29 精霊と契約している友人
エステルは久しぶりに子供の頃の夢を見た。しばらく登場していなかった義家族が出てきて、実際にあったことを追体験するかのような夢だった。
『いたいっ』
夢の中でエステルは床にうずくまって泣いていた。義姉のロメナが馬用の長鞭を持ち出してきて、それで意味もなくエステルの背中を打ったのだ。
ロメナも子供で腕力は弱かったとはいえ、力いっぱい打たれたのでみみず腫れになったことを覚えている。
『混血なんてかちくみたいなものでしょ。私たちよりおとった存在だって、父さまたちが言ってたもの』
辛かった記憶というのは、忘れたようでいて頭の隅にこびりついたままなのかもしれない。この出来事ももう何年も思い出してなかったけれど、ロメナの意地悪な笑い声も容易に頭に浮かんだ。
「嫌な夢を見ちゃった」
エステルは朝起きると沈んだ顔をしてため息をついた。上半身をのっそりと起こし、そばにいたナトナを撫で回して何とか気分を回復させようとする。
鞭で打たれるなんて、体に走った痛みはもちろん、心の痛みも耐え難いものだった。人としての尊厳を踏みにじられたような気持ちになったし、実際エステルは義家族の家で何度も何度も自尊心を破壊されてきた。
「今日はレクス殿下は夢に出てきてくださらなかったわ」
ほぼ毎日のようにレクスの夢を見るおかげで、義家族の出番は少なくなっていたというのに。
「きっとここ五日レクス殿下に会っていないせいね」
簡易放香魔法を披露したあの日から三日間レクスは学園を休み、その後二日間の休日に入ってしまったのだ。
週明けの今日、レクスがまた休んでいたらエステルは絶望してしまうかもしれない。たとえ五日間だけでも好きな人に会えないというのは辛い。
「でも殿下が休まれたのは私のせいかもしれないし……」
まだ寝ぼけているナトナをひっくり返し、お腹を撫でながら呟く。
魔法で野花の匂いを放った直後からレクスは様子が変だったし、結局あの日、レクスは放課後も竜舎には来なかった。翌日リシェに尋ねると「レクスは体調を崩したわけじゃない」と言っていたが、自分の簡易放香魔法のせいではとエステルは気が気じゃなかった。魔法に使ったのは毒があるような花ではなかったが、もっと高級な花を用意した方が良かったのかもしれない。
「申し訳ないわ。レクス殿下、早く良くなられるといいけど……。次会ったら謝らなくちゃ」
そうして学園に行くと、幸いにもレクスは登校していた。昼食時に食堂で会うと、エステルは死刑宣告を待つ罪人のように震えながら謝罪した。
「レクス殿下、花の香りを嗅がせてしまって申し訳ありません。普段殿下が嗅ぐことのないような野花だったので、気分を悪くさせてしまいましたよね。体調は大丈夫でしょうか?」
同じテーブルに座っているレクスとその友人四人は、青い顔をしているエステルを見て一瞬きょとんとした。
けれどすぐにリシェとバルト、ルノーが笑い出し、ルイザも少しだけ愉快そうにしながら反応をうかがうようにレクスを見た。
バルトはハキハキとした声でおかしそうに言う。
「そうか、王子とは野花の香りを嗅いだだけで体調を崩すのか!」
「いえ、何だかそういう言い方をすると……」
馬鹿にしているように聞こえてしまわないだろうかとエステルは心配した。
しかしレクスは優しくエステルに返す。
「体調が悪かったわけではないから大丈夫だよ。ただちょっと、用事があって休んでいただけだ」
「へー、用事ってなぁに?」
面白がって尋ねてくるリシェを鋭い瞳でひと睨みした後、レクスはエステルの方を見て言う。
「心配かけたね」
「いえ、殿下がお元気なら良かったです」
エステルは心からホッとしてほほ笑んだ。ここ五日は食欲もなかったが、レクスが元気だと分かった途端お腹が空いてきたので、目の前にある昼食に手をつける。
みんなで食事を取りながら談笑していると、ルノーがふとエステルを見て質問してきた。
「そういえば君は闇の精霊と契約している……いや、契約はしていないんだったか。幼い精霊に懐かれていると聞いたよ」
ルノーが話しかけてくるのは珍しいので、エステルは一瞬戸惑った。ルノーは人当たりは良いが自分をさらけ出すような感じでもなく、明るいリシェや快活なバルト、感情が読みやすいルイザと比べると秘密めいたところがあった。
何が好きなのかもよく知らなかったが、もしかしたら精霊に興味があるのだろうか。
エステルはルノーのことを少し知れたことが嬉しくてにこやかに答えた。
「はい! ナトナといいます」
「今はそのナトナはいるの? 姿を見てみたいな」
「えっと、どうでしょう。ナトナ!」
名前を呼ぶと、椅子に座っているエステルの足にナトナは飛びついてきた。肉球のついた小さな前足が膝に触れているのが分かる。
「いるみたいです。ここで姿を現したら騒ぎになるでしょうか?」
後半の質問はレクスの方を見て尋ねた。
「いや、ナトナはほぼ子犬だから平気だろう」
見た目がいかにも精霊という感じではないしサイズも小さいから大丈夫ということなのだろうが、レクスがナトナをほぼ子犬だと思っているのが何だか可愛かった。
「ナトナ、姿を見せて」
エステルは足元に向かって声をかけたけれど、ナトナは姿を現すことなく、一旦離れた後にまた飛びかかってきた。ご機嫌にしっぽを振ってはしゃいでいる姿が思い浮かぶ。
「ナトナったら」
捕まえようと手を伸ばすとするりと逃げて行く。かと思えば後ろからキャン! と楽しげに鳴く声が聞こえてきた。
「完全に遊びモードに入っています……。申し訳ありません」
ふざけて言うことを聞いてくれない時はたまにある。ナトナはまだ幼いし、エステルも躾をきっちりしているわけではないからだ。
謝るエステルにルノーは笑って「いいよ」と答えたのだった。
昼にそんな会話をしたおかげで、エステルは以前レクスとした話を思い出した。レクスは以前、『私の友人にも精霊と契約している竜人がいる。今度紹介するよ』とエステルに言ってくれていたのだ。
(あの話、覚えておられるかしら? またレクス殿下に聞いてみよう)
そこで放課後、エステルは竜舎の掃除の手伝いに来てくれたレクスにさっそく尋ねることにした。掃除が全て終わり、手を洗った後、竜舎の外で控えめに話を切り出す。
「あの、殿下……こんなお願いをするのは厚かましいのですが」
レクスも洗った手を高級そうなハンカチで拭きながら、エステルの方を振り返ってほほ笑む。
「どうした? エステルからお願いをされるなんて珍しい。遠慮せず言ってみて」
優しい返答をもらえたので、エステルはいくらか安堵しながら言う。
「以前、レクス殿下のご友人に精霊魔法が使える方がいるとおっしゃっていましたよね。私、是非その方に会ってお話を伺ってみたいのですが……」
しかしその途端レクスは少し表情を固め、黙り込んだ。わずかに眉間にしわが寄っている気がして、不機嫌にさせてしまったかとエステルは恐れおののく。
「あ、あああの、申し訳ありません! 私みたいな者が殿下にお願いをしてしまって!」
「いや、違う。いいんだよ、望みは何でも言ってくれて」
勢いよく謝罪するエステルにレクスも慌てて返す。
しかしエステルは頭を下げて早口で続けた。
「いえいえすみません、私のように精霊魔法もしっかり使えるわけではない中途半端な庶民を殿下のご友人に紹介するのはお嫌だという気持ちは分かります。厚かましいことを言ってしまって申し訳ありませんでした。今のお願いは忘れてください」
「いやいや、待って。そんなこと思ってないよ」
「いいんです、気を遣っていただかなくても」
泣きそうになっているエステルを見てレクスは小さくため息をつき、こう言った。
「分かった、紹介するよ」
諦めたような言い方だったので、エステルも躊躇する。
「あの、本当に無理なお願いをしてしまったなら、どうぞ断ってください」
「いや、そういうわけじゃないんだ。大丈夫だよ。無理なお願いなんかじゃない」
レクスは優しく眉を下げて言う。エステルは申し訳ない気持ちになりつつも、有り難くお礼を言ったのだった。
件の友人を紹介してもらえることになったのは次の休日で、その日は午前十時に、馬車に乗ったレクスが学園の寮まで迎えに来てくれることになっていた。
「ナトナ、今日はずっと私のそばにいてね。もしかしたら精霊のお友達ができるかもしれないわ」
ナトナにそう言い聞かせ、一緒に寮を出る。万が一にもレクスを待たせてはいけないと、まだ九時半だったが外で待機することにした。
秋になり、暑くも寒くもないちょうどいい気温の中、ナトナは暇を持て余してそこら中を走り回っている。今日は透明にならずに姿を現しているけど、一見毛が長くて目が隠れているだけの子犬に見えるし、他人に目撃されたとしても問題ないだろう。
そして三十分後、王家の紋章が入った黒塗りの馬車がやってきて停まると、中から出てきたレクスはエステルを見て言った。
「おはよう、エステル。もしかして結構前から待っていた?」
「……は、はい」
なぜバレたのだろうと思いながら返事をすると、レクスは困ったように笑って続ける。
「何となくそんな気がした。部屋で待っていて良かったのに。次からそうするんだよ」
「はい」
外で待っているのは逆に正しいマナーではなかっただろうかと心配しつつ、またレクスと休日に出かけられる〝次〟の機会ががあるといいなと希望を抱く。
「ナトナもおはよう。二人ともおいで。エステルはここに座って」
御者が出してくれた踏み台を使って中に乗り込み、レクスの隣に座る。ナトナも踏み台に飛び乗ってから馬車に入り、まずは床の匂いを嗅いでいた。
何を着ていけばいいか分からなかったし上等な服も持っていないので、休日だがエステルは制服を着てきた。鱗を隠すための左手の手袋は、相変わらず学園指定のものを使っている。ダサいかもしれないが、どこにつけていっても失礼にはならないのではないかと思っているのだ。
一方、レクスは灰色のスーツに水色のスカーフを巻いていて、王子というよりどこかの良家の子息といった感じだ。もしかしたら高級な服など持っていないエステルに少しでも合わせようとしてくれたのかもしれない。
左手には、今日は普通の黒い革の手袋をはめていた。この季節でも暑くなさそうな薄めのものだった。
馬車が走り出すと、揺れが怖いのだろうか、膝に乗せてと甘えてくるナトナをエステルは抱っこする。
ナトナがいるから多少落ち着きは保っているが、レクスとの距離が近い空間に、嬉しさと緊張で胸が高鳴っていた。この鼓動がすぐそばにいるレクスに聞こえないか心配しながら、エステルはあわあわと会話を始める。
「い、良いお天気で良かったですね!」
「ん? そうだね。エステルは晴れている方が好きなの?」
「はい! ……いえ! どちらも嫌いでは……いえ、やっぱりお洗濯物がよく乾くので晴れている方が好きです」
赤い顔をして視線もきょろきょろと定まっていないのが自分でも分かる。返答もごちゃごちゃしてしまったし、レクスも笑っていた。
「そうか、洗濯も自分でしているんだから偉いね」
「庶民にとっては普通のことですよ。溜めずにやっていたらそれほど苦じゃないです。シーツや毛布を洗うのは大変ですけど」
目的地に着くまでの間、レクスが色々話を振ってくれたので会話が途切れることはなかった。が、エステルは何だかずっと恥ずかしくて、ナトナの前足の肉球を延々と揉んで精神を安定させようとしていた。
そうして着いたのは、城からほど近い場所にある、貴族たちの家が立ち並ぶ住宅地だった。
「自分の領地を持っている貴族でも、この辺りに別宅を持っている者は多くいる。このフェルトゥー家の屋敷もそうだね」
小窓から外を眺めながらレクスが言うと同時に、馬車は門を越え屋敷の敷地内へと入っていく。
そして玄関前で停まると外から御者が扉を開けた。
「着いたよ。行こう」
「フェルトゥー家……」
聞き覚えのある名前だなと思いながら、エステルは馬車を降りて屋敷を見上げる。三階建てだが横に広く、屋根はテラコッタ色、外壁はクリーム色で、下半分はより濃いクリーム色のレンガで飾られている。窓枠やバルコニーの手すりは白色で、植物と小動物たちの彫刻が彫られていてメルヘンだ。
庭には自然が多く、大きく成長した木は屋敷にぶつかりそうになっているし、花壇の植物は等間隔に整列しているわけではなく好きなように咲いている。
芝生は整えられているし手入れもされているが、必要以上に綺麗にせず、ありのままの部分をわざと残しているように見えた。
妖精でも住んでいそうなとても可愛いお屋敷だ。
「でもフェルトゥー家って……」
小さく呟きながら、執事に案内されて玄関の中に入っていくレクスに続く。ナトナもトコトコ走ってついてきた。
記憶が正しければ、フェルトゥーというのはレクスの友人であるルノーの名字だ。
「レクス殿下、もしかして精霊と契約している殿下のお知り合いの方って……」
エステルが尋ね、レクスが答えようとしたが、それより先にルノーが姿を現した。玄関ホールの脇にある螺旋階段から降りてくると、ルノーは長めの髪をかき上げつつ、少し眠そうな表情をしながらほほ笑んだ。
「やぁ、来たね」




