40 新しい生活
勉強漬けという言葉でエステルが今日一番の喜びを見せたところで、ルノーは苦笑しつつ話を変えた。
「ところでエステル、さっそくドレスに着替えてみたらどう? 実はこの後、リシェとバルト、ルイザが昼食を食べに来るんだよ。エステルが養子になったお祝いがしたいんだって」
「え? リシェ様たちがですか?」
レクスの名前が出なかったのでエステルの心は針で刺されたようにちくちく痛んだが、リシェたち三人が来てくれるのはとても嬉しかった。
「確かにこの格好じゃ貴族の昼食会にふさわしくないですよね」
「せっかくのお祝いの席だからね」
ルノーは優しくほほ笑んで言う。エステルは今、学園の制服を着ているのだ。大した服を持っていないので迷ったらつい制服を着てしまう。
「そうと決まればさっそく行くわよ!」
ターニャに腕を引かれ、衣装部屋に連れ込まれると、女性の使用人に取り囲まれた。そこからは全てが目まぐるしく過ぎていき、エステルが訳も分からずいるうちに着替えさせられ、髪を整えられた。
「知り合いばかりで、かしこまった場ではないですからね、仰々しく飾り立てるのはやめておきましょう。お化粧もしなくて十分可愛らしいし。本気のおしゃれをするのは好きな人の前で、ということね」
エステルの支度が終わったのを見てターニャが言う。
(好きな人の前で、なんて……。そんな機会は来ないと思う)
エステルは寂しげに目を伏せながら考えた。レクスには避けられているし、もちろんデートをすることもこの先一生ない。侯爵令嬢と王子として社交の場で出くわす可能性はあるが、エステルが着飾っていてもレクスは何も思わないだろう。
「緊張しているの? 大丈夫よ、すごく可愛いから」
ターニャは元気のないエステルを励ましつつ、姿見の前に連れて行く。そしてそこに映った自分を見ると、おしゃれにはあまり興味のないエステルも心がときめいた。
ドレスは襟が詰まった露出の少ないもので、淡い黄色の爽やかな色合いが素敵だった。シフォン素材で袖はふんわりとしていて、スカートはすっきりとしたシルエットながらも華やかで可愛らしい。ワンピースと言えなくもない、気軽に着られるドレスだった。
髪型はいつものハーフアップだが、編み込みが作られて髪飾りをつけられ、一気に華やかさが出ていた。
「あ……、す、すごく素敵です!」
自分の中に眠っていた女の子の心がわくわくしているのを感じる。自尊心は低いけれど、ドレスと髪型のおかげで今の自分は可愛いんじゃないかと思えた。
「まるでお嬢様みたいです!」
「まるでどころか侯爵令嬢ですからね。ところでこの手袋はもう処分していいかしら?」
笑いながら言った後、ターニャは先ほどまでエステルが左手にはめていた学園指定の手袋を持って尋ねてきた。今はドレスに合わせた黄色いレースの手袋をして鱗を隠しているのだ。
衣装箪笥にも新しい手袋はいくつも用意されていたけれど、エステルは控えめにこう頼んだ。
「それは私が初めて自分で稼いだお金で買ったもので、リシェ様との思い出の手袋でもあるんです。残しておいてもいいでしょうか?」
初めて自分のお金を持てた感動も、友達と一緒に買物に行った嬉しさも一生忘れたくなかった。
するとターニャは「もちろん」と答えて続ける。
「じゃあ大事に取っておきましょう。そしてさぁ、みんなにエステルをお披露目しに行くわよ!」
一階の私室で待っていたみんなのところに行くと、ルノーとマルクスはこう褒めてくれた。
「よく似合ってるよ。可愛い」
「やはり娘がいると華やかでいいね。お人形のようだ。もっと自信を持って胸を張りなさい」
恥ずかしくて丸まっていた背中を、エステルは顔を赤くしたままピンと伸ばす。照れるけれど、確かに姿勢は良くした方がいいだろう。
ナトナも最初はエステルの見慣れぬ姿に驚いて口を開けていたが、すぐに嬉しそうにしっぽを振り出した。エリオットは無言だったが、似合ってないとも言わない。
そうして正午になると、リシェがバルトと腕を組みながら笑顔でやって来て、ルイザもいつも通りツンと澄ました顔をしていたものの、エステルに「良かったわね」と声をかけてくれた。ルイザなりに祝ってくれているのだろう。
「おめでとう、エステル! 庶民でも貴族でも私のあなたへの友情は変わらないけど、こちらの方がエステルがより幸せになれる道だと思うわ。あとドレス似合ってる!」
リシェは前が短く後ろが長い青いドレスを着ていて、小さな宝石が連なって揺れる耳飾りをつけていた。
「おめでとう! フェルトゥー家はみんな良い人たちだからな、俺でも養子になりたいくらいだ」
そう冗談を言うバルトは、リシェに合わせた深い青の貴族服を着ていた。あまり派手ではない、スタイリッシュなデザインだ。
「ルノーがエステルの兄ね……」
そう呟いたルイザは体の線に沿った白いドレスを着ていて、女神のように美しかった。
「何? 心配? 僕、結構良いお兄ちゃんやれると思うけど」
「いかにも末っ子って感じだから、あなた」
「いかにも一人っ子なルイザに言われたくないなー」
二人は仲良く言い合う。エステルからするとルノーに末っ子感はないが、古くからの友人であろうルイザからするとまた違うのだろう。
人が揃うとみんな食堂のテーブルに着き、昼食会は和気あいあいと進んだ。
精霊たちは食事をしないので、ナトナは広い庭を駆け回って遊んでいる。ハーキュラはそんなナトナをじっと観察していて、モネはぐでんと横になって日光浴しつつ、時折駆け抜けていくナトナにちょうどいい障害物として跳び越えられていた。
大好きな人たちに囲まれてエステルも終始笑顔だったが、やはりレクスがいない寂しさは心に影を落としている。嬉しいのにどこか空虚で、幸せなのにどこか悲しい。
貴族の養子になって優しい家族ができて、美しい服を着て美味しいものを食べて、これ以上なく満たされているはずだ。なのにこれでも完璧ではないと感じてしまう自分が欲深すぎて嫌になる。
「ところでエリオットはそろそろ結婚を考えているのかな? もし番が見つかったなら早めに言ってくれないと困るよ」
食事が終わったところでマルクスがエリオットに尋ねた。
エリオットはちょっと嫌そうにしながら答える。
「次期領主、次期侯爵として覚えなければならないことはまだまだあるんです。もうしばらく結婚は考えていません。番もいないですよ。そう簡単に見つかるものじゃない」
「だが、庶民と比べると貴族は番を得る確率が高いからね。歴代の王のほとんどにも番がおられたと聞くし、うちも番がいた当主が多かった」
「別に番なんていてもいなくてもいいじゃないですか。私は特に欲しいとは思いません」
「だが、心から人を愛せるというのは幸せなことだよ。エリオットにもルノーにも、この幸せを感じてほしい。そうだろう、ターニャ」
「ええ、もちろん!」
そう答えると、ターニャはマルクスに向かってにっこり笑う。どうやら侯爵夫妻は番なようだ。リシェとバルトも番だし、貴族は番がいる確率が高いというのは本当かもしれない。
リシェはナプキンで口元を抑えてからこう言う。
「でも番という〝死ぬほど好きな人〟ができるのは一長一短あるわ。私はバルトがいてくれれば他に何もいらないし頑張ることができるけど、もしいなくなったらと思うと……。どうやって生きていけばいいか分からなくなる」
「番で怖いのはそれだよね。そんな大事な存在ができるのは恐ろしいし、僕も兄さんと同じく番はいらない派だな」
ルノーは髪を耳にかけながら言った。
自分には関係のない話だと思いながらも、エステルは興味深くみんなの話を聞いていたのだった。
「では、おやすみなさいませ。今日はお疲れでしょうから、ゆっくり休んでくださいね」
その日の夜、エステルがベッドに入ると、女性使用人はにっこりほほ笑んで部屋から出ていった。彼女は名をシャナンといって、今日からエステルの専属使用人になってくれるらしい。
栗色の髪をきっちりとまとめている二十歳のお姉さんで、物静かだがしっかり者という印象のメイドだ。緊張しっぱなしのエステルに終始優しく接してくれた。
「ありがとうございます。おやすみなさい」
シャナンが退室するとエステルは横になり、ナトナは枕元にやって来た。蝋燭の灯りはシャナンが消して行ってくれたので、部屋は暗闇に包まれている。カーテンから漏れる僅かな月明かりを頼りにナトナの方に手を伸ばし、顎を撫でた。
「あなたは暗闇の中では本当にどこにいるか分からなくなるわね」
精霊は瞳がないので、獣のように闇の中で目が光ることもない。
撫でられて気持ち良さそうに鼻を鳴らしているナトナから視線を外すと、エステルは部屋の天井を見上げて呟いた。
「私、こんなふかふかの暖かいベッドで眠っていいのかしら。こんなに良くしてもらって怖いくらい……」
そして暗闇と同化しているナトナを再び見ると、目を細めて言う。
「ねぇ、ナトナ。私幸せだわ。ここにはいきなり部屋に入ってきて私に意地悪をしてくる姉も、私を地下牢に閉じ込める父親も、私に八つ当たりして暴言を吐いてくる母親もいない。家族って本当は安心できる存在なのね」
そうして目を閉じる前、エステルはマルクスとターニャ、ルノーやエリオットの顔を思い浮かべたのだった。
「家族が誇れる娘になれるように、私頑張るわ」
次の日、マルクスに声をかけられて本を買いに連れて行ってもらえることになった。エステルは襟がついた白いワンピースを着て、同じく白い帽子を被って喜んで出かけていく。
ルノーも僕も行こうかなとついて来て、何故かエリオットも一緒に馬車に乗り込んだ。
「エリオットも本が欲しいのか?」
「いいえ。私は父上がエステルに何でも買い与えてしまいそうだったので、それを止める役をしに来たんですよ。甘やかして無駄遣いをしてはいけません」
マルクスの問いに、エリオットは厳格な口調で答えた。エステルはのほほんとした笑顔で言う。
「エリオット様のようにしっかりされたご子息がおられると、侯爵様も安心ですね」
「ははは、そうだな。しかしエステル、『エリオット様』だとか『侯爵様』だとか、あまりに他人行儀じゃないか。私のことはお父様と呼んでくれ」
「え……」
エステルは一瞬迷って緊張から目を彷徨わせたが、意を決して声を出した。
「お、お父様!」
「そんなに勢い込んで言わなくても」
マルクスがおかしそうに笑う。するとルノーも便乗して自分を指差し、にっこりほほ笑んで、一文字一文字を区切るようにゆっくりとこう言ってくる。
「ルノーお兄様」
エステルは恥ずかしくなりながらも、もうどうにでもなれという気持ちで口を開いた。
「ル、ルノーお兄様……」
「声が小さいけどまぁ許そう。最初だし」
ルノーはいたずらっ子のように口の端を上げて言った。一方、エリオットはそんな三人のやり取りを厳しい顔をして見ていたのだった。
大通りの本屋に着き、馬車を降りると、エステルは目をキラキラさせながら本屋を指さした。
「入ってもいいですか!?」
「もちろんだよ」
わくわくを体中から放ちながらエステルが大きな本屋に入っていくと、後ろからマルクスがエリオットに話しかけているのが聞こえてきた。
「エリオット、お前にはしっかり話していなかったが、あの子は前の家で……」
そこまでは聞こえたが、扉が自然と閉じてしまったのでそれ以上どんな会話をしているのかは分からなかった。
と言うか扉が開いていたとしても、エステルは目の前に並ぶ本たちに興奮して聞こえていなかっただろう。
「わぁ……!」
「おや、初めて本屋に来た子供みたいなお客さんが来たね」
本棚を見上げるエステルを見て、店の老主人が笑ったのだった。
そして三十分ほど店を見て回ったところで、断腸の思いで一冊本を選んだ。正直まだまだ見たりないしもっと時間をかけたかったけど、マルクスたちをこれ以上待たせられない。
「精霊魔法の本も気になるし、『才能のないあなたでもできる初歩的な魔法』って本も私にぴったり。人間の国の文化の本も見てみたいし、ドラゴン研究者の著書も気になる。でも、うーん、やっぱりこれかしら」
一人でぶつぶつ言っていると、マルクスがやって来て言う。
「それに決めたのかい?」
「はい」
「見せてごらん。おや、番に関しての本か。興味があるのかな?」
「はい、私には縁のないことでしょうが、昨日お父様やリシェ様たちが話しているのを聞いて気になって。番とは何なのか、少し調べてみたくなったんです」
エステルはそわそわと落ち着かない様子で説明した。番に憧れていると思われたら恥ずかしいからだ。
「そうか。勉強熱心なのは良いことだ。私は当事者だが番について調べたこともなかったし、番についての本があるなんてことも知らなかったよ。何か面白いことが書いてあったら教えてくれ」
「はい!」
「それとさっき独り言で言っていた本も持ってきなさい。欲しい本はまだあるんだろう? せっかく本屋に来たのに一冊だけでは寂しいじゃないか」
「い、いいのですか……?」
マルクスの財力と優しさに驚嘆しながら、エステルはいそいそと本を取りに行く。これがドレスやアクセサリーだったら「いえいえ一つで十分です!」と断われたが、本となるとエステルも欲望に勝てなかったのだった。
「本当にありがとうございました! とっても嬉しい! この本、大切にします」
帰りの馬車の中、エステルは買ってもらった本を大事に抱えて、向かいに座っているマルクスに言う。好きなおもちゃを手に入れた子供のように興奮して、早く帰って読みたくて仕方がなかった。
「遠慮しがちなエステルがそんなふうに素直に喜んでくれると、こちらも嬉しいよ」
マルクスもルノーもほほ笑みを浮かべ、馬車の中がほっこりしたところで、エリオットが懐から小さな紙包みを取り出した。そしてそれをエステルに差し出しながらぶっきらぼうな口調で言う。
「これをエステルにやろう」
「え? 何でしょう? ありがとうございます」
分厚い本を五冊、片腕で抱えながら、もう片方の手で可愛らしくラッピングされた紙包みを受け取った。
エリオットは腕を組んで至極真面目な顔で答える。
「それはクッキーという名のお菓子だ。食べたことはあるか?」
エリオットは今まで微妙に眉間にしわを寄せて、信用できない不審者を見るような目つきでエステルを見ていたが、今はそれがない。態度が明らかに軟化していた。
しかもお菓子を買ってきてくれるなんてどういうことだろう、と疑問に思ったところでふと気づく。
(もしかしてお父様から、私がドール家の中でどう扱われていたか聞いたのかしら? 本屋の前で何か話をしていたものね)
きっとそれでエステルのこれまでの境遇を理解して、同情してくれたのだろう。
(さすがにクッキーくらいは知っているんだけど……)
エステルはくすっと笑って思った。けれどエリオットの優しさが嬉しくて、クッキーも本と同じくらい大事に手のひらで包む。
「ありがとうございます。クッキーを貰ったのなんて初めてです。大事に頂きますね」
「クッキーくらい大事に食べなくてもいい。また買えばいいだけだ。私は明日領地に戻ってしまうが、何か欲しいものがあったら父上たちに買ってもらうといい」
「無駄遣いがどうとか言っていなかったかい、お前は」
態度が変わったエリオットを見て、マルクスが思わず口を挟んだのだった。




