1 衝撃の出会い
季節は春。穏やかな日差しが窓辺を照らし、暖かな陽気に皆思わず心浮かれる春だ。
エステルも学園の廊下から空を見上げて顔をほころばせたいところだったが、代わりに緊張した顔をして、前を歩く白い制服姿の義姉の後を追った。義姉は人のいない空き教室に入ると、後ろを振り返ってエステルに手を差し出してくる。
「今日もちゃんとやってきたでしょうね」
「はい、もちろん」
エステルは素直に答えて持っていたノートを姉に差し出す。昨日義姉に出された宿題を完璧にこなしたノートだ。
「あんた、勉強だけはできるみたいだから本当使えるわ。私は玉の輿に乗って結婚したいんだから勉強なんて必要ないのよね。宿題なんて免除してほしいわ」
パラパラとノートをめくって確認しながら義姉のロメナは言う。
ロメナは黒く長い巻き髪に紫色のカチューシャをつけた、気の強そうな猫のような顔立ちの少女だ。
一方エステルは癖のない薄い桃色の髪を腰の辺りまで伸ばしていて、瞳の色は奇妙な金色だった。それを隠すように前髪は長めで、可愛らしい顔立ちだが頼りない印象を与える。
エステルは十七歳のロメナより一つ年下で、養子だ。二人は血の繋がりのない姉妹だった。
ロメナはノートを受け取ると、最後にエステルにこう言って教室を出ていく。
「分かってると思うけど、学園で目立って私の足を引っ張るようなことしないでよ。混血はただ大人しくしていればいいの」
「……はい」
エステルは一応返事をしたが、ロメナはもう廊下に出ていて聞いていなかった。友人と出くわしたのか、廊下で言葉を交わすロメナの愛想のいい声が聞こえてくる。
この王立リテアラス学園は、竜人たちが住むドラクルスという国にある貴族の子女が多く通う学校だ。
十八歳で成人するまでの三年間、家庭教師では教えきれない一段深い学問を学び、教養を深め、人によっては魔法を習得したり武術を習ったりもする。
制服も王族御用達のデザイナーが作った、白を基調とした上品なものだった。女子のスカートの丈は膝より下と決められていて、素肌が出ないように黒いタイツを履く規則になっていた。
エステルたち姉妹の父は元々医者を多く輩出している家系の生まれだったが、やがて製薬会社を作って商人になった。今は主に貴族向けの高級な薬を売っていて、その事業が順調なのでこの学園の高い学費も払うことができるのだ。
とはいえ、エステルは成績優秀な特待生なので学費は免除されている。
(子供の頃は私に家庭教師なんてつけてくれなかったのに、特待生にさせるため学園入学前から急に猛勉強させられて……)
エステルは養父の姿を思い浮かべながらうつむいた――かと思えば、パッと顔を上げて瞳をきらめかせる。
(ほんっとうに、最高! 勉強できるって最高よ!)
エステルは誰もいない教室で一人静かにバンザイした。
エステルは純粋な竜人ではなく混血である。しかも竜人の血は八分の一しか入っていないので、ほとんど人間だ。おまけに赤ん坊の頃に両親は亡くなっていて孤児だった。
そんなエステルは養子として養父母に迎え入れられたものの、家では娘として扱われたことはない。使用人よりもひどい扱いを受けて、勉強なんて贅沢だとさせてもらえなかった。養父母がエステルを養子に迎えたのも、この学園に入れたのも世間体のためでしかない。
だから今、特待生を維持しろと養父母から圧をかけられても、義姉に私の宿題をやっておけと命令されても、エステルは勉強できることが嬉しかった。
物心ついた時から養父母はエステルに厳しく、愛情の代わりに罰を与えられ、何もしてないのに地下牢に閉じ込められたこともあった。義姉は意地悪で、使用人たちも養父母を恐れて誰も助けてくれない。混血だから学園でも避けられて友達ができない。
しかしもうそんなことはどうでもいい。
(勉強して、独り立ちできるくらいの知識をつけて、私は家を出ていくのよ)
どんなにここから逃げ出したいと思っても、無知な子供だったエステルはどうすることもできなかった。
けれど今は十六歳になり、勉強して色々なことを身に着け始めている。
(勉強は好きだし、せっかくだからこの学園であと二年しっかり学んでから独り立ちしよう)
エステルはぐっと拳を握って決意を固めてから教室を出た。養父母が学校に行かせることを渋っていたため、エステルは二年生から学園に入り、実はまだ入学から一ヶ月しか経っていない。だからまだまだ学び足りないし、一人で生きていくには不安もあった。
しかし自由が近いと分かっているので、今はただ幸せなのだ。
(あと少し……。学園では問題を起こさず、お父様たちにも今まで通り逆らわず、一生懸命勉強だけして、自由になるまでの日々を平穏に過ごすの!)
ふふ、と思わず笑顔を見せるエステルを、廊下ですれ違った竜人の生徒たちは困惑気味に避けていったのだった。
竜人と人間の違いはほとんどない。見た目で言うと竜人の方が体格の良い者が多い。けれど華奢で小柄な竜人もたくさんいるし、大柄な人間ももちろんいるので、体格だけで見分けはつかない。
運動神経は竜人の方がいいし、体も多少頑丈なようだ。鍛えた竜人は拳で岩を砕くこともできるとか。
(でも竜人が持って生まれる身体能力って、思ったより超人的じゃないみたい。確かにお父様たちを見ていても、特に運動神経が良いとか怪力だって思ったことはないものね)
エステルは休み時間に教室で本を読みながらそんなことを考えた。この本は竜人の歴史についてのものだが、竜人の体の特徴についても記載があった。
『竜人について』、なんて初歩的な授業はこの学園ではやってくれない。通っている生徒も竜人ばかりだし、学ばなくても経験で自分たちのことはよく知っているから。
なのでエステルは基本的なことを学びたい時、学園の図書室で本を借りて休み時間に読んでいる。
「学園の生徒なら無料で本を借りられるなんてすごいなぁ」
図書室の仕組みに感心しながらページをめくる。
するとそこにはこんな一文が書いてあった。
『竜人と人間を見分けるには、左手の甲にある鱗を確認するのが一番確実』
自然とエステルは自分の左手に目をやる。確かに左手の甲の中心には、竜の鱗が五枚ほど淡く光っている。エステルの鱗は薄いピンクで、ほとんど肌と同化していた。
『この鱗は、竜人がかつて半身を鱗に覆われていた時の名残。鱗の色の濃さは成熟の証で、子供のうちは色が薄い』
エステルの鱗の色が薄いのは竜人の血が薄いからだが、子供っぽくも見えるのかもしれない。
(みんなはもっと濃い色をしてるんだ)
本から視線を上げ、教室にいる生徒たちをそっと見回す。しかしみんな左手に手袋をしていて鱗は見えなかった。手袋は、中指で布を留めて手の甲だけを隠すタイプが多い。女子はレースをつけたりしておしゃれをしている。
しかしみんながああやって隠していると、自分だけ鱗をさらけ出しているのが恥ずかしくなってくる。
お金を持っていないので手袋は買えないし、エステルの鱗は未熟だから隠す必要はないと言っていた義母の言葉を信じるしかない。
「エステルさん、また本を読んでるんだね」
と、そこで話しかけてきたのは同じ特待生の男子生徒、ポートだった。彼も竜人だが、男子にしては小柄な方で、焦げ茶色の髪はくるくるの巻き毛、眼鏡とそばかすが印象的な生徒だ。
「ポート君」
「勉強熱心だね。僕も負けてられないな」
穏やかな笑顔を向けられて、エステルもほほえみを返した。彼はクラスでは目立たない存在だが、混血のエステルにも分け隔てなく接してくれる。エステルが学園に入ってからできた友達は彼一人だ。
「竜人の歴史についての本? 君って特待生なのに子供でも知ってるようなこと知らなかったりするんだね」
「うん、まぁ……」
恥ずかしくなって少しうつむく。
するとポートは、空いている前の席に座ってこう言った。
「何か分からないところがあれば教えてあげるよ」
「あ、ありがとう!」
優しい友達の言葉にエステルははにかむ。今まで好きな人なんていなかったし恋愛なんてする余裕もなかったけど、何となく、自分はこういう温和な人を好きになるんだろうなと思った。
昼になり、エステルは一人で食堂へ向かう。ポートは他の友達と一緒なので一人で食べるしかないが、いつものことなので寂しいという気持ちはない。
途中廊下で後ろからやってきた女子生徒と肩がぶつかり、よろけるエステルにクスクスと嫌な笑い声がかけられた。ぶつかってきた女子生徒とその仲間たちはこちらを馬鹿にした視線をちらりと寄越して行ってしまう。
(反撃するのは疲れるし、どうでもいい)
この国では純粋な竜人が圧倒的に多く、混血は下に見られがちだ。それをエステル一人で覆すことはできない。
今までたくさん嫌な思いをしてきて、怒りを覚えることもあったけど、多勢に無勢では勝てないといつも反抗することを諦めてきた。感情を抑えて大人しくしていることが習慣となってしまっている。
(でもこれでいいの。学園では大人しく勉強するだけ)
自由になったら人間の国に行ってみたいな、なんて楽しい妄想をしながらエステルは食堂に入った。
食堂は全校生徒が入れるくらい広く、入って右側には簡素な長テーブルと椅子が整然と置かれていて、左側には五、六人が座れる丸テーブルのセットがいくつも設置されている。丸テーブルには貴族の生徒たちが座っているので、エステルはいつもそこを避けて右側の一番隅に座ることにしていた。
カウンターで最も安いメニューを頼み、料理の載ったトレーを持っていつもの席に座ろうとする。カウンターから遠くて不便な席だ。
するとそこでちょうど、この学園で一番の権力者と鉢合わせしてしまった。
(あれってまさか……)
入学して一ヶ月のエステルも見るのは初めてだったが、周囲の竜人たちが彼のために道を開ける様子、そして彼自身のオーラのようなものから正体を推測できた。
(銀色の髪に氷みたいな冷たい青い瞳……。この国の王子様だ)
外見の特徴は義姉から聞いて知っていた。学園に入る時に、彼には絶対に近づくな、失礼があれば私にも影響が出る、と散々警告されていたからだ。
(レクス殿下)
頭の中で確認するように名前を呼ぶ。
レクス・ドラクルスは、このドラクルス王国の王子だ。一人っ子で将来の王となることが決まっている。
背は高くすらりとしていて、髪の長さは長過ぎず、短過ぎもしない。肌は白く、顔の造形は美しい。まるで彫刻みたいだとエステルは思った。人間味があまりなく、表情からは感情も読めない。……いや、不機嫌そうに眉を少し寄せているのは分かった。おそらく前でカウンターに並んでいる生徒が自分に気づいておらず、順番を譲らないことが気に入らないのだろう。
「おい、後ろ……!」
周囲の友達に慌てて声をかけられ、レクスの前に並んでいた男子生徒は顔を青くして後ろに下がる。
「すみません、気づかなくて!」
「いいのよ」
返したのは、レクスと一緒にいた可愛らしい女子生徒だ。エステルくらい小柄で、赤い石のピアスをしていて、髪型は紫のボブヘア。前髪はまっすぐ斜めに切られていてちょっと奇抜な髪型だった。でも妖精みたいに可憐だ。
レクスはこの生徒を始めとした男女四人の生徒と一緒に食堂に来ていて、彼らは全員、おそらく王族に近しい貴族の子供たちだと思われた。エステルからすればみんな雲の上の存在だ。
「今日何食べようかなー?」
ボブヘアの女子生徒はよく喋るが、レクスはほとんど何も喋らない。
(どんな声してるんだろう?)
自分の中にふと湧き上がった『声を聞いてみたい』という願望に驚き、エステルは目を丸くした。持っていたトレーを思わず落としそうになる。
この一瞬の印象だけだと、レクスは無愛想で少々高慢そうな印象しかないのに、なぜさらに彼のことを知りたいと思うのか分からない。
(顔? 顔のせいなの?)
冷淡な感じはするものの、顔は確かに文句のつけようがない美形だ。でも自分が面食いだとは思わなかったし、顔だけで好印象を持つなんて信じられない。
レクスがカウンターで食事を注文している姿を見ているだけで胸が痛いくらいにドキドキしてくる。彼は抗うのが難しいほど強い引力を発していて、惹きつけられてしまう。
「何……?」
自分の中に湧き上がってくる感情に困惑する。喜び、興奮、そして……。
そんなはずないと必死で否定するが、今まで恋をしたことがなかったエステルでも、胸に広がるこの巨大過ぎる感情の名前にはすぐに気づいてしまった。
「うう……」
トレーをギュッと握り、目をつぶって耐えようとするが、溢れ出る気持ちは抑えきれない。
(好き……!!!)
いやいやなんで? と自問自答する。あまりに急過ぎる。一瞬で恋に落ちて、ほんの数秒でどうしようもないくらい好きになっているなんてあり得るだろうか? 自分でも自分が信じられない。
でも脈打つ心臓が痛くて、身体中が熱い。レクスがどうしようもなく格好良く見える。これが恋以外に何だと言うのだ。
(なにこれ……! なにこれっ!!!)
深い落とし穴に落っこちたように突然恋に落ちた馬鹿な自分に泣きそうになりながら心の中で叫ぶ。
するとレクスも食事を受け取り、ちょうど振り返ってこちらを見た。顔を赤くして突っ立っているエステルが目立っていたのか、たまたま目が合い、エステルが固まると同時にレクスも動きを止めた。
彼の目がどんどん見開いていき、薄いブルーの瞳が混乱に染まっているように見えた。
「レクス~? 邪魔なんだけど」
ボブヘアの女の子が迷惑そうに言う。王子にそんなふうに話しかけるなんて、きっと仲が良いのだろう。
「ちょっとぉ、先に進んでよ」
エステルにとって目が合っていた時間は途方もなく長く感じたが、実際は十秒程度だっただろうか。レクスは友人の声にハッとしてエステルから目を逸らし、自分の席に座った。
視線が外れるとエステルは深く息を吐く。まだ心臓はドキドキしているし、どっと疲れた感じがする。トレーを持つ手は軽く震えていた。
(食欲なくなっちゃった)
胸がいっぱいで食べる気がしなかったが、エステルの食事をもらってくれるような友人もいないし、もったいないので食べるしかない。
そうして仕方なく隅の席に向かう途中、背中に視線を感じた。何となくレクスのような気がしたが、王子と目を合わせるのもはばかられる立場のエステルとしては怖くて振り向けなかったのだった。