3、徒労感
大言壮語とは私のためにある言葉だ。具体的なプランが瞼の裏に刻まれていたとはいえ、勝利確定みたいな雰囲気を出したのはあまりにも浅慮な早まりとしか言えない。結論から申し上げてしまうと、朝のホームルームから帰りのホームルームまで、たっぷり八時間弱、この薄ピンク色の脳細胞をフル回転してもろくな考えは浮かばなかった。脳が薄ピンクってえっちぃイメージよりグロのイメージの方が強い。
こういう時はきっと一日を振り返るのが正解なのだろうけど、私の今日の一日は機械が決められた動きをしているだけに等しい意味のない一日だった。もう少し詳しく言うと全ての思考が徒労に終わった。別に実現困難な作戦とか予定とかを立てているわけではないつもりなんだけど、いざそれを放課後に実行しようとシミュレーションしてみると、必ずどこかで頓挫する。
予想していない些細なものに足を取られて、躓いて、そのままフェードアウト。暗転。現実的に考えすぎて逆に現実離れしているという自覚はあるのだが、ここまで余計なイベントが私の今後に挟まってくるとどの方向に対しても集中力なんてあって無いようなものだ。一応ノートに黒板を書き写しはしたものの、その内容は1ビットたりとも私にインプットされていない。
ただただ疲れただけの無益な八時間だった。本当に私は世の中で一般的に使われている告白と同義のことをしようとしているだけなんだろうか。もっと崇高で高尚な何かを無意識のうちにしようとしているのではないだろうか。こういうときばっかりは夜色と違うクラスで良かったと思ってしまう。授業中の私を見られていたら朝のことと合わせて、絶対に体調不良だと認定されていただろう。
そうなれば帰り道でどこかに寄って、いい雰囲気、なんてことには絶対にならない。私の今日という日が完全に無意味なものになってしまうし、無意義なものになってしまう。破滅への第一歩が盛大に踏み出されてしまう。破滅。破滅は言い過ぎかもだけど、このまま臆病なままでい続けたら私と夜色の距離が今のまま停滞するのは目に見えている。
停滞、より露骨に言うならば、一生の友達、というやつだ。私が最も望んでいない関係である。私は立ち上がると教室を出て、夜色がいる二つ隣の教室を目指す。この行動は基本的には毎日の日課であり、つまり私たちの関係性は周知されている。外堀は既に埋まっていると言ってもそこまで間違いではないのだが、そう一概に言えないところもまあ、若干、ある。私のせいと言うか、そうでもないと言うか。
これでも私、結構モテる。男子に言い寄られること数知れず、女子から妬まれること星の如し。それなりに人望もあるのでそういったあれこれが大事になったことは無いけど、それも夜色への告白を私が軽々に行えない理由の一つだ。ただの幼馴染み――いや、仲の良い幼馴染みでしかないはずの夜色に度々私関連で迷惑が掛かっているというのは、関係を進展させるのを足踏みしてしまうだけの申し訳なさがあった。
それも言い訳の一つと言われたらそうかもしれないけど、名前も知らないような男子が幼馴染みに理不尽に文句を言っている現場に数回出くわしたことのある人は、私の感情を理解してくれるんじゃなかろうか。夜色は気にしてないとその度に言うけど、こういうのは迷惑を掛けられた側より掛けた側の方が気にするもので、廊下ですれ違っては私を見てくる男子に嫌気が差すのは極めて自然な流れだったはずだ。
女子は男子の目線を意外と把握しているという話は最近結構広まってきたが、それはまじだ。というか、男子の目線、要は眼球の動きなのだが、露骨すぎるの一言に尽きる。顔ごと動かすんじゃなく眼球だけぎょろっと動かしたりすれば不気味さが目に付くし、顔ごと向ければそれはそれで見られてるなと実感する。じゃあどうしろと言われても困る。見るな。
女子には視線を物理的に感じる特殊能力があるわけではない。どちらかと言えば視線より感情を理解しやすいと言うべきだと思う。というそんなこんながあって、晴れて私は軽薄な男子が嫌いだという性格に至ったわけだが、そこで私と夜色が大人の階段を一歩登れば、今よりも面倒な難癖が訪れることはそこまで想像に難くない。
なぜ私たちの関係を無関係な他人に口出しされねばならないのか。私の伴侶を決める権利は私にだけある。少なくとも通っている高校が偶然一緒になっただけの、下の名前も知らない男子に口出しをする権利などあるはずもない。私と夜色はしっかり話し合ってこの高校を受けることを決めたのだ。そう、将来を見据えた話をした関係。これはもう夫婦みたいなものだろう。
恋人をすっ飛ばして夫婦になれないものだろうか。いや、それはそれで楽しみをどぶに捨てているからなしだ。というかこの考えは単に告白から逃げようとしているだけだと気付き現実に戻る。夜色の教室――二年C組の前の廊下で壁に背中を預けながら考える。帰り道でどうするかを。うんざりするほど多くのパターンを考えたが、結局はぶっつけ本番でしかない。
電車で帰る。歩いて帰る。ゲームセンターに誘う。カフェに誘う。アイスの屋台に寄る。クレープの屋台に寄る。図書館で勉強していく。ファミレスで勉強していく。手を握る。愛してると囁く。押し倒す。私の部屋に呼ぶ。夜色の部屋に押し入る。校舎裏。無人の教室。近所の公園。神社。おみくじ。本屋。駅。伝説の木の下――は、冗談にしても。
結局、自信が無いから全てにおいて成功するイメージが掴めないのだ。本日何度目かもわからないため息が唇の隙間から漏れる。もう一分もしないうちに出てくるであろう夜色に掛けるべき第一声はなんだろう。なにかこれから楽しいイベントが発生することを予感させるような思わせぶりな言葉の方がいいのだろうか。いつもだったら、
『今日もお疲れちゃんだね。さっさと帰ってゲームしよーぜー』
とかなんだけど、目的、意識、共にそんな感じの声掛けは止めた方がいいと私に訴えている。色気も何もあったもんじゃない。ロマンチシズムが必要不可欠とは言わないけど、コントローラーを握りながら告白というのはなんとなく避けたいものがある。思い出に残るのならばそれなりに取り繕っておきたい。そのための舞台が未だ定まらないのだけど。
「あ、悪い、待たせた?」
「……いんや、私も今来たところ。あ、待ってたって言った方が嬉しかった?」
「なんで待たせて嬉しがるんだよ。性格に難ありだろそんな奴」
「幼馴染みが教室の前で待ってくれてるんだよ? 男子垂涎のシチュエーションじゃないの?」
「そういう意味? いや、にしたってそういう風に思われてるのはなんか嫌なんだけど……」
「別に思ってないよ。ちょっとからかっただけだって」
さよならーとか、また明日―とかが教室内から壁越しに聞こえてきた少し後、肩に掛けた鞄をゴソゴソしながら夜色は教室から出てきた。迷いのない足取りで私の前まで来てくれた夜色に対し、あれこれと考えていた言葉のいずれもが不発に終わる。怖気づいた、わけではなく、毒気を抜かれた、というのが正しいかもしれない。顔を見たら、気張ったことを言う気など失せてしまった。
「あ、そっか、間違えた」
「……あんまろくなことじゃない気がするけど一応聞くわ。なに?」
「――ううん、今来たとこ」
「やかましいわ」
そんな適当な会話をしながら下駄箱に歩を進める私たちだが、なんとなく背後から嫌な気配を感じる。いや、気配という曖昧な表現でぼかすのはやめよう。あまり好ましくない声が聞こえる。そこまでの近距離というわけではないが、高校生活において聞き飽きた声。事あるごとに私に声を掛けては、事あるごとに夜色に難癖をつける厄介人間の蓋月くんである。
確か下の名前も名乗られたような気がするけど、迷惑を掛けられる相手の名前を必死で思い出す動機もない。そんな言い寄られるほどの関係性を築く何かがあった記憶はないのだけれど、向こうからするときっとあったのだろう。ドラマチックな出会いとか、そういう何かが。そうじゃなかったら執拗な難癖に一応の理屈も付かない。理屈があっても理性がないが。
聞きたくないと言うか、聞こえてしまうことすら避けたいので無意識のうちに歩調が速くなるが、それに無言で合わせてくれる辺り、さすが幼馴染みだ。夜色も後ろの三人組に良い印象なんて皆無だろうし、考えていることは一緒なのかもしれない。ん、いや待てよ。もしかしてこれは告白の動機付けに使えるのではなかろうか。
『実はまた、蓋月の野郎に言い寄られちゃって困ってるんだよね……。夜色もそうでしょ? ……で、これは提案なんだけどさ、そのー……、私たちがどっちつかずだから、向こうに言い寄る隙を与えちゃってるわけじゃん? だからね、そのー、いっそのこと、本当に付き合っちゃえば、ウザ絡みも減るかなーって思うんだけど……、……どう? 私と付き合うの……、いやかな?』
なんて。どうだろう。結構ありじゃないだろうか。あれを動機にするのは今後の思い出の大いなるノイズになるような気もするが、このまま告白も出来ず、夜色を誰かに盗られてしまうよりマシだ。良くはないがマシだ。懸念点としては、そういう逃げ腰を理由にすると夜色は断りかねないという点だ。そういう意識はしっかりしている。
『いやまあ、俺も迷惑だとは思うけど、それで付き合ってるふりっていうのは止めた方がいいだろ。下手するとそれも挑発だって思われて、今まで以上に面倒な絡み方してくるかもしんないし。お前も別にあしらうの下手じゃないし、俺も我慢できないレベルじゃないし。これ以上エスカレートするようならなんか対策考えなきゃだけど……』
あー、言いそーだなー。私がどんなに顔を赤くしても、上目遣いで見つめても全然気にしないんだろうなー。逆に言うと、今までそういう素振りが夜色に見られなかったから、私の恋心の自覚が遅れたというのは確実にあると思う。接近してもボディタッチしても、ドキドキやら動揺どころか、避けたりすることもない。なぜ全てを真正面から受け止めて平然としているのだ、越雲夜色。
背後の声が遠ざかっていくが、それが再接近してくる様子はない。偶然私たちの後ろを歩いていただけだったのか、それとも二人でいるところに突撃するほどの度胸はないのか。どっちにしろ助かった。これ以上のストレスを抱えるのは命に関わるし、あれに話しかけられた後でいい感じの雰囲気に持っていくのは私の手腕では不可能だし。階段をあと一つ下りれば下駄箱というところで、夜色が口を開く。
「……後ろ、いたよな」
「いたね……。でもあれでしょ、追いかけてこないってことは偶然だったんじゃない? さすがにそんな、教室から出てすぐにストーカーみたいなことしないでしょ。一般的な良識さえあれば」
「気持ちはわかるけど言葉の端々が刺々しいな。……まあ、あんだけ尽く断ってたらそろそろあいつも凝りそうな気がするけど。実際、何か好かれるようなことしたの?」
「覚えがないんだよね……。まあでも見た目でしょ。どうせ。可愛いから、私」
「モテるのは良いと思うけど、あんまり厄介な奴に好かれないようにしろって何回も言ってんだけど」
「無茶を仰るね。人の気持ちはだれにも止められないものだよ。恋ってそういうものでしょ?」
「……知らんけど」
知らんけどと来たか。そこで顔を背けたり、頬を赤らめたりすれば、照れ隠しなのだなとか前向きな解釈ができるのに、昔から感情を隠そうとしないわかりやすい表情筋は、本当にわからないのだろう怪訝な顔をしている。逆に言えば、他の誰かに惚れてるということがないのが判明したとも言えるが、夢が告白されている夢だったので、まあ今更な情報と言える。今更。夢。
遠回しに私は恋をしているのだと伝えたつもりだったのだけれど、鈍感を通り越して無感の夜色にそんな機微がわかるわけもないか。下駄箱に辿り着くと、私の靴箱よりも手前にある夜色の靴箱を見る。靴の上にハートのシールで留められた封筒でも置いてあったら私が先に見つけて始末しなければならない――ではなく、告白をさらに前のめりにする必要が生まれる。先手必殺。夜色の心は私が射抜く。
実際、そんなファンシーでファンタジーな代物は誰の靴の上にも置かれていなかったので切迫した状況になることは避けられた。切迫どころか切腹ものだ。行動の遅さは死に繋がる。だからこそ、勝負は今日中、これからの下校中につけなけらばならない。夢が現実になるのが明日か、明後日かは知らない。だが。
夢は所詮見るものでしかなく――夢を見るのは、叶えるためなのだ。