16 ルイザ
レクスに頭を撫でられた二日後。その日、放課後竜舎に行くとリックは不在だった。アリシャは自分の房で休んでいるが、アストロとドクも放牧地に行っていていない。
昨日今日とレクスも用事があって来られないと言っていた。
「今日は私とアリシャの二人きりね」
エステルはアリシャのいる房に入ると、伏せの体勢でまどろんでいる赤いドラゴンを撫でた。アリシャは猫のように喉を鳴らしている。
『アリシャはもういつ産卵してもおかしくないな』
リックは昨日、掃除をしていたエステルにそう言った。
『ドラゴンは人の助けがなくても卵を産めるけど、万が一の時のためになるべくそばにいてやろうと思ってる。アリシャにとっては初めての産卵だしね。だから俺は今日から竜舎で寝泊まりするつもりだよ。ただ、メシの調達とか着替えが必要だし風呂も入りたいから、二日に一回、一、二時間程度家に帰りたいんだ』
リックは調教師だが世話係も兼ねていて、ドラゴンの産卵に対しての知識もあるようだ。ドラゴンの産卵は人の出産のように大変ではないが、鶏ほど短く簡単でもないらしい。リックは親心もあって心配なのだろう。
『それでその一旦家に帰る時間を、エステルちゃんが掃除に来る放課後にしてもいい? 俺がいなくてもエステルちゃんがいればアリシャも心強いだろうしさ』
『私しかいない間に産卵が始まったらどうしたらいいですか?』
『見守ってくれるだけでいいよ。ドラゴンの産卵にトラブルは少ないしね。産んだ後アリシャが卵を温めなければ毛布をかけておいて』
そう言われたので、エステルは一人では少し怖かったが承諾した。校舎にはまだ教師たちも残っている時間だし、万が一何かあれば助けを求めればいい。
「体調はどう?」
アリシャに尋ねてみたが返事はない。機嫌は悪くなさそうだが、じっとして動かなかった。
「心配だわ。何か変化があれば鳴いて教えてね」
ドラゴンがどこまで言葉を理解しているかは分からないが、エステルはそう伝えて掃除に取り掛かろうとした。
が、その時ふと気配を感じて竜舎の入り口の方を見ると、そこに美しい女子生徒――ルイザが立っていた。
「あ……、ルイザ様」
エステルはびっくりして呟いた。レクスもそうだが、彼女も竜舎に来ていいような人物ではないからだ。
ルイザ・バレンティナは王族と縁の深い公爵家の生まれで、この学園の中で二番目に身分の高い貴族のご令嬢なのだ。
一昨日、レクスが彼女をルイザと呼んで名前を知ることができたので、エステルは改めて彼女のことを調べ、やはり王子の友達はみんなすごい人たちだなと思ったばかりだった。
緊張しながらルイザを見ていると、彼女はエステルを睨んだ後、黙って竜舎に入ってきた。
「ど、どうされましたか? 今日はレクス殿下は来られていませんが……」
エステルの横を通り過ぎ、竜舎の奥へつかつかと歩いていくルイザだったが、話しかけられるとキッと目尻をつり上げて振り返る。
「レクスがこんなところの掃除を手伝ってたなんて、本当に有り得ないわ」
レクスよりも濃い青色の瞳がエステルを射抜く。
「王子としての自覚が足りないんじゃないかしら。でも前はちゃんとしていたのよ。気高くて、毅然としていて、為政者として必要な冷たさもしっかり持っていた。それがあなたのせいで……こんな竜舎の掃除なんて」
最後は竜舎を見渡して吐き捨てるように言うと、再びエステルを見て、正面切って堂々と宣言する。
「レクスと結婚するのは私よ」
「……え?」
「誰にも譲らない。だって私以上に〝王子〟の相手として相応しい者がいる?」
突然そんなことを言われてエステルは少し動揺したが、混乱することはなかった。レクスが貴族のご令嬢と、あるいは番と結ばれるのは分かっていたことだからだ。自分が結婚できるなんてことは、はなから思っていない。
「もちろん庶民のあなたは論外よ。なのにその論外がレクスにちょっかいをかけているのがとても不愉快なの」
ルイザは緩く波打つ長い金髪を手で払い、エステルを見下ろして言う。背は彼女の方が高かった。スタイルも良く顔も小さいし、家柄だけでなく外見も完璧だ。
「ちょっかいなんて……」
弱々しく反論してみたが、自分のような混血の庶民が分不相応にもレクスに近づくのは気分が悪いだろうと、ルイザの気持ちも分かってしまう。
エステルは下を向いて言う。
「すみません……。私もレクス殿下のことは諦めなきゃって思うのに、どうしても気持ちを捨てきれなくて……」
「なら私が協力してあげるわ」
ルイザは腰に手を当てて言い放った。
「同じ学園にいて接点があるから諦められないの。だからあなたはこの学園をやめればいい」
「……でもそれだと勉強ができなくなります。学園をやめるのは嫌です」
レクスと離れるだけならいい。きっと身を切られるような辛い日々を過ごすことになるだろうし、レクスをひと目見たくなって狂ってしまうかもしれないが、物理的に距離を取った方が恋心が薄れる可能性はある。叶うことのないレクスへの強烈な想いを消すことは、エステルも望んでいることだった。
けれど家を出て一人で生きていくために勉強は続けたい。
「勉強なんて家ですればいいでしょ。家庭教師でも何でも雇えばいいじゃない。調べたけれどあなたの家の商売、そこそこ儲かっているようだし」
「父は私に家庭教師を雇ってくれるような人ではないんです」
エステルは真剣に訴えたが、ルイザは片眉を持ち上げて意味が分からないという顔をした。きっとルイザは蝶よ花よと大切に育てられてきたのだろうし、望みは何でも叶えてもらってきたのかもしれない。娘を邪険に扱う親がいるなんてこと、想像もつかないに違いない。
「とにかく……学園はやめません」
エステルが固い決意を込めて言うと、ルイザは不愉快そうにこちらを見下ろした後、くるりと体の向きを変えて歩き出した。そして自分の房にいるアリシャのもとへ向かいながら言う。
「それなら仕方がないわね」
アリシャはよく知らない人物を警戒してこちらを見ていたが、その人物――ルイザが近づいてくると小さく唸り出した。
「何をするつもりですか?」
アリシャの房のゲートは閉じていなかったので、ルイザは簡単に中に入ることができた。けれどそこでエステルは急いでルイザの肩を掴む。
「その子は産卵が近くて気が立っているんです。近づくと危険です」
アリシャはルイザという侵入者に牙を見せて唸っているが、壁際に後退もしている。人に危害を加えてはいけないとリックに教え込まれているからだろう。こんな状況になってもすぐに襲ってくることはなかった。
「離れてください」
静かに言うが、ルイザはそんなエステルの手を払い除けて睨みつけてくる。
「授業で不特定多数の生徒と関わるから、この学園のドラゴンはみんな大人しいのよ。そういう性格の子が選ばれてやってくるの。産卵間近であろうと人には逆らわない」
ルイザは恐れることなくアリシャの首輪を掴むと、外に引っ張り出そうとした。
「来なさい」
「待って、何をするつもりですか?」
エステルは焦って尋ねた。ルイザは動かないアリシャの首輪を引っ張りながら言う。
「外に出すのよ。逃がすの。この子が逃げたら、竜舎の戸締まりをしっかりしていなかったということであなたの責任になるでしょ。そうしたらあなたを退学にできる。うちが圧力をかけてもレクスが庇っている状況じゃ、さすがに何の落ち度もない生徒を退学にすることは難しいからね」
「そ、そんなこと私にペラペラ喋っていいんですか?」
正直に答えられたのでエステルは戸惑った。けれどルイザは強気の態度を崩さず続ける。
「あなたに知られても何も問題はないわ。みんな私の言い分を信じるんだから。『あなたがやった』と私が言えばあなたがドラゴンを逃したことになるのよ」
確かに学園の教師も生徒たちも、ルイザとエステルならルイザの方につくだろう。公爵家の令嬢を敵に回し、庶民のエステルの味方をしても何も良いことがないからだ。
「さぁ、来なさい! 外へ行くのよ」
「やめてください、ルイザ様」
アリシャを引っ張るルイザとそれを止めようとするエステルで揉み合う。
アリシャの目線では、よく知らない生徒が来て自分を連れて行こうとしてエステルと喧嘩して――きっと怖かったのだろう。だから一度鋭く吠えた後、抵抗してルイザに噛みつこうとし、エステルはそれにいち早く気づいた。
(レクス殿下が……)
アリシャが口を大きく開くと鋭い牙が覗く。そのままルイザに向かっていく牙を見ているエステルの頭にふと浮かんだのは、レクスの姿だった。痛ましいものを見るような、悲しげな顔をしている。
――と、エステルはとっさに自分の左腕をアリシャの顔の前に出していた。制止しようとしたのだ。
腕一本でドラゴンを止めようだなんて愚かな行動だと冷静な時なら分かるが、一瞬のうちには判断できなかった。ただアリシャの牙がルイザの顔面を傷つける前に止めようと動いてしまったのだ。
「きゃあッ!」
「……っ!」
ルイザもアリシャの攻撃に気づき悲鳴を上げる。アリシャは本気で噛む気はなかったようで、ルイザの顔の前でガチッと牙を鳴らして口を閉じた。最初から威嚇で噛みつくふりをするつもりだったようだ。
しかしそこにエステルが腕を出してしまったので、牙がかすって皮膚が裂けた。最近暑くなってきたので体操服の上着は着ておらず、シャツの袖も肘まで捲くっていたのが仇になった。
傷は一瞬で赤く染まり、ポタポタと数滴の血が落ちる。
「なっ……」
痛みに顔を歪めるエステルを見て、ルイザは目を見開く。
「何やってるのよ」
動揺してルイザの声は震えていた。深窓のお嬢様は他人の血を目にすることがめったにないのだろう。
「すみません」
ジンジンとした痛みを感じながらエステルは謝った。馬鹿なことをしたと自分でも分かるからだ。
「アリシャは噛みつくつもりはなかったのに、私が腕を出してしまったから……」
「し、止血は……? 止血はどうやってすればいいの?」
ルイザも動揺していたがアリシャも自分がエステルを傷つけたことに驚いてしまったようで、滴る赤い血を見て後ずさる。そして何故か房の壁に体当たりし始めた。
「アリシャ!? 何やってるの!」
明らかに混乱しているアリシャにはエステルの声は届かない。「やめて」と訴えても壁にぶつかるのをやめなかった。自分が怪我をさせてしまったエステルから離れたい、ここから逃げ出したいと思っているのかもしれない。
房の出入り口から出ていかないのは、そこを塞ぐように立っているエステルやルイザを突き飛ばせないからだろう。アリシャは本当に優しいドラゴンなのだ。
「アリシャ!」
このままではアリシャも怪我をするかもしれないし、お腹の中の卵が駄目になってしまう。
「どうしよう」
学園に残っている教師に助けを求めれば何とかしてくれるだろうか? 人の力でパニック状態のドラゴンを制御はできないので、魔法を使える教師でないといけない。
「ルイザ様、校舎に行って先生に助けを……」
エステルの止血をしようと思ったのか、小さなハンカチを持っておろおろしているルイザにそう伝えた時――エステルは視界の端の黒い影に気づく。
いつの間にかナトナが足元に立っていた。
「ナトナ……!? どうしてここに!」
びっくりしているエステルに向かって得意げに吠えてから、ナトナは真面目な顔をしてアリシャを見つめる。精霊に目はないが、顔をそちらに向けたのだ。
すると暴れていたアリシャは急に大人しくなり、壁に体当たりするのをやめてエステルの方へ近づいてくる。そうして悲しげに鳴いてエステルの左腕に顔を寄せた。
「大丈夫よ、これくらい」
多少強がりも入っていたが、実際深刻な怪我ではなかった。血はポタポタと落ちているが、布を当てて圧迫すれば止まりそうだ。皮膚が切れただけで筋肉も骨も問題なさそう。左手につけていた鱗隠しの手袋もほとんど汚れていなかった。
「すぐに治るわ。気にしないで」
アリシャはクゥンと鼻を鳴らして大きな舌をペロペロ出している。怪我を舐めて癒やしてあげたいけど、それをすると人は痛がるので舐められない、と分かっているようだ。
「ナトナがアリシャを落ち着かせてくれたのね」
エステルはナトナを見て言う。闇の精霊は人の心を操るが、ナトナは特に同情心を起こさせるのが得意なので、アリシャは今、怪我をしたエステルに対して同情しているのかもしれない。混乱している心を強制的に別の感情で塗り替えたのだ。
『大丈夫?』と言うようにクンクン鳴いているアリシャを撫でると、エステルはナトナに言う。
「もう力は使わなくて大丈夫よ。落ち着いたか様子を見てみましょう」
ナトナは小さく鳴いて心を操ることをやめたようだったが、アリシャが再びパニックに陥ることはなかった。エステルの怪我を心配している様子は続いたが、過剰に罪悪感を持ってしまっているふうでもない。
「大丈夫そうね」
エステルはにこっと笑ってアリシャを撫でる。
全て見ていたルイザは突然現れたナトナやその力に面食らっていたが、やっと冷静さを取り戻すとエステルに言った。
「とりあえず……医務室に行きましょう」