17 医務室で
エステルはルイザと一緒に医務室に向かった。アリシャの元にはナトナを残してきているので、何かあれば知らせに来てくれるはずだ。
医務室に着くと担当の教師は帰り支度をしていたところだったが、傷を診てくれることになった。
「傷は深くないけど縫っておいた方がいいわ。準備するから待ってて。痕は残ってしまうと思うけど……まぁ腕だしいいでしょ」
消毒した時の痛みで悶絶していた時にそう言われ、エステルはさらに青ざめた。
「ぬ、縫うんですか? あの……治癒魔法を使ってもらえることってできますか?」
医務室の教師は簡単な治癒魔法が使えると聞いたことがあったので、それで痛みなく治してもらえないかと尋ねてみた。
しかし教師は気が進まない様子で言う。
「うーん、治癒魔法は魔力の消費が激しいから日に何度も使えないし、使う人は限定したいのよ。もしかしたらこの後、誰か……例えばレクス殿下が怪我をして駆け込んでこられたりするかもしれないでしょ?」
「あ……なるほど」
つまり庶民の生徒に治癒魔法を使う気はないのだと気づき、エステルは失望しながらも納得した。貴族や王族が優先されるのは当たり前のことで、いちいち文句を言う気力もない。
しかしルイザは即座にこう要求する。
「いいから治癒魔法を使って。レクスは今、城にいるし怪我をしてもここに駆け込んでくることはないから。それと腕は素肌を見せる機会も多いんだから痕は残さないようにして」
「え? わ、分かりました」
ルイザは年上の教師にも横柄な態度を取ったが、教師も反論しなかった。ルイザが公爵家の令嬢であることは把握しているのだろう。ころりと方針を変えてエステルに治癒魔法をかけてくれた。
呪文の詠唱が終わると同時に左腕が温かく光り、痛みが引いていく。肌に残った血を拭き取れば、傷もなくなっていた。
「わぁ、すごい! 痛みがなくなりました」
「でも正確に言うと表面を治しただけって感じだから、激しく動かしたりするとまだ痛いと思うわ。気をつけてね」
「ありがとうございます」
エステルが礼を言うと、ルイザもこう言った。
「ありがとう、もう帰ってもいいわ。鍵は閉めておくから」
医務室の教師は言われた通りにルイザに鍵を預けて出ていく。
静かになった医務室の中で、エステルとルイザは診察用に置いてあった椅子に座って向かい合った。ルイザは気まずそうに黙ったままだったので、エステルから口を開く。
「ルイザ様、私が怪我をした真相は誰にも言わないでもらえますか?」
「え?」
意外そうに顔を上げるルイザにエステルは続ける。
「怪我は私の不注意で負ってしまったことにします。というか実際そのようなものですから。とにかくアリシャが処分を受けないようにしないと」
エステルは自分の左腕をそっと撫でた。
「傷も治してもらいましたし、学園にもわざわざ報告はしません。だからルイザ様も今日のことは誰にも言わないでください」
「私のせいで怪我をしたとレクスに言わないの?」
「言いませんよ。どうしてレクス殿下にわざわざ言うんですか」
不思議そうに返すエステルにルイザが言う。
「でも全て伝えれば、あなたは私というライバルを蹴落とせるのよ。真相を知ればレクスはあなたに同情するし、私を嫌うわ」
「蹴落とすなんてそんな……! 何か誤解しておられるようですが、私はレクス殿下と両想いになりたいなんて大それた願望は持っていません。レクス殿下が幸せになるなら、ルイザ様と結婚してほしいと思います」
エステルがそう答えると、ルイザは理解できないというように片方の眉を持ち上げて、疑わしそうにこちらを見てくる。
そのまままた沈黙が続いたので、気まずい状況を何とかするべく再びエステルは喋り出す。
「えっと……ルイザ様はレクス殿下のどういったところがお好きなんですか?」
ルイザとの共通点など『レクスが好き』という点しかないので、必然的にその話題になった。
ルイザは顔を上げてエステルを見ると、淡々と言う。
「地位と顔」
「え?」
「地位と顔よ。だって性格はあまり良くないもの。頼れるところは素敵だけど、プライドが高いし優しくないでしょ。本当は私は私にだけ優しくしてくれて、私のために何でもやってくれて私に何でも買ってくれるような人が好き」
「えぇ……?」
色々驚いてエステルはぽかんと口を開けた。ルイザはレクスと幼い頃から関わりがあるのだろうし、もっと強い想いを抱いているのかと思ったがそうでもなさそうなのが意外だった。ルイザの好みのタイプも正直過ぎて驚いたし、何よりレクスに対する印象がエステルとは全く違うことにも戸惑った。
「殿下、優しくないですか?」
「優しくないわよ。厳しいわ。私が何か間違ったことをするとまるで嫌味な教師みたいに指摘してきたりして。レクスとはかなり長い付き合いだけれど、ずっとそんな感じよ。困っていたら助けてくれるし信頼はしているけど、レクスは私を特別扱いはしてくれない。そのことに腹が立つことも多いわ」
エステルの中のレクス像と違う部分が多くて、ルイザの話を聞いていると混乱した。レクスはエステルには優しくしてくれるし、嫌味な教師のような姿なんて一度も見せたことがない。
(レクス殿下は私には他人行儀に接しているということかしら)
レクスは心を開いた相手には多少厳しくなったり、相手のことを思って注意をしたりするのだろう。けれどそれほど親しくない相手には皆一律に優しくしているに違いない。
「幼馴染のルイザ様には、レクス殿下は気を許しておられるのですね」
ほのぼのとした笑顔で言うと、ルイザは不可解そうな顔をした。
「いえ、そうことじゃなくて。あなたたちって二人とも……」
そこでため息をつくと、ルイザはエステルに質問を返す。
「あなたはレクスのどういうところが好きなの?」
「……」
その問いにエステルは沈黙する。唇を結んで目をつぶり、腕を組んで考えた。そして難しい顔をして答える。
「最初はたぶん、容姿に惹かれたんだと思います。一目惚れでしたから。体に衝撃が走って気づいたら好きになっていて……。殿下のお顔と地位が好きだというルイザ様のこと何も言えません」
そしてまぶたを開けると、軽く頬を染め、夢見る乙女のような表情で言った。
「でも今は、殿下の優しいところが好きです。混血の私がいじめられないようにと気を遣ってくださったり、手袋を手に入れられるよう動いてくださったり。殿下は王子として憐れな庶民に優しくしているだけなのでしょうが、私は想いを深めずにはいられませんでした。竜舎の掃除まで一緒にしてくださって、全く傲慢なところがない部分も好きです。あんな素敵な人他にはいません」
つらつらと喋ってしまった後でハッとしてルイザを見る。ルイザは軽く眉間にしわを寄せてこちらを見ていた。うざったそうな顔だ。
「す、すみません、喋り過ぎてしまって! ……あ! というか違うんです! 私、好きな人はいないんでした!」
自然に打ち明けてしまったが、この国の王子に恋しているなんて厚かまし過ぎる想い、本当は誰にも言うつもりはなかった。リシェにも話さなかったし、この気持ちは一生隠すつもりでいたのに。
「レクス殿下のことは異性として好きなわけじゃなく、人としてお慕いしているだけで」
「今更遅いわよ」
呆れた様子でルイザが言う。まさかこの秘めた気持ちを初めて打ち明ける相手がルイザになるとは思わなかったと、エステルはもじもじしながら口をつぐむ。
ルイザは視線をそらし、床を見つめながら言う。
「でもレクスのことが好きなのに、よく邪魔者の私をドラゴンから庇ったわね。下手をすれば腕がなくなっていたのに理解できないわ。私を助けることでレクスに対して好感度を上げようと思ったの?」
ルイザの言い方は嫌味な感じではなかった。ただ単純にエステルの行動原理が知りたいだけのようだ。
「でも噛みつこうとしているドラゴンの前に腕を出すなんて、どんな計算や下心があったとしてもできることじゃないと思うけど……」
エステルも目を伏せると、掃除のために履いていた長靴を見ながら答えた。
「とっさに動けたのは、ルイザ様に怪我をしてほしくないという思いとアリシャに誰かを傷つけてほしくないという気持ちがあったから……と言いたいところなのですが、正直、あの一瞬で浮かんだのはレクス殿下のことなんです」
気まずく思いながら続ける。
「ルイザ様が大怪我をして殿下が悲しむ顔が頭にパッと浮かんで、それで私、殿下に悲しんでほしくないと思って……。ルイザ様のためだけでは反射的に動けなかったと思います。もちろん他人であっても人が傷つくのを見るのは嫌ですし、ドラゴンに襲われている人がいれば助けたいですが、普段ならきっと怖くて足がすくむと思うんです。でも今回はレクス殿下への想いがあったから動けました」
エステルの説明を聞くと、ルイザは険しい顔をして再び尋ねてくる。
「……レクスの悲しい顔を見たくないって、それだけの理由で腕一本失いかけたというの? なら、あなたはレクスのためなら何でもできるということ? レクスの代わりに死ななければならないとなったら死ぬの?」
ルイザはエステルの行動原理が信じられなかったらしく、嘘を暴こうと追及した。
しかしエステルにとってその質問に答えることは簡単だった。レクスの代わりに死ななければならない状況を頭の中で想像した時、答えはすんなりと出たからだ。
「きっと死にます」
エステルは視線を上げ、ルイザを真っ直ぐ見つめて言う。医務室の窓から差し込む赤い夕陽が顔の半分を照らしていて妙に迫力があった。
ルイザはそんなエステルに少し圧倒されて、ごくりとつばを飲み込む。
エステルは複雑な表情をして続けた。
「レクス殿下が死んでしまうことを想像するとゾッとします。この感覚をどう伝えればいいか……とにかく自分が死ぬより耐え難いことに思えるのです」
「狂ってる。あなたレクスと出会ってほんの二ヶ月程度でしょ? 幼馴染みで何年も一緒にいた私ですらレクスのためには死ねないと思うのに、どうしてこの短い期間でレクスにそこまでの感情を持てるのよ」
ルイザはおそらく恐怖に近いものをエステルに感じたのだろうが、エステルもそれは同じだった。
「自分でも分からないんです。どうして深く知りもしないレクス殿下にここまでの感情を持てるのか。だから時々、恋に狂っている自分が怖いし嫌気が差すんです。こんな気持ちなくなってしまえばいいとずっと思っています」
目を見開いてエステルの言葉を受け止めた後、ルイザは静かに息を吐いて呟く。
「結構恐ろしいことなのね……。今まで憧れしかなかったけど」
一方、エステルは話を続けた。
「ルイザ様がレクス殿下のことをお好きなら応援したいです。ルイザ様が殿下の婚約者にでもなってくだされば、私は自分のこの気持ちを捨てられるかもしれませんし」
「私を応援なんて……本気で思っているの? 私があなたの立場なら、私のことなんて毛嫌いするし不幸になってほしいと思うけど」
「そんなこと……!」
エステルは急いで否定してから言う。
「だって私のことが目障りでも、ルイザ様は私を殴ったり地下牢に閉じ込めたりしませんでした。だから毛嫌いなんてしません」
「……嫌いになる基準がおかしくない?」
ルイザは困惑していたが、エステルの義家族と比べれば大抵の人は優しく思えてしまうのだ。
「それにルイザ様は私に対して『混血』という言葉は使わなかった。他のみんなは真っ先にそこを罵倒してくるのに。きっと『混血』は馬鹿にするべきことじゃないって考えがルイザ様の根底にはあるんだなと思いました」
ルイザは純血主義者ではない。それは彼女の言動から感じ取れていた。
「それに私の容姿も揶揄しなかった。普通の竜人より小柄なところとか、奇妙な目の色とか髪の色とか……。見た目のことを貶すのが一番簡単なのにしなかったんです」
「確かに珍しい色だけど……奇妙とは思わないから」
ルイザは落ち着いた声で言う。
「私は自分が美しければそれでいいの。他人の容姿なんてどうでもいいのよ」
そう言われたエステルは、にこっと笑って嬉しそうにこう返す。
「やっぱりルイザ様は悪い人じゃないです」
「どうでもいいと言われたのに何故その結論になるの?」
ルイザは最後に呆れたように言ったのだった。