45 危険な特待生
七人と別れ、食堂を離れると、エステルは校舎の外に出た。ナトナも透明になってついてきているので、時おりすぐ側から芝を踏むかすかな足音が聞こえてくる。
『ベルナには気をつけた方がいい。何か企んでるんだよ』
校舎裏に向かいながら、さっき男子生徒から言われた言葉を思い出す。ベルナは一体何を計画しているのだろうか。
とにかく忠告通りに気をつけようと思いながら、ひと気のない校舎裏までやってきた。ここには木がポツポツと生えていて、大きくも小さくもない池が一つあり、校舎脇に花壇とベンチもある。
池は水が深海のような青色で底が見えない。昔、生徒がふざけて魔法を使い、水に色をつけたらしいが、案外綺麗なのでそのままになっているとか。
底が見えないので深さが分からず、落ちたら二度と浮かんでこれないなんていう噂もあった。
「動物、いないわね」
エステルはきょろきょろと辺りを見回すと、ナトナに話しかけるように呟く。青い池も覗いてみたが、魔法で作られた魚はいないようだ。
幻影動物がいないので、それを目的にしている生徒たちの姿も見えない。
「もしかしたら、もうほとんどの生徒は動物を捕まえて帰ったのかしら」
何だかんだでエステルは食堂に三十分以上いたので、その間に試験に合格した生徒も多いだろう。
「レクス殿下たちも、きっともう合格されたわよね」
自分より優秀な人たちだから心配はしていない。
「ルノーお兄様を待たせないように、私もそろそろ切り上げた方がいいかしら。『エルァロランゼ』は、うちでぬいぐるみ相手でも練習できるし」
ルノーがすでに試験に合格して帰り支度をしていると予想して、エステルが踵を返した時だった。
「いたいた! エステル!」
手を振り、こちらに駆けてきたベルナを見て、エステルの心臓は若干跳ねた。まだ何もされていないが、何か企んでるという話を聞いてしまった以上、警戒してしまう。
「探したわ。まだ動物を捕まえられてないんでしょ? 私はもう合格したから手伝ってあげましょうか?」
「いえ、もう合格したのよ」
「え? 本当? 誰かに手伝ってもらったの?」
「いえ……」
こわばった表情と言葉少なに返すエステルの様子を見て、ベルナも何か気づいたようだ。
スッと瞳を冷たくすると、低い声で言う。
「誰かに私のこと何か聞いた?」
「……っいいえ!」
エステルはビクッとして反射的に否定した。けれどその態度は、ベルナから見れば嘘をついているのは明白だったようだ。
「聞いたんだ。ふーん」
そう呟くと、ベルナはちらりとエステルの足元を見た。
「ところで今日も精霊はいるの? エステルがどんな精霊と契約しているのか見てみたいな」
「別に見ても面白くないと思うわ」
普段なら可愛いナトナを見せてあげたくなるところだが、何となく警戒してそう答えた。急に精霊の話をするのも怪しい。
するとベルナは唐突に呪文を唱え始め、エステルの足元に向かって手をかざす。何の魔法を使うつもりなのか分からなかったが、ぼーっと立っているのは危険な気がして、エステルはとっさに逃げ出していた。
「ナトナ、おいで!」
防御魔法など使えないので、ただ走って距離を取るしかない。けれど特別足が速いというわけでもないから、ベルナが呪文を唱え終わる前に十分離れることはできなかった。
結果、ベルナが放った魔法はナトナに当たったようで、「きゃん!」と鳴き声が聞こえたかと思うと、透明になっていたはずのナトナが姿を現した。
「ナトナ!」
黒い仔狼は発光する金色の魔力の輪に拘束されていて、力なく地面に転がっている。
「ナトナ!」
もう一度名前を呼ぶと、エステルはしゃがんでナトナを抱き上げた。体に力は入らないらしいが怪我はないようだ。
「ナトナに何をしたの?」
ベルナを睨み上げて言うと、彼女は悪びれもせずに答える。
「ただ拘束魔法で捕まえただけよ。『エルァロランゼ』の上位互換って感じの魔法ね。『エルァロランゼ』は精霊には効果がないけど、これは透明になって姿の見えない精霊でも捕まえられるの。とはいえ強い精霊には効果がないと聞いたけど、あなたの精霊はちゃんと拘束できたわね。弱いのね、この子」
「そ、そんなことないわ! ナトナはまだ幼いし、現時点で弱かったとしても将来きっと強くなる。それに力なんて関係なく側にいてくれるだけでいいんだから!」
弱いと言われたナトナが傷つかないように、エステルは思わず必死で反論した。ナトナはクゥンと鳴いて弱々しくしっぽを振っている。
ベルナはエステルとナトナの友情はどうでもいいらしく、自分の話を進めた。
「私、あなたの真似をして控えめな態度を取ってみたりしたけど、どうもレクス殿下たちの心を掴めている実感がないのよね」
エステルは視線をナトナからベルナに移す。
「リシェ様は最初こそ優しくしてくれたけど、最近は警戒心を持たれているような気がするの。ルノー様には何を言ってもいつもさらりとかわされてしまうし、ルイザ様なんて毎回睨んでくるのよ。この前なんて『馴れ馴れしくしないで』なんて言われたわ。そして肝心のレクス殿下は庶民だからって私を拒否することはないけど、きっちり線を引かれている感じがする。彫像みたいに表情が変わらないし、私に全く何の興味もなさそう。あの人って笑うことあるのかしら」
レクスはベルナに特別優しくしていないと分かって、こんな時だがエステルは安堵した。そしてベルナにこう言う。
「だから私の真似をしたって意味がないのよ。だって私は別にそんなに魅力的じゃないもの。ベルナにはベルナの魅力や才能があるんだから」
「まぁね。だから作戦を変えようかなって思ってるんだけど、私が考えた作戦はどれもリスクがあって」
エステルは、ベルナは自分の魅力や才能を地道に磨いて行くしかないと言いたかったのだが、ベルナは手っ取り早く結果が欲しいようだ。
エステルはふと思いついて聞く。
「もしかして家で居場所がないとか、親と離れたいとか、そういう悩みがあるの?」
それならばベルナの気持ちも分かると思って尋ねたが、それも違うらしい。
「そういうわけじゃないんだけどね。家も親も嫌いってわけじゃない。私を愛してくれてるし。でも私はもっと裕福で地位のある親に愛されて、もっと良い家に住みたいの。だけど前はそんなの夢物語だと思ってたのよ。なのに目の前でエステルがその夢物語を現実にしているのを見ちゃったから、実現不可能なことだとは思えなくなっちゃった」
話し終えると同時にベルナはすらすらと呪文を紡ぎ出す。その移行があまりに自然で、ベルナはまだ話を続けているのだと思ってしまい、数秒気づくのが遅れた。
けれどベルナがまた何か魔法を使おうとしていると察したエステルは、ナトナを抱えて慌てて逃げ出す。
(駄目だわ。逃げても無駄……!)
頭でそう理解しながら走ったが、やはり背後から魔法を撃たれてエステルは倒れた。
(あれ……? 痛くない)
が、攻撃を受けたような衝撃はなかったので不思議に思い、そっと目を開ける。
すると目の前にはナトナの大きな体があった。黒いふわふわの被毛でエステルの視界は覆われている。
(ナトナが大きい?)
状況を把握するため立ち上がろうとしたところで、自分の体にも違和感を覚える。手足の感覚や嗅覚、聴覚、視界の広さや低さ、何もかもがおかしい。
エステルは恐る恐る自分の体を見下ろしてみると、そこには灰色の体毛に覆われた小さな前足があった。
(動物の前足……。ネズミっ!?)
自分の体がネズミに変わっていることを把握して、エステルはぴょんと後ろに飛び退った。どうして!? と叫びたかったが、喉から出るのは「チッ!」という短い鳴き声だけ。
目の前にいるナトナも困惑して、拘束されたままこちらに顔を向け、耳を垂れている。
(魔法で姿を変えられたんだわ!)
パニックになってパタパタ走り回っていると、ベルナが放った『エルァロランゼ』によって動きを止められてしまった。ナトナと同じように前足ごと上半身を魔力の輪で拘束され、力が抜ける。
「チゥ……!」
それでも何とか声を上げ、近づいてきたベルナに向かって抗議する。
けれどベルナはそれに耳を傾けることなく再び魔法を使うと、今度は自分の体を変化させた。一瞬白い光に包まれたベルナは、その光が消えた時には冷たい表情をしたエステルに変わっていたのだ。
(どういうこと)
薄桃色の長い髪に、金色の奇妙な瞳、表情こそ違うものの顔も一緒で、小柄な体格もエステルと全く同じだ。
ネズミになったエステルは動揺していたが、エステルになったベルナは淡々と先ほどの話の続きを始めた。
「私が考えた新たな作戦はどれもリスクがあるって言ったでしょ? 例えばこうやって私があなたに成り代われたら簡単なんだけど、魔法で私をエステルに、エステルをネズミに変え続けるのは至難の業なの」
声はエステルと違うように思えたが、エステル本人にはよく分からなかった。自分では特に魅力のない声だと思っていたが、他人が聞くと意外とこんなふうに澄んで聞こえるのかもしれない。
「魔力が圧倒的に足りないのよね。協力者から魔力や魔石を集めてみたけど、それを使っても数日持たないわ。それにどうやら、姿を変えても精霊は私に懐いてくれないみたいだしね」
ナトナはネズミになったエステルを心配してきゅんきゅん鳴いていて、エステルになったベルナの方は全く見ていなかった。
ベルナがエステルになって、自分はネズミのまま誰にも存在を気づいてもらえないと思うと怖かったが、ベルナの言う通りこれは無理のある作戦のようだ。
けれど作戦は他にも考えているようだし、何かもっと恐ろしいことを実行しようとしているのではとエステルは小さな体でおののいた。
しかし――、ベルナは両手をパンと合わせると、エステルに向かってこう頼んでくる。
「だからお願い! 今日だけ私にエステルをやらせてくれない? ちょっとだけでいいの。ルノー様の妹になって可愛がられて、美味しいもの食べて、リシェ様たちとお友達になって何か買ってもらったりなんかして、それでレクス殿下とも親しくできたらって。今日だけ夢を見させてよ! 正直、手っ取り早く私がお金持ちの養子になるっていうのは無理だと諦めてるの」
思っていたより酷い企みではなかったので、エステルは黒く丸い瞳をさらに丸くしてきょとんとした。
(なんだ、それくらいなら別に……)
いいかと思いかけたが、ベルナがエステルに成り代わることによって、ルノーたちを騙すことになるのが嫌だった。彼らを騙す共犯者にはなりたくない。
エステルになったベルナが何をするか信用もできないし、エステルのことをわざわざネズミに変えたのも意味が分からない。「今日だけ隠れていて」と頼むだけでいいのに、圧倒的に弱い生き物に変えたところに悪意がある気がした。
(それに、確かにルノーお兄様たちはみんな優しいから『エステル』に優しくしてくれるわ。でもそれでベルナが心地よくなってしまって、元の自分に戻るのが嫌になってしまったら? ネズミになった私を戻しに来てくれなかったら?)
ベルナが『エステル』を楽しんでいる間、ただ待っていることしかできないエステルは恐怖しかない。誰か他の人や動物に見つかればネズミなんて簡単に殺されてしまうから、その怖さもある。
「チゥ!」
とにかくまずは私を人に戻してほしいとエステルは訴えたが、それはベルナに届かない。拘束されたナトナをその場に放ったまま、同じく拘束されたネズミのエステルをつまみ上げると、ベルナはそばにある青い池まで歩いていきながら話をする。
「本当はね、このままあなたを殺してしまうのが一番楽なの。この姿なら殺すのも簡単だし、罪悪感も薄れるって思ってネズミにしたのよ。でも……さすがにそんなことはできない。エステルは侯爵令嬢になってしまったんだから全てがバレた時のリスクがあまりに高いし、私も別にあなたを殺したいわけじゃないの。ただ私も裕福になって幸せになりたいっていうだけ」
池のそばまで来て足を止めると、ベルナは葛藤している表情を見せながら、「うーん」と唸って独り言を続けた。
「……いや、やっぱり駄目だって。殺せばおそらくエステルは元の姿に戻るから、死体が見つかっちゃう。死体が見つかれば私が成り代わってるのもバレる。……でも重しをつけたら死体は浮いてこないかな? ここは底なし沼って言われているし、水は魔法で青くなっていて何が沈んでいても見えない」
恐ろしいことを言い始めたベルナに戦慄して、エステルは震える。ベルナの手の中から抜け出したかったが、『エルァロランゼ』で拘束されていて体の自由がきかないというのもあるし、それがなくても非力過ぎてどうにもならなかった。
だからかろうじて出せる声を使って、とにかくベルナに訴える。鳴いて鳴いて、必死でやめてと伝えた。
するとベルナはさらにたっぷり悩んだ後で口を開く。
「うーん、そうだよね、やっぱりやめよう。ごめんごめん、殺さないよ。さすがに殺人者になるのは怖いし、私がエステルみたいに幸せになるために何かもっといい作戦を考えなきゃ」
そのもっといい作戦が平和的なものだといいのだが、そうではないかもしれないので怖い。エステルに成り代わろうだとか、そのためにエステルを殺そうなんてことも普通は考えないはずなのだ。
「このこと、絶対に人に言わないでね。それを約束してくれないと元の姿には戻せないからね」
ベルナはエステルを握りしめながら顔を近づけて言った。今反抗したら何をされるか分からないので、エステルは恐怖で全身の毛を膨らませながら何度も頷く。
「元の姿に戻った後も誰にも喋っちゃ駄目よ。私は魔法が得意だってこと忘れないで。いつでもあなたを――」
そこまで言ったところで、ベルナはハッとして振り返った。きっとそちらから芝生を踏む足音が聞こえてきたからだろう。その音はエステルの耳にも届いていた。
「……エステル?」
やってきたのはレクスで、心配そうな、それでいて不可解そうな顔をして、エステルに姿を変えているベルナと、そのベルナに捕まっているネズミのエステル、少し離れたところに放置されているナトナを順番に見たのだった。