26 秋学期
長い夏季休暇が終わり、秋学期が始まった。
竜人たちが住む国――ドラクルス王国に住むエステルは竜人の血が八分の一しか入っていない混血だが、竜人の貴族子女に混じって王立リテアラス学園に通っていた。
今は学園の寮で生活していて、二人部屋を一人で使っている。なのでエステルはルームメイトに遠慮することなく早起きし、登校する準備を整えていた。他の生徒より早く学園に行って図書室の本を読むのが日課なのだ。
エステルは壁にかけてある小さな鏡の前に立ち、真っすぐ伸びた薄桃色の長い髪を整える。この髪の色も金色に光る瞳も嫌いだった。奇妙で下品な色だと義家族に散々言われてきたので、その感覚が染み付いてしまっているのだ。
だが今では義家族から虐げられることもなくなり、おしゃれは好きにできる。が、生活費は無駄にはできないので、髪飾りは以前から持っているシンプルなリボン一つだけ。それでも義家族の目を気にすることなく髪を整えられるのは嬉しかった。
いつもと同じようにハーフアップにすると、エステルは鞄を持って部屋を出る。まだ寝ている生徒が多いのか廊下は静かだ。良家の子が多いので、エステルほど必死に勉強している者は少ない。
学園に向かう短い道中も、着いてから図書室で本を読んでいる間も、エステルは嬉しくて笑い出してしまいそうな気持ちだった。
夏季休暇の間はあまり会えなかった想い人――この国の王子であるレクスと、今日からまた毎日のように会えるだろうから。
レクスとは会話できなくても遠目にちらりと姿を見るだけで胸が高鳴るし、なんなら校舎という同じ空間にいられるだけで幸せな気持ちになる。それくらい好きなのだ。
(私みたいな混血の庶民がレクス殿下を好きになるだけでもおこがましいけれど、どうしてもこの想いを捨てられない)
今日ももうすぐレクスの姿を見られるかもしれないと思うとちょっとニヤけてしまって、自分でも自分が気持ち悪い。図書室には誰もいなかったが、表情が緩むのが恥ずかしくてエステルは読んでいた本で顔を隠した。
と、『何してるの?』と言いたげな戸惑いの鳴き声が足元から聞こえてきたので、エステルはちらりと下へ目をやる。
そこには黒い毛皮の小さな仔狼――ナトナがいて、こちらを見上げていた。と言っても闇の精霊であるナトナには目がないので、顔の角度で見ている方向を予測するしかない。
「ナトナ、いたのね」
瞳がなくても十分可愛らしい仔狼を抱き上げ、膝の上に乗せた。精霊としてまだ幼いナトナは愛玩犬と変わらぬ大きさだ。
ナトナはエステルの手を挨拶代わりに舐め、しっぽを振っている。
「どこへ遊びに行っていたの?」
尋ねても、言葉を話せないナトナは舌を出して笑っているだけだ。昨日寝る時には一緒にベッドに入ったので、きっと早朝の間ただ散歩をしていただけだろう。
義家族からエステルを守る必要がなくなったからだろうか、ナトナは最近自由に行動している。エステルの就寝時には毎日ナトナも一緒に寝るものの、今日みたいに早く起きてベッドを抜け出したり、昼間も遊びに行ったりエステルにくっついていたり色々だ。
以前のように、昼間はダードンに働かされてそれ以外の時間は義家族からエステルを守るために側にいる、という比較的きっちりした生活パターンではなくなった。
「お気に入りの場所や精霊のお友達でも見つけて、これからはナトナも自分の生活を楽しんでね」
エステルがそう言うと、ナトナはパタパタとしっぽを揺らして返事をしたのだった。
そうしてしばらく図書室で過ごした後、予鈴が鳴る少し前にエステルは教室へ向かう。
と、図書室を出てすぐのところでレクスとばったり出会った。窓から差し込む白い朝日を浴びて、レクスはいつにも増して爽やかに映った。普段の冷静で冷たくも見える印象が和らいでいる。
薄いブルーの瞳がこちらを向くと同時に、レクスは表情を緩めた。
「エステル」
名前を呼ぶ声も心なしか柔らかく、明るい。
「レクス殿下! おはようございます!」
レクスと会うのは久しぶりなので、エステルの声は分かりやすく弾んだ。レクスは竜舎の掃除を手伝いに来てくれることもあったので、長い夏季休暇中一度も会っていないということはなかったが、ここ十日間は忙しかったらしく顔を見ていなかったのだ。
「何だか久しぶりだね」
「はい! 十日ぶりです」
今日も会えなかったな、と毎日数えていたので日数に間違いはないはずだ。やけに元気なエステルにくすりと笑いながら、レクスは下の方を見てナトナに声をかける。
「おはよう、ナトナ。そろそろ透明になった方がいい」
綺麗な銀色の髪が揺れ、下を向いたレクスの眉にさらりとかかった。レクスの髪は前回会った時より少し短くなっている。エステルはもう半年以上髪を切っていないが、レクスは定期的に手入れしているのだろう。
「殿下、髪を……」
「ん?」
切ったんですねと言おうとしたが、僅かな変化に気づくのは気持ち悪いことなのではないかと心配になってやめた。
「あ、いえ、何でもないです」
「何?」
レクスはおかしそうにほほ笑むと、「教室に行こうか」と言って歩き出す。
軽く言葉を交わしただけで切り上げたレクスを不思議に思ってエステルは尋ねた。
「殿下、何か私にご用だったのでは?」
するとレクスは振り返って言う。
「いや、特に用があったわけではないんだ。しばらく会っていなかったから授業が始まる前に顔を見ておこうと思っただけだよ」
「そうなのですか」
心にポッと明かりが灯ったように温かい気持ちになり、エステルは少しにやけた。教室に向かう前に図書室に寄ってくれたというだけなのに、どうしようもなく嬉しい。
自然とニコニコしてしまっているエステルは、傍から見ても浮かれているのが分かるのだろう。レクスと並んで歩いていると他の生徒たちからの注目を集め、ヒソヒソと囁かれる。
「殿下、まだあの混血のこと気にかけておられるのね」
「あの子、調子に乗ってるわ」
そんな言葉が聞こえてきた気がして、エステルは思わず表情を引き締めた。そして何となく一歩後ろに下がり、レクスと並ばぬよう気をつけて歩く。
「じゃあまた後で。きっとまたリシェが一緒に昼食を取りたがるだろうから」
「はい」
午前の授業を終えたらまたレクスに会えると思うと手を叩いて喜びたくなったが、周囲の目もあるので、エステルは平静を装って答えたのだった。
日中はまだ暑さを感じる教室での授業中。すでに予習している歴史の話を教師が始め、集中力が削がれたエステルの頭に、ふと義家族の姿が浮かんだ。
みんな意地悪な顔をしてこちらを睨んでいるけれど、彼らのことを思い出すと切ないような残念なような気持ちになる。
義父のダードンはエステルの夏季休暇中に速やかに処刑されたらしい。貴族たちが被害者だったこともあり刑の執行は早かったとレクスから聞いた。
義母のマリエナと義姉のロメナもすでに田舎に引っ越して、もう二度と顔を合わせることはないだろう。
ロメナも貴族や王族に手を出していればもっと罪が重くなっていた可能性はあるが、被害者が庶民のエステルだったのでそうはならなかった。
(お義父さまも貴族相手に違法な薬を売ったりしなければ、死刑にはならなかったのかしら)
身分による格差がこの国ではしっかりとあることをエステルは改めて感じていた。
『あの子、調子に乗ってるわ』と今朝廊下で言われたけれど、それはただの陰口だと流さない方がいいのかもしれない。
(レクス殿下に優しくされても、決して図に乗らないようにしないと。自分の立場を弁えないときっと悲惨なことになる。私みたいな混血の庶民がレクス殿下に好意を寄せるなんて、それだけで罪だもの)
義父がエステルに教えてくれたことが唯一あるとすれば、調子に乗って貴族以上の竜人に手を出さないことだろうか。
自分は哀れな捨て犬で、レクスはそんな存在に少し同情して構ってくれているだけなのだと、エステルは自身に言い聞かせたのだった。
「エステルー! 一緒に食堂に行きましょう!」
「リシェ様……。私のような者が一緒には行けません」
お昼になってリシェがわざわざ二年の教室まで迎えに来てくれたのも嬉しかったが、エステルは控えめにそう返した。
最近義家族が罪に問われたばかりの訳ありで貧乏でおまけに混血な庶民に、大貴族のご令嬢が親しく声をかけている光景が異様に映るのか、クラスメイトはしんと静まり返ってこちらを観察している。
「どうしたの?」
リシェが首を傾げると、派手な紫色のボブヘアが揺れて小さな赤いピアスが見えた。可愛らしい猫みたいな瞳が、不思議そうにエステルを見つめている。
「春学期は一緒にお昼ごはんを食べてくれたじゃない。夏季休暇が長かったから私たちの関係がリセットされちゃった? ごめんね、休暇中も遊びに行ければよかったけど、私ずっと避暑地の別荘で過ごしていたのよ。エステルも別荘に招待しようかと思ったけど、うちの家族や親類に囲まれたらあなたきっと気疲れしちゃうと思って。でも来年は是非来てよ」
可愛く言われるとつい「行きます!」と答えたくなったが、エステルは自重して言う。
「リシェ様、私のような庶民はリシェ様の別荘に招待されるべきではないんです。それに一緒にごはんを食べるのだってやめた方がいいと思うんです」
するとリシェは呆れたようにこう返した。
「まだそんなこと言ってるの? 学校でそこまで厳密に身分を気にする必要はないわ。何より私が一緒に食べようと言っているんだから!」
そして強引にエステルの手を引いて食堂に連れて行く。ここまで言われて拒否するのは逆に失礼かとエステルも大人しく従った。
廊下を歩いている間も他の生徒の注目を集めたが、リシェは何も気にすることなく話題を振ってくれる。
「休暇の間、元気だった? レクスとは何度か会っていたんでしょ?」
「はい、竜舎の掃除を手伝いに来てくださって」
「アハハ! ほんと面白い、それ」
何が愉快なのかは分からないがリシェは笑った。
そうこうしているうちに食堂に着くと、リシェはすでにレクスたちが座っている席にエステルを案内する。
「お、特待生! 久しぶり」
褐色の肌に短い黒髪の、快活な青年が片手を上げて声をかけてくれた。リシェの番のバルトだ。
リシェはバルトの左隣に座り、さらに自分の左隣の席をエステルに勧める。
「失礼します」
おずおず座ると、まずレクスと目が合った。すでに食事を頼んでいてこれから食べ始めるところだったようだが、エステルと視線が合うと優しく目を細める。
その顔が綺麗でちょっと恥ずかしくなったエステルは、レクスの隣に座っているルイザにさっと視線を移した。緩く波打つ金髪を持つルイザは、まるで神話に出てくる女神のように美しい容貌をしているが、今は何故か呆れたようにレクスを見ていた。
そして最後に目が合った薄い金髪の男子生徒――ルノーは、エステルを見て軽くほほ笑んでくれた。
ルノーはレクスに負けず劣らずの整った顔立ちをしているが、レクスより柔和な印象だ。だけど不良っぽい色気もあって、恋心を抱いているわけでなくても見ていると少しドキドキしてしまう。
照れて居心地が悪くなったエステルは、慌てて立ち上がって言った。
「あ、私、食事を頼んできます。リシェ様のも注文してきますね」
「いいわ、私も行く。トレーを二つも持つのは大変でしょ」
リシェと一緒に席を離れると、誰に言っているのか分からないが、「睨むなよ」とおかしそうに言うルノーの声が後ろから聞こえてきたのだった。




