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大粒の涙を零し、何度かしゃくり上げながらエステルは続ける。
「ご、ごめんなさい、こんな……、急にこんなことを伝えてしまって。でも私、もう耐えられなくて……!」
涙で視界が滲む上、とても前は見られなかったので、レクスがどんな顔をしているのかは分からなかった。
「レクス殿下を好きって気持ちを抑えておくの……っ、もう、苦しいんです」
どうしようもなく切ない気持ちになりながらも、想いを伝えられた解放感もあった。振られることが決定している告白だが、して良かったと思う。
ずぶ濡れの体で、エステルは最後に泣いて謝る。
「私なんかが好きになってごめんなさい。殿下は哀れな捨て犬に優しくしたくらいの、それくらいの気持ちだったかもしれませんが、好きになってしまって申し訳ありません。分不相応な想いですが、本当にもう大好きで、どうしたらいいか分からなくて……っ」
涙がまたぶわっと溢れてきて声が震える。エステルは手で涙を拭い続けたけれど、一向に止まる気配はない。
望みはなくてもせめて綺麗に気持ちを伝えられたら良かったのに、こんな無様な告白、レクスも引いているはずだ。気持ち悪いと思われているかもしれない。
きっとこれからはこれまで以上に距離を取られるだろうし、もう挨拶すら返してもらえないかもしれない。告白したことを後から後悔するかもしれない。
でも今はしょうがないと思える。想いが溢れて抑えておけなかった。こうするしかなかった。
そんなことを思いつつ、涙が出なくなるのを待って下を向いていると――、
「……!?」
ツカツカと近寄ってきたレクスに突然正面から抱きしめられて、エステルは一瞬状況を飲み込めなかった。
(抱きしめられている? レクス殿下に?)
控えめに香水をつけているのか、レクスの首元から良い香りがする。
レクスの腕に覆われて寒さも少しマシになった。温かくて、緊張しているのに心地いい。
しかしエステルがずっとこうしていたいと思った時、レクスは絞り出すようにこう囁いた。
「すまない」
それはさっきの告白に対する答えだろうか。いや、疑問に思うまでもなくそれしかあり得ない。予想していた通りの答えでショックはなかった。
けれどこうやって抱きしめてくれたということは、エステルの想いを少しは嬉しいと思ってくれているのだろうか?
レクスの行動と言葉を、エステルは「嬉しいけど気持ちには応えられない、すまない」という意味だと解釈した。
「いいんです。そんな……謝らないでください」
レクスはもっと美人で、純血で、生まれながら身分の高いご令嬢と結婚するべきだ。エステルの想いには応えなくて当然なのだ。
だがこうやって謝ってくれる優しい人だから、エステルはレクスに惹かれた。最初は一目惚れだったけれど、接していくうちに中身を好きになったのだ。
「殿下まで濡れてしまいます」
水が滴っているエステルを、レクスは強く抱きしめ続ける。
「あの……」
あまりに力が強くて、少々苦しくなってきた。レクスの胸の辺りに顔が埋もれて息もしづらい。
とそこで、もしかしてレクスはすごく怒っているのでは、とエステルはふと思った。そうでなければこの力強さは説明がつかない。
レクスはエステルなんかが自分に告白してきたことに腹を立てていて、自らの手でエステルを処刑しようとしているのかもしれない。
(確かに不敬罪になってもおかしくないくらい、厚顔無恥な想いだけど……)
でもレクスに殺されるなら本望だ。と思いつつも体は生きたいと願っているのか、エステルの喉から苦しげな声が漏れた。
「殿下……、くる、し」
その声を聞くとレクスはハッと力を抜き、一歩後ろに下がる。
「すまない」
もう一度謝ると、「ちょっと待って」と片手で自分の目を覆って動かなくなってしまった。レクスは以前からたまにこうやって顔を隠すことがある。
そしてそのままこう続けた。
「エステル、逃げた方がいい。今、自分が何をするか分からない」
レクスはどうやら自分を抑えられないくらい怒りに打ち震えているらしい、とエステルは思った。
(混血の元庶民から告白されるなんて、レクス殿下にとっては侮辱されたに等しい行為なのかも)
エステルは怯えつつも、自分がしたことの結果は受け入れなければとその場に留まる。
いつ殴られるかヒヤヒヤしたものの、レクスはやがて長く息を吐き、顔を覆っている手をどけた。いくらか落ち着きを取り戻した様子で、静かに、しかし唐突に言う。
「結婚しよう」
「え? 血痕?」
意味が分からず聞き返すエステルと、珍しく目を泳がせるレクス。
「違う、間違えた。いや間違えてはないが。少し待って。混乱してる。順序が……」
レクスは基本的にエステルのようにすぐに赤くなったり青くなったりすることはない。けれど今は本人が言うように混乱しているのだろう、顔色こそ変わらないものの目と声に動揺が見える。
(私のせいで殿下を驚かせてしまったわ。まさか告白してくるなんて思っておられなかったのね)
こんなレクスは初めて見たので申し訳なくなった。
レクスは後ろを向いて再び片手で顔を覆い、動かなくなってしまったが、エステルは素直に待つ。
一分が過ぎ、二分が過ぎ、三分が過ぎたところで冷たい風にさらされていたエステルがくしゃみをすると、レクスはハッとして振り返った。
「エステル、とりあえず着替えよう。このままでは風邪を引いてしまう」
「はい、すみません」
謝りながら、エステルは前にもこんな事があったなと思い出した。夏季休暇前、かつての義姉であるロメナと揉めた時のことだ。あの時は雨が降っていて、ロメナに突き飛ばされたエステルはびしょ濡れになった。
その時に助けてくれたのもレクスだ。
「医務室に行って着替えを借りよう」
「あ、いえ、着替えの体操服はあります。タオルも、竜舎の掃除をする時に汗をかくかもといつも持ってきているので」
そんな会話をすると、ナトナを連れて校舎に入り、エステルの教室で着替えをした。教室には他に誰もおらず、ドアの前でレクスとナトナが見張ってくれている。
(校舎にもほとんど生徒はいないみたい。みんな合格して帰ったのかな)
と考えた瞬間チャイムが鳴った。試験終了の合図だ。今日は試験だけで授業はないので、生徒は全員帰宅するはず。
着替え終えたエステルが廊下に出ると、レクスが尋ねてくる。
「今日も竜舎の掃除を手伝うつもりだった?」
「いえ、今日は試験があるし手伝わなくていいよとリックさんが」
「そうか、良かった。エステルは今日はもうゆっくり過ごした方がいい」
二人で玄関へと向かいながら、エステルは横目でちらりとレクスを見た。レクスは何か考え事をしているみたいに真っ直ぐ前を向いて歩いている。
(振った相手と一緒にいるの、殿下は気まずくないのかしら。告白なんてしちゃったから今まで以上に距離を取られると思っていたのに、まだ一緒にいてくれるなんて)
エステルとしてはもう開き直っている部分もあるから、あまり気まずくはない。
(きっと気まずいと思うほどの存在でもないのね)
そんなことを考えていると玄関に着き、フェルトゥー家の馬車が見えた。王家の紋章が入った黒塗りの馬車も側にある。
「あ、エステル。試験どうだった?」
馬車の中ではルノーが待っていて、開けっ放しの扉からエステルたちの姿を確認して外に出てきた。
「というか、何でレクスが……」
ルノーもレクスがエステルと一緒にいることに驚いている。
「あの、ルノーお兄様、お待たせしてしまって申し訳ありません。ちょっと色々あったのですが……とりあえず試験には無事合格しました」
「ほんと? 良かった。頑張って練習していたからね。それで色々って? 髪も濡れているし体操服だし……」
「えっと」
エステルは説明しようとしたが、ベルナのことをどこまで言うか迷った。正直に全て話せばベルナはどんな罰を受けるのだろうか。退学だけで済むだろうか? 自分が侯爵令嬢という立場になってしまったからこそ、犯した罪以上の罰をベルナが受けることになるのが怖かった。貴族相手に犯罪を犯したかつての義父は処刑されているのだ。
すると迷っているエステルより先にレクスが話し出す。
「説明は後でする。例のあの女子生徒……ベルナとかいったか? 彼女が関わっているんだが、今はベルナどころではないんだ」
そう言うとレクスは、王家の馬車の御者に「一度城に帰って、フェルトゥー家に侍医を連れて来てくれ」と伝えてからフェルトゥー家の馬車に乗り込んだ。
「何? うちに来るの? 何があったんだよ」
ルノーは訳が分からないという顔をしながらエステルとナトナを馬車に乗せると、自分ももう一度乗り込んで席に座った。
「侍医って……。エステル、怪我をしたの?」
「念の為だ。おそらく心配はないと思う」
答えたのはレクスだった。エステルが溺れたから、念の為に医者に診せてくれるつもりなのだろう。
「で、何があったか説明してくれ」
レクスは他に何か考え事をしているようだったが、馬車が走り出すと共に説明を始めた。エステルもレクスが来る前の出来事を補完して話す。
「ベルナは一日だけ私になりたかったようです。一瞬、私を殺して私に成り代わるという最悪の計画も頭によぎったようですが、それはやめていました」
どこまで話すか迷ったが、結局全て説明することにした。するとレクスの顔もルノーの顔も怒りで歪んだ気がしたので、こう付け加える。
「ですが、私はベルナに過剰な罰を与えるのは望んでいません。嫌いな人であっても誰かが不幸になるのは怖いんです。反省して、私と関わらないでいてくれたらそれで十分です」
学園にはもう来ないだろうし、それでいい。願わくば、人を殺しかけた恐怖と後悔をベルナには感じていてほしいけれど。
ルノーはエステルの甘さに呆れたような、それでいて満足そうな顔をして言う。
「僕たちがベルナへの刑を決められるわけじゃないけど、まぁ、エステルは厳罰を求めてないってことも含めて父さんたちとも話をしておくよ。エステルは医者に見てもらったら今日は休んだ方がいい」
「いや、少し話したいことがあるんだ。体調が大丈夫そうなら」
レクスがルノーの言葉を遮り、エステルを見て言った。
「私は大丈夫ですが……」
そうこうしているうちにフェルトゥー家に着き、レクスの言う『話』が何なのか聞く間もなく、エステルは温かい湯を張った風呂に送られた。
そこで体を温めた後は、レクスがいることもあって寝巻きではなく普段着に近いドレスを身につけた。使用人のシャナンが髪も整えてくれ、続けて王城からやってきた医者に診察をしてもらう。そして体に問題はないという診断が下されると、みんなが待っている一階の私室に向かった。
部屋にいたのはレクスとルノー、マルクスとターニャ、それに精霊たちだ。長男のエリオットは今日も領地にいて不在だった。
すでにルノーが両親に説明をしたらしく、マルクスとターニャが心配して「無事で良かった」とエステルを抱きしめてくれた。
「今日、こうやってエステルを抱きしめられなかった未来もあったかと思うと恐ろしいわ」
ターニャは涙目で呟く。ふっくらとした体で抱きしめられると、とても安心してエステルも力が抜けた。
マルクスも背中を撫でながら、侯爵らしい威厳を持ちつつ言う。
「ベルナのことは我々に任せなさい。適切な処遇を求めよう。何も心配いらないよ」
「はい、ありがとうございます」
「さぁ、こっちに座って。温かいスープはどう? ところで期末試験には無事合格したんですってね。努力した結果が出たわね。誇らしいわ」
ターニャが重い空気を破って明るく言うが、エステルは食欲がなかった。死にかけたショックを引きずっているのもあるし、池の水をいくらか飲んでしまってお腹が膨れているのもあるし、レクスに告白したことで変に高揚もしている。情緒がおかしく、落ち着いてものを口にできる状態ではなかった。
「ありがとうございます、お母様。でもすみません、食欲がなくて」
「あらあら、そうよね。じゃあホットチョコレートはどう? ホットミルクは?」
「いえ、今は水分は……」
申し訳なく思いながら断っていると、ソファーに座っていたレクスが立ち上がり、こちらにやって来た。
そしてエステルの肩にそっと手を置いてターニャたちに言う。
「すまないがエステルを少し借りたい。話があって、どこか使っていい部屋はないだろうか?」
「話……?」
「エステルの私室でいいんじゃない? エステル、案内してあげて」
ターニャは首を傾げたが、ルノーはレクスの焦燥感みたいなものを感じ取ったのかすぐに答えた。
そうしてエステルとレクスが部屋を出ると、ナトナと、エステルたちの世話をしようと使用人のシャナンがついて来た。
するとレクスはシャナンにはこう断りを入れる。
「私もエステルも飲み物はいらない。必要だったらこちらから声を掛けるから、部屋には入らないように」
かしこまりましたとシャナンが去ると、エステルは何の話をされるのだろうと緊張してきた。ナトナを抱き上げてぎゅっとする。
やはり告白したことについて苦言を呈されるのかもしれない。人払いをしたということは、かなりキツめに注意される可能性もある。告白した後からずっと何かを考えている様子だったし、混血は純血の王族に告白なんてしてはいけないということを伝えてくれるつもりなのかも。
(元庶民が王族に、混血が純血の王子に告白するなんてやっぱりタブーだったのかしら)
どんどん想像を膨らませて怖がりながら私室に案内すると、レクスは部屋を見渡して明るく「可愛い部屋だね」と言った。
(怒ってはいらっしゃらない……?)
むしろ機嫌は良さそうだ。何故か晴れ晴れとした顔をしている。
ナトナを抱いたまま、エステルはレクスと一緒に部屋の中央にある丸テーブルの椅子に座った。その丸テーブルは小さいものだったが、レクスは椅子をわざわざ移動させてエステルの隣に腰を下ろす。
そうしてエステルとしっかり目を合わせながら話し出した。
「まず何から話そうか。確認だけど、番という言葉と意味は知っているかな?」
「番、ですか? 知っていますが……」
意外な単語が出てきたので、エステルは面食らいつつ答える。
「運命の人のことですよね? 竜人が強い子孫を残すための本能だと授業で習いました」
「そう、それでエステルは私の番なんだ」
さらりと返されたので、一瞬エステルはそのまま流しそうになった。けれど『私の番』という言葉がかろうじて頭の端に引っかかり、そこで一度思考が止まる。
(私の番……私の番……?)
私とはレクスのことで合っているだろうか? だとするとエステルがレクスの番という意味になるが、この『エステル』はどこのエステルのことだろう? と良く回らない頭で考えた。
斜め上を見て首を傾げていると、エステルが静かに混乱しているのに気づいたレクスが手を握ってこう言う。
「君だよ、エステル。エステルが私の番だ」
二度聞いても、エステルはその言葉を素直に受け止められなかった。そんなことあるはずがないからだ。
レクスが今、エステルの左手を大切そうに握っているのだって何かの間違いに決まっている。
「君だって分かっていただろう? 私たちが番である可能性を考えたことがあるはずだ」
「いえ、そんな……! そんなおこがましいこと考えたことないですっ! 嘘じゃないです!」
エステルは慌てて否定した。レクスが自分の番だったら、という願望は持ったことがあるが、それはあり得ないことだとすぐに打ち消してきた。
必死で否定するエステルにレクスは言う。
「そんなに怯えないで。別に不敬罪とかにはならないから大丈夫だ」
そこで少し間を置くと、レクスは自嘲気味に眉を下げて続ける。
「でも全て私のせいだな。無駄に本能に抗ってエステルと距離を置いたりして、私が番らしい行動を取ってこなかったから。その結果君から告白させたりして、本当に申し訳なく思っているよ」
「いえ、すみません、私こそ」
エステルは何だか恥ずかしくなって意味もなく謝ると、そっとレクスを見つめて困惑しながら尋ねる。
「でも先ほど、私が告白した後『すまない』っておっしゃっていましたよね……? それは私は殿下の番ではあるけど、告白は受け入れられないということで合っていますか? 私が混血だから、付き合ったりはできないという……」
すると今度はレクスが困惑した顔をする。そして数秒考えると、その状況を思い出して言った。
「ああ、違うんだ。謝ったのは告白を断ったわけじゃない。ただ君を泣かせてしまうほど追い詰めて、君から告白させてしまったことを謝ったんだよ。本当は私から先に気持ちを伝えるべきだった。――愛しているよ、と」
レクスは握ったままの手に軽く力を込め、エステルを真っ直ぐ見つめて最後の言葉を言った。今まで聞いたことがないくらい、優しくて甘い囁きだ。
「あいっ……!?」
その声と言葉に強い衝撃を受け、エステルは後ろにひっくり返りそうになる。すっとんきょうな声を出して固まるエステルを見て、レクスは珍しく声を上げて笑った。
「これから何度も言うだろうから、慣れておいてほしいな」