の血を薄めないようにした方がドラクルスのためになるのでは、という考えを持っていたからだ」
けれど過激派の差別主義者ではなかったとレクスは説明する。
「少なくとも自分では過激派ではないと思っていたが、周りの者は勝手に『王子は混血を嫌悪している』くらいに思っていたようだ。しかし私は混血を嫌っているわけではなく、ただドラクルスの未来を考えて人間や混血を遠ざけようとしていた。それが差別だと言われれば、それはそうなのだが」
少し後ろめたそうに、レクスはエステルから視線をそらしていた。
「だが自分の主張には迷いもあった。これはまた詳しく話すが、エステルと出会う前から、自分は純血主義のままでいいのか考えていた」
「では、今はどういうお考えを持っておられるのですか?」
エステルは純粋に興味を持って尋ねる。
「今は私は純血主義ではない。けれどこの国の王子として、人間や混血を受け入れるかどうか、純血を守るかどうかは、その時々によってドラクルスのためになる方を選んでいきたい。ただレクス・ドラクルス個人としては、エステルがいじめられているのを見て、あらゆる迫害はなくすべきだと思ったけどね」
レクスはそこで表情を柔らかくしてこちらを見た。
「そしてエステルのことは、混血であるからこそ素敵だと思っている。思慮深くて時々負けず嫌いな君は、人間と竜人のいいところを両方持っているんだよ。だから……純血主義だった私が言うのも何だが、エステルも自分に自信を持ってほしい。これからは、君の存在は私が肯定し続ける。だからもう『私なんか』と言わないで」
レクスは懇願するように言う。私なんか、というのはエステルの口癖のようなものだ。それを言うたび、もしかしたらレクスも悲しい気持ちになっていたのだろうか。
「ええ、もう言いません」
エステルは泣きそうになりながら、声を震わせて答えた。
「だってもうすでにレクス殿下が私を好きだというだけで、すごく自分に自信を持てるんです。誰かから愛されるとこんなふうに胸が温かくなって、満たされるんですね」
「そうだね。私も同じように満たされている。だから――」
幸せそうに目を細めたレクスは、そこでゆっくりと床に片膝をつくと、握っていたエステルの左手薬指の辺りにキスをした。
唇が触れた部分が熱くなって、その熱が全身に広がっていった後、やっとエステルは手にキスをされたことを自覚した。
そして混乱して顔を真っ赤にしているエステルを見上げると、レクスは何の迷いもなくこう言う。
「婚約しよう」
静かな部屋の中に、エステルの「え?」という戸惑いの声がやけに響いた。
「え、あの……いえ、でもまだ私たち学生ですし、つい今、両想いになったばかりで……」
嬉しいけれど婚約なんて話はまだ先のことだと思っていたエステルは、挙動不審になって、意味もなくきょろきょろぱたぱたと顔や手を動かす。
「番だと分かれば、学生同士でも子供同士でも婚約するのは普通のことだ」
「でもあの、レクス殿下のご両親の許可とかは……」
自慢の一人息子が連れてきた相手がエステルだったら、国王夫妻は絶望しないだろうか。
しかしエステルの心配をよそに、レクスは手を握ったまま立ち上がって、笑顔で明るくこう言った。
「許可なんていらない。エステルと生涯を共にすると私がもう決めたから」
想いを伝え合ってもう怖いものがなくなったらしいレクスは自信たっぷりだ。
エステルとしては不安はまだあったが、確かにレクスと二人なら色々なことを乗り越えられるだろうとも思った。
「殿下がそうお決めになったのなら、私も喜んで生涯お側にいます」
そして無敵状態になったレクスが何だかおかしくて、幸せで、エステルもつられて笑ってしまったのだった。