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46 告白

「エステル、ナトナは一体どうしたんだ?」


 レクスは地面に倒れているナトナがまず気になったようで、そちらに視線を落として尋ねてきた。ナトナはまだ魔法で拘束されていて、魔力の光の輪はレクスにも見えているはず。

 予想していなかった人物が現れて驚いたのだろう、エステルに成り代わっているベルナは少し上ずった声で返す。


「それはえっと……色々ありまして。話すと長くなります」

「何があった?」


 レクスはただ心配して聞いているだけのようだが、追及されたベルナはネズミの姿のエステルを握る手にじわっと汗をかきながら答える。


「突然現れた幻影動物にびっくりして、その子が急に暴れ出してしまって……。なかなか落ち着きを取り戻せないようだったので、たまたま近くにいたベルナに魔法で拘束してもらったんです」

「そうなのか。精霊の生態はよく知らないが……今は落ち着いている、のか?」


 レクスはナトナの側にしゃがんで頭を撫でた。けれどナトナが何かを訴えるようにきゅんきゅん鳴いているのが気にかかったらしい。


「上級魔法だな。私でもすぐには解けない。ベルナに言って解いてもらわないと」


 ナトナを拘束している光の輪を見て言うと、レクスは立ち上がってこちらに歩いてきた。アイスブルーの瞳には、先ほどと同じく心配の気持ちと、今度は疑念が浮かんでいるように見える。


「エステル、そのネズミは?」

「あ、これは幻影動物です。ちょうど今『エルァロランゼ』で捕まえたんです」

「成功したのか。それは良かった」


 ここしかチャンスはないと思い、エステルは必死で鳴いた。レクスに向かって助けてと訴えるように。

 けれどベルナは完璧にエステルに化けているし、エステルは誰がどう見ても小汚いネズミだ。どれだけ鳴いて助けを求めたって、真実に気づく者はいないだろう。

 だが、エステルはレクスなら気づいてくれるのではないか、気づいてほしいと願って鳴き続けた。困った時や危機的状況で助けてくれたのはいつもレクスだ。


「……ずっと鳴いているな」


 レクスがネズミのエステルに視線を落として言った。ベルナの手は一瞬緊張でこわばったが、次には持っているエステルを隠すように自然と手を後ろに回す。


「うるさいですよね、すみません。もう先生のところに持って――」


 しかしそこで、おそらくベルナも意図していないことが起きた。

 エステルの小さな体がベルナの手からするりと抜け、真っ逆さまに青い池へと落ちたのだ。ベルナが手を後ろに回した勢いですっぽ抜けたような感覚だった。


「あ、やばっ……」


 水に落ちる寸前、振り返ったベルナがそう呟いたのが聞こえた。エステルが溺れて死ねば死体は元の姿に戻るようだし、レクスの前でそんな状況になるのはベルナも避けたいはずだ。落としたのはわざとじゃないのだろう。

 そう推測できた瞬間、エステルの体は十二月の冷たい水に覆われた。


「……っ」


 落ちた衝撃と水の冷たさに驚いて息を吐いてしまい、一気に死が迫るほど苦しくなった。息を吸い込みたくなる衝動に駆られるが、水が肺に入れば溺死してしまうと思い何とか耐える。視界は青く暗く濁っていて、上も下も分からない。池に落ちたのは足からか頭からなのかを把握できていないし、パニックの中で太陽の光がどこから差しているのかを判断することもできなかった。

 第一、水面が分かったところで拘束されていて体は動かず泳げない。エステルはただ苦しみながら沈んでいくだけだ。


(息が……! 助けてっ、誰か!)


 さっきほとんど空気を吐いてしまったせいで、もう十秒も持たないかもしれない。死をすぐ側に感じながら、親しい人たちの顔が次々に頭に浮かんできた。


(せっかく私を家族にしてくださったのに、ごめんなさい)


 フェルトゥー家の面々をまず思い出し、エステルは心の中で謝罪する。マルクスやターニャを泣かせてしまうであろうことが申し訳ない。ルノーやエリオットのことも悲しませてしまうだろう。そんな思いをさせるために家族になったんじゃないのに、と辛くなる。

 リシェもきっと泣いてくれるだろうし、ルイザやバルトも顔を歪めて悲しむかもしれない。ナトナを置いていくのも心配だ。あの子はまだ小さいのに。

 

 そしてレクス。

 レクスがエステルの死を悲しむかどうかは分からないが、エステルはもう二度とレクスに会えなくなるのが嫌だった。生きてレクスの側にいたい。

 こんなところで死ぬのなら、レクスに想いを伝えておけば良かったと後悔する。どうせ振られるにしても、この想いを抱えたまま死ぬのと伝えてから死ぬのとじゃ訳が違う。


(レクス殿下……! 好きです! 私に優しくしてくださってありがとうございました)


 限界を迎え、エステルは体の自然な反応に従って息を吸おうとした。けれどもちろん入ってくるのは冷たい水だけで、余計に苦しくなって池の中で咳き込み、生理的な涙を零す。

 しかしその時――。

 近くで水をかき回すような音が聞こえ、一瞬見えた人の指先のようなものがすぐ側を掠めていく。誰かが池に手を突っ込んで、哀れなネズミを助けようとしてくれているらしい。


(きっと殿下だわ)


 ネズミまで助けようとするレクスの優しさに感動しながら目をつぶる。意識が飛びそうだ。

 エステルはどんどん下に沈んでいっているので、何度も水をかき回しているレクスの手が体に触れることはなかった。


(ここで死ぬのね)


 レクスに会えなくなるのは辛い。身が引き裂かれるようだ。

 死を受け入れる気持ちと受け入れたくない気持ちでぐちゃぐちゃになりながら、体は思うように動かず沈んでいく。

 しかしそんな状況で、エステルも全く予想していなかった助けが入った。

 何かがネズミのエステルの体を下からぐっと持ち上げたのだ。


(……何? 何かいる)


 ほとんど意識を失いながら、エステルは自分を下からぐいぐいと水面の方へ連れて行ってくれる何者かの存在に気づき、驚いた。魚か何かなのか、触れている部分はつるつるしていて、相手もそれほど大きくない。ネズミのエステルより少し大きいくらいだろう。

 ――と、そこでレクスの指先が水中でエステルに触れ、その途端にすごい勢いで水面に引っ張り上げられる。

 一気に視界が明るくなり、眩しさに目を細めながら、エステルはゴホゴホと激しく咳き込み水を吐いた。


「大丈夫か!?」


 ネズミのエステルを手で包んでいたのはレクスで、レクスも上半身が濡れていた。特に右腕はびしょびしょだ。


(やっぱり殿下が……助けてくださった)


 エステルは咳き込みながら頭の中で呟く。水なのか胃液なのか分からないものを吐き続け、喉が痛くてたまらない。

 水が青くてどこにいるか分からないから、レクスはとにかく手を動かして引っかかるものを探したのだと思う。だからあんなに濡れているのだ。

 けれど腕だけでなく、胸やお腹、顔や頭の方まで飛沫がたくさん飛んでいる。よほど激しく、がむしゃらに探してくれたに違いない。


(殿下がお優しいにしても、ただのネズミをどうしてそんなに)


 咳も落ち着いて、エステルはそっとレクスを見上げた。エステルが人の姿でいる時より距離が近いので、レクスの表情をよく見ることができる。

 彼は真っ青な顔をして、目を見開いて息を切らしていた。死にかけたのはエステルなのに、まるで自分が命の危機に瀕したかのような、とんでもない恐怖を体験した後みたいな顔だ。

 きっと池に手を突っ込んで探してもネズミを見つけられなかったら、水中に飛び込んで探していたに違いない。それくらいの表情をしていた。

 そしてその表情のままベルナを見て、呆然としたまま呟く。


「お前は誰だ? このネズミは……エステルか?」

「ど、どうして分かるの?」


 レクスが真実に気づいたことに驚いて、ベルナは思わず敬語も使わずに返した。

 そして正直な反応をしてしまったことに対してまずいという顔をした後、今度は観念したように呪文を唱え、エステルの拘束を外し、元の姿に戻した。


「エステル」

「レクス殿下……」


 レクスはエステルを支えるように背中に手を回し、エステルはまだ痛む喉を使って何とか声を出す。体が震えるのは死にかけた恐怖のせいでもあり、濡れた体で冬の寒さに当てられているせいでもある。

 一方、自分も元の姿に戻ったベルナは、いたずらが先生に見つかった子どものように肩をすくめて言った。


「これはその、エステルに頼まれたんです。彼女は魔法が不得意で幻影動物を捕まえられそうにないから、代わりに私に姿を変えて捕まえてって。不正になるし、断ったんですけどどうしてもと言うので」


 視線を縫い付けられたように、恐怖が滲む瞳でエステルを見ていたレクスは、ベルナの言葉を受けて一度まぶたを閉じると、ゆっくりと開けてそちらを向いた。


「なら……エステルをネズミに変えた意味は?」

「先生に見られた時にエステルが二人いるといけないので、目立たないようにしたんです。『エルァロランゼ』をかけたのも、エステルがちょろちょろ動いて人に見つからないように」

「ナトナを拘束したのは?」

「あれは私がエステルにお手本を見せたんですよ。『エルァロランゼ』より上級ですけど、同じ拘束魔法なので。見たら何かコツが掴めるかなと思って。あ、もう動いて大丈夫よ、ごめんね」


 ベルナはそう言ってナトナの拘束も解いた。ひどいことなんてしていないというように、軽く笑って。

 ベルナの言い訳は人によってはもっともらしく聞こえただろうが、エステルのことをある程度理解しているレクスにとっては、色々おかしい点があるのは明らかだったようだ。

 

「エステルは不正を頼むような性格ではない。魔法が不得意であっても、最後まで自分で捕まえる努力をするはずだ」


 そしてため息をつくと、もはやベルナの方を見もせずに淡々とこう言う。


「お前は今すぐに学園から出ていくんだ。学園長には私から話をしておく」

「え……。どうして? いくらレクス殿下だからって横暴です!」


 ベルナは反射的に言い返したが、レクスは取り合わなかった。


「横暴かどうかはエステルに詳しい話を聞けば分かる。話を聞いてもしも貴様がエステルに危害を加えようとしていたと分かれば、フェルトゥー侯爵も黙っていないだろう。退学どころかもっと重い罰を受けることになる」


 するとベルナは態度を一転させ、慌てたように謝り始めた。


「ま、待ってください。退学でいいですから、どうか……。ごめんなさい、エステル。でも私はあなたを池に落とす気はなかった。急に殿下が現れたからびっくりして……。本当にそれだけなの」


 急にしおらしくなったベルナに、エステルは何を言えばいいのか分からなかった。呆れているのもあるし、自分より魔法が得意な彼女が少し怖い気持ちもある。ここで追い詰め過ぎれば、エステルだけでなくレクスにも危害を加えようとするかもしれない。

 それにまだ死にかけた恐怖から心臓がバクバクしていて、頭が上手く働かない。


「落としたのは……わざとじゃないのは、分かってる……」

「いいから行け」


 エステルが何とか返すと、レクスが畳み掛けるように言ってベルナを追い払った。ベルナはレクスの言葉に従って去っていく。

 すると入れ替わるようにナトナが側に寄ってきて、まだ放心状態のエステルの手をペロペロと舐めた。


(あと少しで死ぬところだった……。レクス殿下が手探りで見つけてくれなかったら、何かが下から持ち上げてくれなければ……手の届かないところまで沈んでしまっていたら、今頃この暗い池の底で溺死していた)


 改めてそう考え、ゾッと全身に鳥肌を立てる。池の方を確認したが、エステルを下から押してくれた何者かは見当たらなかった。ただ少し水面にぷくぷくと気泡が浮かんできていて、水の中に何かいるような気配はあった。けれど今は池を詳しく調べようという気力はない。


 今まで義家族に暴力を振るわれたこともあったし、それを恐ろしく感じることもあった。見知らぬ魔法使いの男に連れ去られた時も身の危険は感じていた。けれど今回ほど死が間近に迫ったことはない。

 人の姿であれば池に落ちたところで自力で脱出できたかもしれないが、拘束された弱いネズミの姿では本当にどうしようもなく、それが恐ろしかった。何の抵抗もできずに、ただ死ぬしかないのが。

 口の中でまだ池の水の味がしている。助かったのに、まだ恐ろしい。


「あ……」


 ガタガタと震え、嗚咽にもならない声を喉から漏らす。自分で自分の身体を抱きしめ、涙目でただ地面を見つめる。


「もう大丈夫だよ」


 レクスがそっと抱きしめてくれたのに、最初はそれを喜ぶ余裕もなかった。

 けれど時間が経つにつれ、エステルは少しずつ落ち着きを取り戻していく。ナトナが膝の上に乗って心配そうに鼻先を近づけてくることや、レクスがエステルを支えて温めるように体に手を回してくれていることにも気づき、安心する。

 この温もりをずっと感じていたいと思ったが、エステルが落ち着いたのを見てレクスは手を離して言う。


「濡れた制服を着替えないと。外は寒いから校舎の中に入っていて。私はリシェかルイザを呼んでくる」


 エステルの気持ちを知らないレクスはこちらに背を向け、歩き出した。リシェたちを連れてきたら、レクスはその後、彼女たちにエステルを任せて帰ってしまうかもしれない。そうしてまた明日から距離を取られ、元通りの関係になる。


 ――そう思ったら、急に全てが耐えられなくなった。

 膨らんだ想いをもうこれ以上抑えておけない。嫌われても、拒否されてもいいから、気持ちを打ち明けたい。

 想いを伝えたいという欲求を我慢できない。

 これは食欲なんかとは比べものにならないほど強い欲求で、その衝動に突き動かされるようにエステルは立ち上がり、ポロポロと涙を零しながら言った。


「待ってください!」


 全身ずぶ濡れでひどい格好だ。惨めで全然可愛くない。こんな姿で告白なんて、まともな精神状態の時ならしていない。

 けれど今は一度死にかけて、それを大好きなレクスが助けてくれて、優しく抱きしめてくれて、でもまた離れてしまって……。頭も感情もぐちゃぐちゃになっていて、理性がどこかに飛んでしまった。

 だから自分の気持ちを隠すこともできず、身分の差を考えることもできず、ただ真っ直ぐに想いを打ち明けることしかできない。


「……っ、好きなんです!」


 本音を伝えようとすると何故かたくさん涙が溢れてきて、エステルはそれを両手で拭いながら言った。レクスの顔を見る勇気はない。


「私っ、レクス殿下が好きなんです……!」

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