2 弁論大会
昼に食堂でレクスをひと目見てから、エステルの胸の高鳴りは収まらなかった。
「おかしい……。私は恋に落ちやすいタイプじゃないと思ってたんだけど」
夜、自宅のベッドで丸くなって毛布にくるまり、エステルは気持ちを整理しようとしていた。
エステルに与えられた狭い部屋には、古びたベッドと勉強机、衣装棚があるだけだ。北向きで冬は寒いが暖炉もない。
しかし今はそんなことどうでもいい。勉強に集中しないといけない自分が、混血で身分の低いこんな自分が、竜人の王子様なんかに恋をしてしまったなんて大問題だ。
「自分がこんなに愚かだなんて思わなかった!」
エステルは毛布の中で嘆く。
「分不相応な相手を好きになっちゃうなんて……」
午後からずっとそわそわと浮足立ってしまって授業に身が入らなかったし、五分に一回は「彼は今何をしてるかしら?」とレクスのことを考えてしまっていたのだ。
恋をするとみんなこんなふうになるのだろうか? 今もレクスを好きという気持ちが暴れ出さないように抑えるのに必死だ。苦しくてのたうち回りたくなる。
(このままじゃ成績が落ちちゃう)
それだけは避けたい。特待生でいられなくなったら義父に学園を辞めさせられるかもしれないし、色々なことを学んで独り立ちするという夢が潰えてしまう。
「今の私は学業第一。恋にかまけてる暇はないのよ」
暗い部屋の中、自分に強く言い聞かせる。そもそも恋にうつつを抜かせる立場ではないのだ。それなのに簡単にレクスを好きになってしまった自分自身に失望していた。
エステルは毛布から這い出ると、ごろりと仰向けに寝転がって低い天井を見上げる。
「確かレクス殿下って純血至上主義なのよね。そんな相手をどうして好きになってしまうの?」
少し冷静になって考える。これも義姉から注意を受けた時に聞いた話だが、レクスは純血主義者――つまり人間の血が混じると竜人は弱くなっていくという考えを持っていて、それゆえ人間や混血を嫌い、国内から追い出したいと思っているらしい。
レクスの父である現国王は穏健派であり、ドラクルスにいる人間や混血を差別することはなかったが、レクスが王になれば純粋な竜人以外はこの国に居場所がなくなるだろうと予想されている。
(相手は王子であり、純血主義者でもある。私の恋が叶う可能性はこれっぽっちもない)
これは勉強に身を入れたいエステルにとってむしろ好都合だ。レクスが振り向く可能性はゼロなのだから、きっと早々に諦めがつくはず。
(今はまだ……隙あらばレクス殿下のお顔を思い浮かべちゃうけど……数日経てば気持ちも落ち着くはず)
こちらを嫌っている相手を好きでい続けられるほど、エステルは自信家ではない。
(だから大丈夫)
ちょっとだけ安堵しながら目をつぶったところで、頬にふわっとした何かが触れた。
「ナトナ?」
すぐに正体に気づいたエステルは、ほほ笑んで片手を顔の横に伸ばす。仰向けに寝ているエステルのそばに来たのは、黒い仔狼だった。明かりもついていない暗い部屋の中では姿がよく見えないが、もふもふの柔らかい感触はある。
「くすぐったい」
小さな舌で頬をペロペロと舐めてくるナトナに、エステルは笑い声を上げる。
ナトナは愛らしい子供の狼の姿をしているが、その正体は闇の精霊だ。だから外見はほとんど仔狼とはいえ、目はなく、顔の上半分にも黒い毛皮が広がっているだけ。精霊はみんな瞳を持たないらしいので、その知識がある者が見れば、ナトナの正体には簡単に気づけるだろう。
しかし目がなくても、ナトナは表情豊かで可愛い。
「私、もう寝るところなのに」
別に困っていないが困ったように言うと、ナトナは舌を出したまま悪戯っ子のような笑顔を見せた。
「ふふ、しょうがないなぁ」
ナトナとは、エステルがまだ子供の頃に出会った。当時仕事が上手くいっておらず常に機嫌の悪かった義父が、憂さ晴らしをするかのようにエステルを暗い地下牢に閉じ込めることが何度かあったのだが、ナトナはそこにいたのだ。閉じ込められていたのではなく、暗い地下に住み着いていたようだった。
そして牢の中で泣いているエステルをいつも慰めてくれた。ナトナがいたから、光のない地下牢の中でも子供のエステルは正気を保っていられた。
しかし精霊とはいえ、ナトナはおそらく中身も外見と同じように幼く、言葉も喋れない。今もエステルに甘えるようにきゅんきゅん鳴くだけだ。
「眠くなるまで撫でていてあげるわ。昼間も姿を現してくれたらもう少し構ってあげられるのに」
ナトナは昼間はあまりエステルの前に出てこない。人気のないところでふと足元にいることもあるし、透明になってそばにいる場合もあるようだが、闇の精霊なので明るいのは苦手なのかもしれない。
「勉強ばかりであまり遊んであげられなくてごめんね。ナトナは他に精霊のお友達とかいるの?」
エステルが尋ねたが、ナトナは小首を傾げてこちらを見るだけだ。人間の言葉をかなり理解していると思っていたが友達が何なのかは知らないらしい。
「友達っていうのは、お互いに好きで、よく一緒に遊んだりする相手のことよ」
するとナトナはパッと表情を明るくして、寝転んでいるエステルの胸に飛び込むように前足だけ乗せた。しっぽをブンブン振って、嬉しそうにハッハッと口で息をしている。
「違う違う、私じゃなくって他のお友達よ」
笑いながら言うと、ナトナは不満そうに顔を舐めてくる。
「もちろん私たちはお友達だけど他に――、くすぐったい!」
くすくす笑ってしまってエステルは言葉を続けられなかった。竜人の友達はいないけど、エステルにはナトナがいる。ナトナとこうやって遊んで、勉強をして、今はそれだけで十分。
恋なんて必要ない、と改めて思いながらエステルはナトナを抱きしめ眠ったのだった。
翌日、学園では弁論大会があり、全校生徒の二百五十人近くが広い講堂に集まった。講堂は教壇のあるステージが低い位置にあり、生徒が座る席は後ろに行くにつれなだらかに位置が高くなっている。
弁論大会は、異なる意見を持つ二人が順番に自らの主張を話し、最後に聞いていた生徒にどちらの意見に賛成か多数決を取るというものだ。リテアラス学園には王族や貴族、お金持ちの商人の子も多く通っており、将来演説をする機会もあるだろうから、今のうちから練習できるのは良いことなのだろう。
(でも私はきっと一生演説する機会はないと思うんだけど……)
エステルは少し緊張しながら講堂の席に座った。今日の弁論大会ではエステルもスピーチをすることになっている。
(準備はしっかりしてきたし、思ったほど緊張は酷くない)
そんなことを思いながら、最初のお題である『奴隷という身分を作るべきか否か』について自分の主張を始めた教壇にいる代表者を見つめる。
エステルが演説をしなければならないのは『人間や混血を受け入れる方が国にとって良いか否か』についてで、受け入れる方が良いという主張をする予定だ。
そして反対の意見を主張する生徒は、レクスだと聞いていた。
(みんなレクス殿下の主張に賛成するだろうし、私の味方は誰もいないって最初から分かってるから、むしろ緊張が少ないのかも)
エステルが上手く演説できてもできなくても結果は変わらないのだから。
(でも昨日の今日でレクス殿下と戦うとか……!)
好きになってしまったのはもう仕方ない。一目惚れのようなものだったし止められなかった。だがこの気持ちを捨てるために、もう二度と顔を見たくなかったのに。
レクスがスピーチしている時は下を向いていようと考えながら、手に持っている原稿を眺める。
エステルがスピーチすることは一週間ほど前に決まった。
そもそもレクスが教師に、弁論大会で『人間や混血は受け入れない方が良い』という主張をしたいと申し出たらしく、教師はそれに反対する生徒を探していたようだ。
しかしレクスに反論する勇気のある者は見つからなかったらしく、混血のエステルに話が回ってきて、担任に半ば強引に役割を押し付けられた。
混血を受け入れた方がドラクルスにとって良いのかは分からなかったが、一応ちゃんと原稿は書いてきている。
(殿下は純血主義だし、性格は分からないけどあまり優しくなさそうだし、本当に顔だけで好きになっちゃったのかな)
改めて自分にがっかりしているうちに前の弁論が終わり、レクスとエステルの番がやってきた。エステルがボロ負けすることは決まっているため、せめてもの情けなのか、不利な先攻はレクスが引き受けてくれた。エステルはレクスと話したことはないが、担任からそう伝えられている。
「三年一組、レクス・ドラクルス。今日は『人間や混血を受け入れる方がドラクルスにとって良いか否か』について、私の考えを話していきたい」
ステージに立ったレクスは堂々とスピーチを始めた。エステルはレクスの方を見ないようにしていたけれど、声を聞くだけで心が高揚してしまう。
少し低くて、何者の意見も聞き入れないという感じの冷たい声なのに、どうしてもっと聞いていたいと思うのか。本当に不思議でたまらない。
「古代の時代、原始の竜人はもっと頑丈でより強かった。半身が鱗に覆われた皮膚は岩のように硬く、木より高く跳躍し、風より速く走り、頭にはドラゴンと同じように鋭利な角があった。しかし〝国始の百年〟の間に、我々竜人は急激に弱くなっていった。その原因は、その時代、竜人が次々に人間との間に子を成したことにある」
レクスの声に聞き惚れながらも、頭の一部を何とか冷静に保って演説を聞く。内容は当然、人間の血を入れると竜人が弱くなっていくという主張だ。
「原始の竜人の数は少なく、だから人間と番うしかなかった。数を増やすために他に選択肢がなかったのだ」
今いる竜人たちは、太古まで遡って考えれば実は全員人間の血が混じっている混血だ。しかし昔の竜人たちはある程度仲間の数を増やすと人間と番うことをやめたので、〝国始の百年〟の間に混じった人間の血のことは今は無視されている。混血というのは、〝国始の百年〟以降に親が人間と番った子供のことを言う。
「〝国始の百年〟のことは仕方のないことだった。しかし現代においては、もう人間や混血を受け入れるべきではない。すでに見た目も身体能力もほぼ人間化してしまっているのに、これ以上弱くなってどうするのか。竜人が弱くなればドラクルスの国力も下がり、他国から狙われることも増えるだろう。純血の竜人のみで国を守っていく方がいい」
純血なんて言葉、馬鹿みたいだとエステルは思った。レクスの体にだって人間の血は混じっているのにと。
でもそんなこと怖くて言えるわけがない。
(威圧感があるし、レクス殿下って私の苦手なタイプなんだけどな……)
やはり、どうして好きになってしまったのかという疑問に行き着く。
エステルが悶々と悩んでいるうちに、やがてレクスのスピーチが終わった。
大きな拍手が鳴り止み、レクスが自席に戻るのと入れ替わりで、エステルはステージに出ていく。負けが決まっている戦いに挑むのはむしろ気楽だ。
「二年一組のエステル・ドールです。『人間や混血を受け入れる方がドラクルスにとって良いか否か』について、私の主張を聞いていただけると嬉しいです」
ちら、と生徒たちが座る席を見ると、最初に義姉のロメナが目に入った。ロメナは眉間にしわを寄せてこっちを睨んでいて、「変なこと言うんじゃないわよ」と視線で圧をかけてきている。くだらない持論を展開して大人しく負けろ、変に出来の良い演説はするなと言いたいのだろう。
エステルとしても真剣にレクスに対抗する気はない。原稿に目を向け、静かに話し出す。
「〝国始の百年〟で人間と番ったことで、確かに竜人は弱くなりました」
しかしスピーチを始めて間もなく、強い視線を感じてエステルはふと顔を上げた。義姉のいるところと近い三年生の席。エステルが目を向けた先にはレクスが座っていた。
「……え、っと」
レクスと目が合ったことで心臓がドクンと脈打ち、言葉に詰まりながらも、次には再び原稿に視線を向けた。恋をするとこんなことでも動揺してしまうのかと思いながら、何とか気を取り直して話し続ける。
(それにしても今の顔、何だったんだろう?)
今、レクスは驚いた顔をしてこっちを見ていたのだ。目を丸くして唖然としていた。
(まるで私が反論者として出てくるとは予想していなかったような顔……。意味が分からないわ)
教師から反論者の名前を事前に聞かされていなかったとしても、レクスにとってエステルは名も知らない一般生徒だから何も問題はないはず。認知していない相手がステージに立っても、普通は何の感情も動くことはないと思うのだが。
「しかし人間の血が混じったことで竜人には良い変化もありました。凶暴性がなくなり穏やかになったのです。仲間同士での争いも少なくなり、協力し合うことができるようになった。人間と番うことで竜人の数が増えたばかりか協調性も生まれたので、ここまで大きな国を作ることができたのだと思います」
演説をしながら、先ほどのレクスの表情の意味を考える。
(そういえば昨日も食堂で驚いたように私を見てた)
そこでふと気づく。レクスはきっと「なぜ混血なんかがこの学園にいるんだ!」と驚いているに違いないと。
(混血っていうのはパッと見じゃ分からないと思うけど、私は小柄だし、手の甲の鱗を隠す手袋もしてないし、竜人から見ればすぐ気づくのかも。それとも匂いで分かるとか? 竜人は鼻が良いっていうし)
もう一度レクスの方を見てみたい衝動に駆られたが、また動揺するといけないのでやめておく。
「現在においては竜人の数も十分増え、凶暴性も消えたので、これ以上人間や混血を受け入れる理由はないと考えるかもしれません。しかし人間がもたらす違う文化や新しい技術といった情報は必要ではないでしょうか。完全に国を閉じて人間を遠ざけるのは、情報を得られなくなったドラクルスの衰退に繋がるのではないかと考えます。過去に人間を受け入れたことが全て悪ではなかったように、この先も純粋な竜人以外のものを受け入れることは悪いことではないと思います」
エステルの主張なんておそらく誰もまともに聞いていないので、早口ですらすらと話し終えた。原稿はここで終わりだ。
(レクス殿下が学園に圧をかけて、私が学園を辞めさせられることになったらどうしよう)
しかしレクスの驚いた表情を見たことでそんな不安が募ったエステルは、少し声を震わせながらこう続けた。
「また個人的には、人間をある程度受け入れ、混血が増えると、今いる混血への差別も和らぐのではないかと期待しています。純粋な竜人だけしか認めないことによって差別が酷くなっていくのが……怖いです」
最後の言葉は少し迷ったが、素直な気持ちをそのまま言った。竜人ばかりのこの場所で混血の自分の気持ちを伝えるのは恐ろしかったが、この中の誰か一人でも混血に対する差別について考えてくれたらいいなと思った。
「以上です。ご清聴ありがとうございました」
顔を上げるのが怖くて、床を見たまま自分の席に戻る。
純血主義のレクスに遠慮してか、単純にエステルの主張が気に入らなかったからかは分からないが、スピーチが終わっても拍手は起こらなかった。
小心者のエステルは、やっぱり余計なことを付け加えてしまったかもと思いながらただ時が過ぎるのを待った。
と、そこでパチパチとまばらな拍手の音が聞こえてきたので、エステルはびっくりして音のした方を見た。他の生徒たちもそちらに顔を向けて、王子への気遣いのない怖い物知らずが誰なのか確認しようとしている。
(あの人たち……)
エステルが後ろを振り返ると、拍手をしていたのは上の方に座っていた三年生の三人だった。一人は紫のボブヘアの可愛らしい女の子で、残り二人は男子生徒。楽しげに笑っている明るい雰囲気の青年は褐色の肌に短い黒髪で、その隣りにいる細身の美青年は、肩につく長めの金髪にピアスが特徴的だった。
彼らのそばにはレクスが座っていて、ぴくりとも動かず、誰もいなくなったステージを見つめている。
(前にも見たレクス殿下のお友達だわ。あんな人たちが私のスピーチに拍手してくれたなんて)
友達だからこそレクスに遠慮することがないのかもしれない。王族に引けを取らない貴族の出だろうし、権力者におもねる必要もないのだろう。
レクスは拍手をした自分の友人に機嫌を悪くすることもなく、まだステージの方を見て固まっている。
レクスの隣にはボブヘアの子とはまた別の恐ろしく綺麗な女子生徒も座っていて、そちらは少し不機嫌そうにエステルのことをちらりと見てきた。背中の半ばまである金髪はゆるくウェーブしていて、まつげが長く、鼻が高く、透き通るような肌をしているのが遠くからでも分かる。レクスと雰囲気の似た、気の強そうな冷たい印象の美女だった。
「では最初にスピーチをしたレクス君の意見に賛成の者」
教師がステージに立って、この弁論の勝者を決める。ほぼ全ての生徒が挙手をしたので、教師は人数を詳しく数えることもなくレクスの勝ちと結論付けた。
この結果は分かってたのでエステルは悲しくも悔しくもなかった。むしろ、予定通りに負けられてホッとしている。
そしてレクスの友人が自分のスピーチに拍手を送ってくれたことに胸が温かくなりながら、エステルは他の生徒と共に講堂を後にしたのだった。