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幸せな休日が終わり、週が明けた。学園に通うのも今日からはルノーと一緒なのが新鮮で、緊張もする。
エステルの髪型はこれまでと同じハーフアップだが、リボンは使用人のシャナンが新しいピンク色のものをつけてくれた。そして左手の甲にある鱗を隠す手袋も、エステルの髪と同じ薄桃色のものを選んでくれた。レースで縁取りされていて可愛いのだ。
エステルとしてはリボンも手袋もこれまで使っていたもので構わなかったが、フェルトゥー家の名を汚さないようにと思うと、多少上等なものを身に着けたほうがいいのだろう。
「エステル、おいで」
考え事をしているうちに学園に着き、一足先に降りたルノーが手を差し出して待っていてくれる。
(慣れない……!)
エステルはぎこちない動きでその手を取り、馬車から降りた。この美青年が兄で、自分も侯爵家の一員に加わった事実がまだ信じられない。いつ夢から覚めてもおかしくないと思う。
ルノーと一緒に通学してきたエステルを見て、玄関先にいた他の生徒たちは分かりやすくぎょっとしている。動きを止めて目をまん丸にしてこちらを凝視したかと思えば、エステルとルノーが立ち去った瞬間にざわざわと噂話を始めた。
「ちょっと、あれどういうこと!?」
「どうしてあの子がルノー様と」
これからしばらくこうやって噂の的になる日が続くのだろうかと思うと少しうんざりする。
するとエステルの気持ちを察したルノーがこう声をかけてきた。
「しばらくは仕方ないね。だけど僕からも積極的にエステルが養子に入ったという話を流すから、やがて落ち着くと思うけど」
「すみません、ありがとうございます」
「君が精霊魔法を使えるということも積極的に周囲に言っていこう。そうすれば何の才能もない庶民が貴族の養子になった、というより嫉妬を受けにくいし、フェルトゥー家といえば精霊魔法だから周りも納得しやすい」
「はい、分かりました」
そうして三日も過ぎれば、学園の生徒たちのざわつきは多少落ち着いた。エステルがルノーと一緒に歩いているとちらちら見られるし、「精霊魔法が使えるだけでラッキーね」なんて呟きも聞こえてきたりはするが、教科書に落書きをされたりする嫌がらせもぱたりとなくなった。
嫌がらせをしていた生徒たちも、さすがにフェルトゥー家の娘をいじめる度胸はないようだ。
それどころか、態度を一変させてエステルに優しく接してくる生徒や教師も増えた。今までエステルに聞こえるように「醜いディタロプ」なんて言葉を浴びせてきた者も、エステルが嫌がらせを受けていると察しながらも我関せずで傍観していた者も、顔を合わせれば「おはよう。体調はどう?」なんて挨拶をしてくる。
(ここで態度を変えてきた人たちは信用できない気がする。私も貴族の一員になって社交界に加わらないといけなくなったし、誰が信用できて誰ができないのか、目を養わなきゃいけないわ)
エステルは彼らの変わりように怯えつつ、そんなことを思った。むしろ幸せを勝ち取ったエステルが気に入らないとばかりに、未だに擦れ違えば睨みつけてくる生徒たちの方がまだ信用できるのかもしれない。
そしてその日の放課後、体操服に着替えて竜舎に向かう途中でレクスに声をかけられた。
「エステル」
もうすぐ竜舎に着くというところで名前を呼ばれ、振り返ったところにレクスがいたので、エステルは驚いて小さく悲鳴を上げそうになった。レクスはずっと、エステルとまともに目さえ合わせてくれていないからだ。
リシェやルノーたちも含めて昼食を一緒のテーブルで食べてはいるけれど、本当にただ一緒のテーブルに座っているというだけ。レクスとエステルが言葉を交わすのは、エステルが挨拶をした時に短く返事をしてくれる時のみだ。
だからこうやって話しかけてくれるのは稀で、エステルは飛び上がるほど嬉しくなると同時に不安にもなった。
(もう昼食さえ一緒に食べるのはやめたいという話だったらどうしよう)
エステルとの交流は完全に絶ちたいという話だったら……。
エステルはレクスに対して、とにかく後ろ向きな考えしかできなくなっていた。
だが、予想に反してレクスがしてきたのは世間話程度のことだった。
「竜舎の掃除はまだ続けるの?」
「あ、はい。あの、ドラゴンたちは可愛いですし、彼らの生態を学べることもあるので続けたいなと……。フェルトゥー家の皆さんにも許可は頂いています」
娘が竜舎の掃除をしているなんて外聞が悪いだろうに、エステルがやりたいのならと許可してくれたのだ。新しい家族はみんなエステルに甘かった。
一方、レクスはエステルと距離を取り始めてから竜舎の掃除の手伝いには来てくれなくなっていたので、これからもエステル一人で竜舎に通うことになるだろう。
「そうか」
養子になったのに掃除を続けるなんてと非難しているのかエステルらしいなと肯定しているのか、どちらかよく分からない顔をしていたレクスだが、次の瞬間少し表情と声を緩めて優しく言う。
「フェルトゥー家での生活はどう?」
「し……幸せです」
まだこんなふうに柔らかい態度で接してもらえるとは思っていなかったので、エステルは驚いて目を丸くしながらたどたどしく答えた。
するとその様子がおかしかったのか、レクスは思わずフッと笑みをこぼす。
(笑ってる! レクス殿下が! 私の前で!)
この笑顔だけであと一週間は生きられそうと思いながら、エステルは嬉しくて震えた。枯れて乾ききっていた心の中に、今一気に水が注ぎ込まれたような気持ちだ。レクスが少し笑うだけで、エステルはこんなにも幸せになれる。
「そうか、なら良かったよ」
レクスはそれだけ言うと、「じゃあ」と踵を返して去っていってしまった。引き止めて少しでも会話を続けたかったエステルだったが、話題が思いつかず見送ることしかできなかった。無理に面白くない話を続けて嫌われても嫌だ。
レクスが校舎の角を曲がるまで後ろ姿を眺めた後、エステルは小さくため息をついて竜舎に向かう。
「来たな、侯爵令嬢」
外に荷物を置いて竜舎に入ると、調教師のリックがニッと笑って声をかけてきた。リックはエステルが庶民でも貴族になっても態度が変わらないので安心する。
竜舎の中には、夏に生まれた赤い仔ドラゴンのスーリがいて、ナトナと一緒に取っ組み合って遊んでいた。ナトナは今日はエステルの側にくっついているのではなく、ここでずっとスーリと過ごしていたのかもしれない。
スーリの母親であるアリシャ、それにアストロとドクも竜舎にいないので、みんなは放牧場となっている森に行っているようだ。
スーリとナトナはエステルが来たことに気づくと、我先にと駆けてきて撫でてもらおうとする。二人で競争するのが楽しいらしい。
「スーリも甘えん坊になったわね」
そう言ってエステルはスーリのザラザラした頭とナトナのもふもふの頭をそれぞれ撫でる。
と、そこへリックも近づいてきて言う。
「尾も振って犬みたいだよね。ところでエステルちゃんのこと、これからはちゃんとエステル様って呼んだ方がいいかな?」
「やめてください。今まで通りで大丈夫ですよ」
「でもエステルちゃんが貴族の養子になるなんてなぁ。まぁ真面目で良い子だから侯爵に気に入られるのも分かるけどね」
ほとんど独り言のように呟きながら、リックは床の汚れた藁を集めていた。エステルは竜舎の掃除の仕事を続けるが、以前より短い時間しか働けないため、リックも掃除を手伝ってくれているのだ。
「お屋敷に帰ったら寝るまで勉強勉強なんだろ? もうすぐ中間試験もあるし、貴族令嬢も大変だね」
「勉強は楽しいですよ。全然苦じゃありません。でもそのせいで竜舎の掃除をちゃんとできないのは申し訳ないですけど」
「いいよ、こっちのことは。手が足りなくなったら手伝ってくれる人を増やせばいいだけだし」
そうしてこの日も一時間ほど動き回って竜舎を綺麗にすると、エステルはリックやスーリに挨拶して、ナトナと一緒に走って校舎に向かう。
更衣室で制服に着替え、汚れた体操服を袋に押し込むと、今度は図書室へ走った。校舎にはほとんど生徒が残っていないのでナトナは透明にならず姿を現したままだ。
「お待たせしました」
息を切らせて図書室に入ると、中で勉強をしていたルノーに声をかける。
教科書から顔を上げたルノーは、長めの金髪を耳にかけて笑う。
「そんなに急がなくても大丈夫だよ」
実はエステルが竜舎の掃除をしている間、ルノーは図書室で待ってくれていたのだ。二人で一緒に馬車に乗って帰ろうと、ルノーが申し出てくれていた。
「ごめんなさい、私のわがままでルノー様……あの、お兄様の帰る時間も遅くなってしまって」
「いいんだよ。勉強を家でやるか図書室でやるかの違いだけだし、ここでやる方が集中できるしね。エステルのおかげで成績が良くなるかもしれない」
ルノーは優しくそう言ってくれ、二人とナトナは一緒に玄関に向かうと、そこで待っていたフェルトゥー家の馬車に乗り込んだ。
そして馬車が走り出すと、ルノーは隣に座っているエステルに言う。
「エステルは真面目だね。僕が図書室で待ってるよと言い出したんだから、遠慮せず待たせておけばいいんだよ」
「いえ、そんな……」
「勉強も必死でやっているように見えるけど、あまり根を詰めすぎないようにね」
「ですがフェルトゥー家の名に恥じぬよう、早急に貴族令嬢らしい所作を身に着けないとと思って」
マナーや行儀作法、立ち居振る舞いは、家庭教師につきっきりで指導してもらっている。自分がちゃんとできているか不安なエステルが何度も熱心に質問するものだから、家庭教師の方が「そこまで厳密じゃなくて大丈夫。今日はこのくらいにしておきましょう」と切り上げるほどだ。
「ゆっくりやればいいさ」
「いいえ、私がおかしなことをしたらお父様たちの評判まで傷つけてしまいますから。それに学業の方の成績もこれまで以上に落とすわけにはいかなくなりましたし、頑張らないと」
「どうして? もう学費が免除される特待生で居続ける必要はないのに。学費くらい父さんたちも快く出してくれるよ」
するとエステルはそこでルノーの方を見て、真摯な瞳でこう言った。
「駄目です。私が誇れる部分は学業の成績だけですし、そこをなくすわけにはいきません。それに今度の中間試験では必ず一番を取って皆さんに……あの、お父様やお母様……お兄様たちにも、褒めてもらうんです」
最後は照れて目をそらすと、ルノーはぱちぱちとまばたきした後で、これ以上なく柔らかく笑って妹を見つめたのだった。
「今の、父さんと母さんの前でもう一度言ってあげて。きっと喜ぶよ」
それから何事もなく日々は過ぎ、中間試験も無事に終わった。エステルはしっかり勉強していたので手応えはあったが、一番を取れるかは順位が出るまで分からない。
「明日には中間試験の結果が出るわね」
昼の食堂で、エステルを含めたいつもの六人でテーブルを囲みながらリシェが言う。
「エステルは毎日勉強頑張ってたみたいだし、何も心配なさそうね。でもレクスは今回はもしかしたら散々なんじゃない?」
「そんなことはない」
リシェがからかうように言うと、レクスは自信なさげに返した。何かあったのだろうか、と心配するエステルに、今度はバルトが話を振る。
「エステルは栄養十分なごはんも食べられるようになって、家庭教師や勉強道具も不足なく用意してもらえて万全だよな。侯爵夫妻も良い人たちだろ? 毎日楽しくやってるか?」
「はい、もちろんです。私にはもったいない環境と家族で……」
エステルは照れながら言った。するとルノーが皆にこう暴露する。
「エステルは『幸せ過ぎます』って言ってこの前は泣いてたし、熱を出したり、昨日は卒倒してたよ」
「卒倒?」
レクスがルノーに聞き返していたので、エステルは思わず説明する。
「大したことじゃないんです。毎日美味しい食事を頂いて、ベッドはふかふかで、明日着る服にも困らないし、何より家族から可愛がられて優しくされて……その幸せを強く感じたら嬉しくて恥ずかしくて頭が沸騰しそうになってしまって。気づいたら倒れていたんです」
「難儀な子ね」
リシェが呆れたように言う。
「幸せな環境に体がついていかないんです」
「どういうことなの、それ」
今度はルイザが不可解そうに呟いたが、リシェがこう続けた。
「まぁ育ってきた環境が悪過ぎたからね。でも倒れちゃうくらいフェルトゥー家で幸せになってくれて、まずは良かったわよ。ルノーも妹ができて良かったわね」
「うん、可愛いよ」
照れることなく答えるルノーに、エステルの方が恥ずかしくなったのだった。




