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 ルイザと仲良くなれた気がして、エステルは嬉しい気持ちに包まれたままナトナと共に家に帰った。

 あの後、医務室を出てルイザと一緒に竜舎に戻ると、アリシャはすっかり落ち着いていた。元々優しいドラゴンなので嫌なことをしたルイザのことも怒っておらず、むしろ攻撃してしまったことを後ろめたく思っている様子だった。

 ルイザはそんなアリシャに無理やり連れて行こうとしたことを謝り、二人の間にわだかまりは残らなかった。

 エステルの怪我も気にしていたので問題ないと伝え、戻ってきたリックに無事アリシャの世話を引き継いだのだった。


「赤ちゃんが生まれたらナトナも遊んであげてね。きっと良いお友達になれるわ」


 エステルはお風呂に入るため自室で着替えの準備をしながら、足元にいる黒い仔狼に向かって言う。掃除係の仕事をした日は服も体も汚れているので帰ってすぐに入浴するようにしている。エステルはいつも泊まり込みの使用人が使うのと同じ狭い浴場を使っていた。


「怪我をしたところは濡らしても大丈夫そうね」


 動かすと皮膚の奥が地味にジンジン痛むが、表面は綺麗に治っているので入浴しても問題ないはずだ。

 だが、準備を終わらせ、いざ浴場へと思ったところで部屋の扉が開いた。勝手に中に入ってきたのは義姉のロメナだ。

 勝手に入ってくるのはいつものことなのでそれほど驚くこともなく、エステルは言う。


「何かご用ですか?」

「これやっておいて」


 床に投げられたのは学園でロメナが使っているノートだった。宿題を代わりにやっておけということだろう。


「一問でも間違えて私に恥をかかせたら、お父様に言いつけて地下牢で反省させるからね」

 

 ロメナは半笑いで言った。これを言うとエステルが怯えると分かっているからだ。

 実際、地下牢という言葉に反応して勝手に手が震えてくる。エステルの感情の変化に気づいたナトナが心配そうにクンクン鳴いていた。

 ロメナはさらに手に持っていた革靴をこちらに投げつけてくる。


「それからこれも磨いておいてね」


 使用人がいるのに、ロメナはエステルにこういう雑用をたびたびさせる。単に意地悪をしたいだけなのかもしれないし、『お前は家族じゃない。勘違いするな』と態度で示しているのかもしれない。

 そうしてロメナが部屋からいなくなると、エステルはため息をついて放り投げられたノートと革靴を拾った。


「お風呂に入ったら私も自分の宿題と予習をしたいし、急いで片付けないと」


 一瞬嫌な気持ちにはなったが、手を舐めて励ましてくれているナトナや今日仲良くなれたルイザのことを思い出すと、単純なエステルは前向きになれたのだった。



 翌日、エステルは足取りも軽やかに学園へ向かった。昨日友達が一人増えたことがまだ嬉しい。

 正確に言うとルイザはエステルのことを友達だとは思っていないかもしれないが、医務室で色々話して少し距離は近づいたと思う。帰りも馬車で家の近くまで送ってくれたし、親切だった。以前のように睨まれることもないだろう。


 初夏とはいえこの国ではまだ涼しい日もあるが、学園に着くと生徒たちはみんな夏服になっていた。エステルも上は白い長袖のシャツ姿だ。治癒魔法で傷は治してもらっているので、暑くなって袖を捲くっても注目を集めることはないだろう。


(もしレクス殿下に会ったとしても、心配をおかけするようなことはないわ)


 腕に包帯を巻いていたら、優しいレクスなら一応少しは心配をしてくれたに違いない。

 などとレクスのことを考えていたら、玄関でさっそく彼に出くわした。レクスに会えた嬉しさでエステルの表情は勝手にほころんでしまう。


「おはよう、エステル」


 レクスもこちらに気づいて優しく目を細めた。


「おはようございます、殿下」

「昨日も竜舎の掃除を手伝えなくて悪かったね」

「いえいえ、そんな!」


 ほんの二言ほど会話を交わしただけなのに、レクスはそこでエステルの左腕をじっと見て言う。


「左腕、どうかした?」

「えっ?」


 エステルは分かりやすく肩を揺らして目を泳がせる。


「な……、え? ど、どうしかしたって、なな何がです?」

「いや、ほとんど動かしてないから痛むのかと思って。いつも会話をしている時、エステルの手はよく動くから」


 身振り手振りが多いということだろうか。確かにレクスと話す時は気が高ぶってしまったり緊張したりで他の人と話す時より動きがうるさいかもしれない。そして今、エステルは左腕をだらんと垂らしたまま動かしていない。


「い、痛くなんてないですよ。全然、全然!」


 全然、と言いながら胸の前で左手を振ると、その途端に肌が突っ張るようなピリッとした痛みが走った。思わず「いっ」と口にしてしまい、腕の動きも不自然に止めてしまう。

 レクスは心配しているような、エステルの嘘の下手さに呆れているような顔をして穏やかに言う。


「袖、捲くって見せてもらっていいかな?」

「いえ、本当に何でもないんです!」

「いいから見せてごらん」


 隠し通すのは無理だと悟ると、エステルは弱々しく眉を下げて白状する。


「実は昨日、怪我をしてしまって」

「何かあったのか?」


 怪我をしたと言った瞬間、レクスの瞳が鋭くなり食い気味で尋ねてきた。


「いえ、あの、全然大したことはないのですが、私の不注意で……」

「――レクス!」


 エステルがしどろもどろになりながら説明しようとしたところで、登校してきたルイザが馬車から降りて駆け寄ってきた。玄関で話しているので、通りすがりの他の生徒たちの注目も地味に集めている。


「ルイザ、後にしてくれ」

「いえ、エステルの怪我について説明したいのよ」


 息を整え、乱れた髪を耳にかけながらルイザが言う。

 するとレクスの声がぐんと低く冷たくなった。


「お前が何故エステルの怪我のことを知っている」

「わ、私が……!」


 ルイザを庇わなければいけないような気がして、エステルは思わず口を挟んだ。


「私が竜舎で転んで、それで医務室へ行く途中でルイザ様と会って、怪我を心配してくださったんです。怪我は先生に治癒魔法で治してもらってますし、腕を動かさなかったのはまだ少し違和感が残っていたからっていうだけなんです」

「見せて」


 レクスはそっとエステルの左袖を捲くると、状態を確かめた。肌に触れられて本当なら赤面している場面だが、今は違う意味でドキドキしている。ルイザが原因でドラゴンに噛まれそうになったという真実がバレたら恐ろしいことになるんじゃないかという予感がした。

 レクスはエステルの袖を戻すとルイザの方を見て言う。


「何故昨日のうちに私に言わない。城に使者を送ってでも報告を……」

「だってレクス忙しそうだったし、それに私も覚悟を決める時間が一晩必要だったのよ。あなたきっと私にとんでもなく怒るだろうし……」


 ルイザの表情はこわばっていた。まるで今にもレクスに怒鳴られるのではと思っているような顔だ。

 そんなに怖がらなくても、と普段のエステルなら思っただろう。エステルが怪我をしたくらいでどうしてレクスがそんなに怒るのかと、そんなわけがないだろうと。


「私の怒りを買う自覚があるんだな? エステルの怪我の原因はお前か?」


 けれど今、目の前にいるレクスから怒気を感じてエステルは鳥肌を立てた。怒れる猛獣みたいに、レクスの銀色の髪が僅かに逆立っている気さえする。いつもは冷静な薄いブルーの瞳の奥に燃えたぎる何かが渦巻いて、それが今にも溢れ出し爆発しそうな気配を感じた。

 だからエステルはもう一度強く主張する。


「これは転んで擦りむいたんです! 誰のせいでもありません」


 珍しく声を張ると、レクスは少し驚いた様子でこちらを見た。


「誰のせいでもないんです。私がそう言ってるんだからそうなのです」


 エステルは真摯に訴えた。普段は幼く気弱そうに見える丸い瞳からは今、レクスが滲ませていた怒りを押し返すくらいの、静かで芯のある意志があった。

 レクスは僅かに圧倒された様子で黙り、やがて気を取り直してこう言った。

 

「分かった、じゃあそういうことにしておこう」


 そうしてルイザを連れて自分たちの教室に向かったのだった。


(どうしよう……。レクス殿下に向かって強気に言い返してしまった)


 二人が去った後、エステルはサーッと血の気が引く感覚を味わいながら思った。

『私がそう言ってるんだからそうなのです』なんて偉そうな言い方をどうしてしてしまったのか。


(ルイザ様を庇わなきゃと思ってしまってつい……。レクス殿下、きっと怒っておられるわ。次会った時に謝らないと……)



 そして午前の授業が終わりお昼になると、クラスメイトたちが友達と連れ立って移動する中、エステルは一人で食堂へと向かう。


「彼って本当に素敵で……」


 前を歩く女子生徒二人は、どうやら恋の話をしているようだ。とても楽しそうでエステルは少し羨ましくなった。

 食堂に着くと遠くにレクスが見えた。ルイザやリシェ、他にもいつも一緒にいる男子生徒二人と丸テーブルの席に座っている。あそこだけ美男美女が揃っていて、身分を抜きにしても近寄りがたいオーラを放っていた。

 人が多い食堂でレクスに声をかける勇気はなかったので、朝の件を謝るのは放課後にすることにして、エステルは普段通り一人で食事を注文していると、


「エステル!」


 高く弾んだ声が背後から聞こえてきて振り返ると、リシェがニコッと笑って手招きしていた。


「リシェ様……?」

「お昼ごはん一緒に食べましょ!」

「え? あ、ちょっと待ってください」

 

 食堂で働いている調理人から差し出された食事の載ったトレーを受け取り、エステルはリシェの元に急ぐ。


「ゆっくりでいいわよ。慌てて転ばないでね。さぁ、あっちよ」

「いえ、あの」

「いいからいいから」


 リシェに背中を押されて前に進んでいく。日当たりの良い食堂の左側は良家の子女たちの指定席のようなもので、エステルは足を踏み入れたことがなかった。


「何、あの子」

「リシェ様のご友人なの?」


 周りの生徒が場違いなエステルを見てヒソヒソ話している。


(ひーっ、自分の席に戻りたい)


 居たたまれなくなりながら到着したのは、リシェがいつも座っている席だった。つまりレクスたちがいるところだ。

 食事途中のレクスは怖い顔をしてリシェを見ているが、リシェは全く気にしていない。


「リシェ、勝手なことを――」

「どうして? エステルは私のお友達なのに」


 いたずらっ子のように言うリシェに、ルイザもため息をつきながらフォークを動かすのをやめ、ちらちらレクスの様子を確認している。


「座って、エステル」


 リシェだけはニコニコの笑顔で、自分の隣の席をエステルに勧めた。


「いえ、私は……」

「もー! 断らないで。一緒に食べたいの!」


 食事のトレーを奪ってテーブルに置くと、リシェはやや強引にエステルを座らせる。優雅な白鳥の群れの中に迷い込んでしまったちっぽけなヒヨコの気分になりながら、エステルはテーブルをじっと見つめた。そうすることしかできなかったのだ。面識のない男子生徒も二人いるし、顔を動かしてレクスたちと目を合わせるなんて無理だ。

 肩身が狭いという言葉があるが、実際エステルは肩をすくめてなるべく体を小さくしながら自分の気配を消した。


(わぁ、殿下たちはさすがに高そうなメニューを頼んでいらっしゃるわ)


 テーブルに置かれた食事を見ながら、現実逃避してどうでもいいことを考える。

 一方、リシェは質素なエステルの食事を見て尋ねる。


「デザートがついてないわ。忘れられたんじゃない? 私が言ってきてあげましょうか?」

「いえ……これは一番安いメニューなので最初からついてないんです」

「そうなの?」


 リシェはきょとんとして言ったのだった。

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