23
「復讐?」
エステルはぽかんとして呟いた。場にそぐわないのんびりした声だったかもしれない。しかしそれは復讐される心当たりがなかったせいだ。
確かにここ一ヶ月ほど、家でエステルが大事に扱われてロメナは嫌な思いをしたかもしれない。けれどそれで復讐をするなら、長年ロメナがエステルをいじめてきたことについてはどう考えているのだろうか。
「あんたは混血の養子のくせに家では実の娘である私より優遇されて、学園ではレクス殿下たちと親しくなって、さぞ気分が良かったでしょうね。私の立場を奪って満足?」
雨音にも負けぬ強い口調でロメナが言う。家ではともかく学園でロメナの立場を奪ったつもりはないが、本人はそう感じているらしい。
「あんたのせいで私はすごく辛い思いをしたんだから復讐するのよ」
一旦そう言ったものの、ロメナはふと考え直して訂正する。
「いえ、よく考えたら復讐じゃないわね。私はあんたの悪事を暴いて正すだけ。でもそれで全部が元通りになる。あんたがレクス殿下に気にかけてもらえることはなくなって、お父様たちからの期待も失うの」
「悪事って何ですか?」
困惑して返す。さっきからロメナの言っていること、何一つとしてしっくりこなかった。
「とぼけても無駄よ。私、分かっているんだから。あんたはレクス殿下に好かれているんじゃない。同情されているだけ」
一向に弱まる気配のない雨が、渡り廊下の屋根をうるさく打ち続ける。
「やっぱりあの闇の精霊が殿下の心を操ってる。それで強制的に同情させているのよ」
「そんなことはありません……! ナトナは優しい人相手に心を操ったりしません。すでにこちらを気遣ってくれている人に同情心を起こさせても意味がありませんし――」
とっさに否定しようとしたが、エステルは思わず続きの言葉を飲み込んでしまった。レクスは本当に最初から優しかっただろうか、とふと考えてしまったからだ。
ナトナはエステルに敵意を持っていない人に魔法を使うことはない。ナトナが人の心を操るのは、いつだってエステルを助けるためだからだ。
(だからレクス殿下に魔法を使うはずがないって思ってたけど、純血主義の王子が混血の私を気にかけて竜舎の掃除まで手伝ってくれるなんて、改めて考えるとおかしいわよね)
すうっと体が冷たくなって、血の気が引いて倒れてしまいそうになった。エステルはレクスと出会った時のことを思い返す。
食堂で初めて会った時は、エステルは大きな衝撃を受けたが端から見れば特に事件は起きていない。レクスとは言葉すら交わさなかった。
ナトナはあの時あの場にいなかったと思うが、もし透明な姿で側にいて一部始終を見ていたとしても、レクスを敵と認識することはなかっただろう。
でも二回目にレクスと邂逅した時はどうだろうか。弁論大会で純血主義を主張して、混血は受け入れるべきではないと話しているのを聞いていたとしたら。
(もしもあの場にナトナがいたなら、レクス殿下のことを私の敵だと思ってしまったかもしれない)
ナトナがどこまで言葉を理解しているかは分からないが、〝混血〟という単語は家で何度も聞いたことがあるはず。義家族が何度も何度もその単語を出してエステルを蔑んでいたからだ。
だからナトナは義家族と同じく混血を否定するレクスに魔法をかけ、心を操ったのかも。
自然と手が震えてくる。とんでもない大犯罪を犯してしまった気分だ。
(この国の王子の心を操るなんて……)
このことがバレたら極刑は免れないのではないか。
(ナトナも罰を受けることになるのかしら)
エステルを守ろうとしてやってくれたことでナトナまで処刑されてしまったらと思うと、恐怖で呼吸すら忘れてしまう。
ロメナは勝利を確信したように腰に手を当てて言う。
「知ってる? 精霊との契約ってね、第三者が強制的に解除することもできるのよ」
嫌な汗をかきながら、エステルはただロメナの話を聞いていることしかできなかった。
「精霊契約の強制解除魔法はかなり難しくて私はできそうになかったけど、お金を払えばやってくれる魔法使いを見つけたの。あんたのせいでかなりの金額を払わされることになって、お母様が集めていた宝飾品もほとんど渡すことになってしまったんだからね」
義両親はナトナがレクスの心を操ることに反対はしないと思う。むしろ心を操ってでもレクスに気に入られろと言うだろうから、きっと魔法使いへの依頼もロメナが一人でやったに違いない。
「強制解除魔法には精霊の真名が必要で、普通はここが難関なんだけど、あんたは精霊の名前を隠してないから問題なかったわ」
「真名?」
エステルは眉根を寄せて呟く。何のことだかさっぱり分からなかった。
「その反応も見てもやっぱり真名は隠してなかったのね。真名っていうのは契約する時に精霊につける名前のことよ。普通はそれ以外は別の名前で呼んで、真名で呼ぶことはないの。そう本に書いてあったわ。ここ一ヶ月で精霊魔法の本を読み漁ったんだから、私」
エステルもよく本を読むが、自分が知っている分野は後回しにしようと精霊に関する本はほとんど読んでいなかった。それよりもこの国の歴史や風習、竜人のこととか、子供の頃に教えてもらえなかった基本的な知識をまずはつけようとしていたのだ。
「あんたがナトナと契約したのは子供の頃。その時のあんたは今以上に世間知らずで本も与えてもらってなかったし、真名は隠すものだと思ってなかったでしょ?」
確かにそうだ。そんなこと知らなかった。
エステルは渡り廊下の柱に手を置き、自分を支えた。季節は夏で、雨のせいもあって蒸し蒸しして暑いはずなのに、自分の体だけが氷のように冷えている。
(私、ナトナと契約した瞬間のことだってよく覚えてない。出会って以降、ナトナがずっと私の側にいてくれるから、後から『きっと私がナトナって名前をつけたからそれで契約を交わしたことになったんだ』って気づいただけで)
追い詰められたエステルを見て、ロメナは愉快そうに言う。
「依頼した魔法使いには、今日の正午に強制解除魔法を行うよう伝えてあるの。お金さえ払えば確実にやってくれる魔法使いだし、真名が分かっているなら失敗はないと言っていたわ」
そこで小さな懐中時計を制服のポケットから取り出すと、「あら」と声を漏らす。
「話をしているうちにもう正午を過ぎていたわ。これであんたと闇の精霊との繋がりはなくなって、レクス殿下も劣った混血のことなんて気にしなくなる」
「そんな……」
こんなにあっさりとナトナとの契約が解消されてしまうことにエステルはショックを受けた。精霊との契約というものに詳しくないが、リードを外された犬が喜んで走り出すみたいに、ナトナも自由になったのだろうか。
レクスも今頃エステルへの同情心をなくしているのなら、もう二度と優しく声をかけてくれることも、柔らかくほほ笑んでくれることもなくなる。
(悲しいけど……これが正しいことだから。殿下は私なんかに構っている暇はないんだし、今まで余計な時間を奪って申し訳なかったわ。本当に親しくなりたいと思う人と、これからは一緒に過ごしてほしい)
体がバラバラに引き裂かれるような気持ちだ。レクスの優しさという一度手に入れた温かなものを手放すのは辛いし、後には何も残らないと思うと絶望してしまうが、レクスを操ってしまっている状況の方が受け入れ難かった。
(せめてナトナだけでも側にいてくれたらと思うのに……せめて最後に一度会ってお礼を言いたかった)
ナトナが今どこにいるかは知らないが、契約なしに人の側に戻ってくることはあるのだろうか? 契約で今まで自分に縛り付けていたのなら、ナトナにも謝りたい気持ちだ。
(これで私はまた一人ぼっち)
レクスは元通りの純血主義者になり、ナトナは自由になる。エステルの一番の味方だと思っていた二人が離れてしまうのだ。
結局契約や魔法で縛り付けていただけで、自分は誰にも好かれていなかったのだと思うとどうしようもなく虚しい。
ひどい喪失感と絶望に苛まれて涙はぽろぽろとこぼれてくるのに、エステルからは表情が抜け落ちた。体に力も入らないし、気力というものが全くなくなってしまう。表情を作るのも、体を動かすのも息をするのも面倒だ。食事や睡眠なんてこの先しばらく取る気にならないだろう。
分かりやすく沈んでいるエステルを見て、ロメナが甲高い声をあげて笑う。
「馬鹿ね、何を悲しんでいるのよ。元のあんたに戻っただけじゃない」
嘲笑すると同時にエステルの肩をドンと押し、渡り廊下の外へに突き飛ばした。
エステルは全く抵抗できずに、雨でぬかるんだ地面に転がる。けれど痛みも服や体が濡れる不快感も、どこか遠くで感じるだけだ。突き飛ばされた怒りなんて毛ほども湧いてこない。全部どうでもよくなってしまった。
何とか上半身だけ起こすが、立ち上がる気力もなく雨に打たれ続ける。このまま溶けてなくなってしまいたい。
ロメナは渡り廊下の屋根の下でこちらを見下ろしながら言う。
「実は殿下がもうすぐここへ来るの。殿下があんたに冷たくするところを見たくて呼び出しておいたのよね。『エステルのことで話があるから十二時に渡り廊下に来てほしい』って、あんたの名前を出せば来てくださると思って。でもよく考えたら闇の精霊の魔法は解けているわけだから、今頃殿下はエステルのことなんてどうでもよくなってるはずだし、ここには来ないわね」
残念そうな顔をしながら面白がっている口調で続ける。
「あーあ、見たかったな。捨て犬みたいに濡れそぼって悲惨な姿のあんたを見ても、同情して助けるどころか嫌悪の目で見下ろすレクス殿下のこと」
どんなことを言われても何も感じなかった。ナトナとレクスという味方をなくしてしまったことが悲しくて仕方なく、他のことで傷つく余裕はない。誰かに胸を何度も刺されているんじゃないかと思うくらいひどく痛む。
「ねぇ、『悔しい』とか何とか言ったらどうなの」
なるべく濡れないようにしながら、ロメナが足を伸ばして小突くようにエステルを蹴った――その時だった。
「エステル?」
校舎の方からこの状況に困惑しているような声が聞こえたかと思うと、その人物はすぐさまこちらに駆け寄って、雨に濡れることもいとわずエステルの肩に手を回して支える。
声で誰だか分かったエステルも、戸惑いながら相手を見上げた。
「レクス、殿下……?」
そこにいたのは確かにレクスだ。幻覚ではない。
「どうして……」
何故心配そうな顔をしてこちらを見ているのだろう。何故助けようと体を支えてくれているのだろう。何故まだ優しくしてくれるのだろう、とエステルは疑問に思った。
「とりあえず屋根の下へ」
レクスに立たせてもらうと、腰を抱かれてエステルはよろよろと移動する。レクスの制服も泥で汚れてしまった。
「レクス殿下? ……一体何をなさっているのです?」
ロメナはまだ余裕の態度を崩していなかったが、レクスの行動は理解できなかったようだ。




