2、顔を合わせて
大口を叩くとは私のためにある言葉だ。実際に口に出してはいないとはいえ、よくもまあ神に対して、しかも恋愛を司るかもしれないどこかの神に対して、あんな敵に回すような大言壮語を吐けたものだ。必要ないわけがない。黙ってないで口出ししてくれ。アドバイス求む。
いつも通り可愛いぞ私、などと意気込んで今日もいつもと同じように登校し始めたわけだが、幼馴染との待ち合わせ場所に近付くにつれてその足取りは着実に重くなっていく。毎日一緒に登校してるにもかかわらずなぜ今日に限ってこんなに足が鉛なのか。その理由は考えるまでもないが。
確実に成功する告白なんてこの世に無いという当たり前の視点がさっきまでの私には圧倒的に欠けていた。こうして一歩一歩進み、理想と現実のすり合わせが徐々に脳内で行われた結果として、この牛歩の女が生まれたのだ。足は重いのに、目的地はいつもより近い気がする。ふざけてんのか。
洗面所を後にした私は妹の正面に座って朝ご飯を食べ始めたわけだが、その時の妹がやけににやにやしていたのはまさかこうなるのがわかっていたのか。わかっていたなら忠告してよ。なんでこれから死地に赴く姉を見てにやにやしてんの。恋愛マスターは人の恋愛の正しい楽しみ方を知っているのかもしれない。
『おはよー。突然なんだけど私と付き合ってくれない? 寂しい思いはさせないって約束するからさー?』
そんな感じの気軽い告白、そして快い返事が私の理想だったわけだが、その現実味の無さと足取りの軽さはあまりにも反比例している。洗面所、いや、玄関を出るまでの自分はこれでいけると確信していたのだから、今思い返すと愚かしい。愚かしいと言うか、純真と言うか。
こう言っちゃなんだが、私の告白は十中八九成功すると思う。幼馴染みの越雲夜色なら、一瞬困ったような顔をするだろうが、その後に照れながら快諾してくれると思う。と思う。そう、十中八九なのだ。その確率は百発百中ではない。失敗の可能性が零ではないというのが、世の中の未婚率を上げている要因でなかろうか。
そこに含まれているリスクはあまりにも不可逆的だ。それまで築いてきた関係性を失ってしまえば、心が絶望に包まれ、今日中に世界が終わってしまえと全てを呪い始めるのも止む無し。病む。私だってそうならないとは限らない。いや、あの夢からするとそうなる危険性は非常に高いとすら言える。
ヤンデレになるつもりはないが、精神の八十パーセントくらいは削れてしまってもおかしくないし、そうなれば日常生活にどんな弊害が起こるか。告白失敗なんて気にしないでガンガン行くぜという人間も世の中には一定数いるのだろうが、誰も彼もがそんな性格だったら世の中に鬱なんて病気はない。むしろそういう人こそ鬱になりそうなイメージもあるが。
失敗した後のことばかり考えるのはネガティブな現実逃避の一環だと理解してはいるものの、こういう一世一代の挑戦で成功した時のことだけしか頭にない人間なんていないと思う。ましてや、失敗――手遅れになった後の光景を、鮮明に見てしまった身としては、悪い方向の想像だけ止める間もなく進んで行ってしまうのだから、これはもう人間という生命体の欠陥だと言うべきだ。
ポジティブ人間よりネガティブ人間の方がリスク管理が出来ていると言えるのかもしれないが、刻一刻を争う今みたいな状況でそれを美徳とは呼べない。時間がないのだ。さっさと告白して、夜色が私のものだと何らかの形でマーキングでもしておかなくては全てが手遅れになってしまう――
「……ん?」
夢、だよね。鮮明過ぎたせいで未だに現実と混同しているらしい頭をぶんぶん振り回す。そもそも夜色と毎朝待ち合わせているのは駅前だ。駅前で告白とか正気じゃない。朝ということもあってそれなりの人がいる場所でさっきまで想いを口にしようとしていたのはもう、なんなのか。死ぬぞ。恥ずかしさで。羞恥心は人を殺すのだぞ。わかってんのか。
私たちが乗らなくてはならない電車は七時五十分に最寄り駅に停車する。まあ一本くらいなら遅れても間に合わなくはないが、朝から全力疾走したい人というのはそうそういないだろう。なんだかんだ重い足取りでも、身体は日々の習慣を覚えているらしい。結局、最寄り駅――祖杜垣駅にはいつも通りの電車五分前に到着してしまい、それはつまり夜色と合流するということでもあり。
まさかまさかの体調不良で今日は学校を休むとかそういう展開だったりしないかなと考えたりもしたが、世の中というのは予定調和を重んじるもので。どっちが先に駅前で待っているかというのは日によってまちまちなのだけれど、夢の中以来の遭遇となる幼馴染みは、すでにそこで携帯に視線を落としていた。
覚悟を決めて声を掛ける。ことここに至ってもまだどうするか決めていない私は、自分でも絶句するくらいの優柔不断らしい。しかしそれでも、夢のことなんて何も知らない夜色を見て、安心する私がいる。まだ、誰とも付き合っていない夜色。
「おはよー……」
本当はこの後に気安くて気軽い告白を言葉を続けるのが私の机上の空論だったわけだが、それを意識した瞬間に信じられないほど喉が狭くなったのを感じる。脳と身体がせめぎ合っているのを感じる。天使と悪魔じゃないが、両方とも私ならもう少し思い通りに動かんもんかね。
「おはよう。今日は俺が早かったな。ん? ……どうした? 具合悪い?」
「ふぇっ? な、なんで? いつも通り元気でかわいい幼馴染みだけど、なんか変?」
「変ってわけじゃないけど、なんか疲れてるようには見えるな。あれだ、前に八時間ぶっ通しカラオケやった、次の日のお前が今みたいな感じだった」
「そんなに……? なんかそう言われると具合悪くなってきたような気がしてきた……。学校までおんぶしてくれない? ね?」
「大丈夫そうだな。電車来ちゃうし先行くぞー」
「そこまでスルーせんでもよくない?」
本当にさっさと改札を通ってしまった夜色を追いかけながら、私は相反する二つの感情と戦っていた。告白の下準備として口から出る限界だったおんぶが完全にスルーされたもやもやと、気疲れしているだけなので身体は元気いっぱいだというのを素早く見抜いてくれたという幼馴染みの距離感への喜び。さて、どっちを重要視すべきか。
正直、このくらいの軽口は日に十回は叩いているので、ちょっとした距離感の詰め方程度の振る舞いじゃ今更夜色は臆することは無いだろう。突然キスされるとかそんなレベルのインパクトが必要になってくる。それもこれも全て私が悪い。友情と愛情を分けて考えられず、今まで心地よい関係性に甘んじたツケだ。
『何に悩んでるかはわからないけど、お前が百パー悪いってことはないんじゃないか?』
本筋をぼかして相談したら、夜色からそういう言葉をかけてもらえることは想像に難くない。だが実際、この件は百パー私が悪いし、夜色からの甘言を想像しているということはまだ私は甘えているのだ。何も言わなくても、今までの積み重ねから向こうが勝手に察してくれるんじゃないかとか、負け犬みたいな思考がその証明だ。
今更、沈黙を気まずいと思ってしまうのは、私の心に疚しい部分があるからだろう。お互いのことを知り尽くしている私たちの間で、何も会話がないというのはそこまで珍しいことじゃない。喋るときは喉が枯れるまで喋るが、黙るときは喧嘩でもしたのかというくらい黙る。喧嘩をしたことは当然あるが、どれもこれも長続きはしない。
逆に、何故これでいままで恋心に気付かなかったのだろう。自分で自分がわからない。しかしそうなると、一つ考えなくてはならないことがある。夜色は私をどう思っているのだろうか。私と同じだけの時間を二人で過ごしてきたのだから、都合よく考えれば私に惚れていないはずがない。これでも外見にはそれなりに自信がある。
今まで疎遠にならなかったことからも、性格が合わないというようなことはないだろう。つまり、理想の相手。くっつけばベストカップル間違いなし。まあ、そんなようなピンク色の感情を夜色から感じ取ったことが一度でもあれば、こうも面倒な拗らせ方をすることはなかったわけで。
夜色が私を異性として好きという可能性は一旦排除しておいた方が私の心が傷つかずに済むはず。なんで好かれてない方が傷つかないんだよ。逆だろ。私と同じで自覚してないだけという可能性はあるけど――あるけど。もしそうだったらどうすればいいんだろう。もしそうだったら、告白しても、断られてしまう。
私たちは似ているから、その先にあるのは緩やかな地獄ではないのか。たとえこの気持ちが一方的なものだったとして、私は夜色の足にしがみついていく覚悟で告白するしかないのだ。それ以外に道はない。夜色の矢印が他に向いてしまう前に、さっさと手綱を握らなければならない。
なんだかんだと言葉を並べても、どうしたって告白は失敗する可能性があるという結論に帰結する。各駅停車の電車に乗り込みながら、溜め息を吐いてしまうが、これは完全に無意識の行動だった。ただの呼吸のつもりだったのだが、思考の沼の一部がそれと一緒に吐き出されてしまったらしい。少しだけ目を見開いた夜色と目が合う。口元を隠してももう遅い。
「ぅえ、びっくりした。まじでどうした? なんか今日おかしくね?」
「いやいや、大袈裟だって。私だって溜め息くらい吐くし。まさか私のこと、悩み事なんて一つもお気楽人間だと思ってた?」
「割と思ってるけど」
「思ってるんかい」
反射的に私がそう突っ込むと、夜色は今更何を、というような顔で私を見る。まあ確かに人に比べたらお気楽に日々を生きているとは思うけど、そこまで当然のような顔をされるのもなかなか心に来るものがある。今はお前のせいで悩んでいるんだと言ってやりたい気持ちはあるが、さすがにそれが八つ当たりなのはわかる。
電車の扉が閉まる。朝にもかかわらず普通に座れてしまうほど空いている車内はもう見慣れた光景だが、いつも通り隣り合って座るという慣れているはずの行為がどことなくぎこちなくなってしまうのはどうしたものか。日常も、気の持ちようで、非日常。そんな五七五が頭に浮かぶ。ほんの少しの緊張、あるいはいつもとの差異を感じ取ったのか、心なしか真剣な声色が左に座る夜色から聞こえる。
「……別に言いたくないこともあるだろうから無理には聞かないけど、変なことに巻き込まれそうとか、そういうのは言えよ? なんかお前は、そういうの抱え込みそうなところあるしな」
「そうなの? 夜色にはなんもかんも話してる気がするんだけど」
「その辺に関してはもう少し隠せ。男子に明け透けに話す内容じゃねえから」
確かに、男女の間柄とは思えない報告を日頃しているとは思う。今日こんな下着買っちゃったとか。今の私の心境からして、今こんなパンツ履いてるよ、なんて報告は絶対に無理だ。そういう意味で言うと、私の自由度は昨日までと比べるまでもなく激減している。そのへんから夜色は違和感を覚えたのだろう。
ふむ、思いの外、夜色は私のことをしっかりと見ているし、わかっているらしい。十六年という歳月をただ漫然と過ごしてきたわけではない証左とも言える。思い返せば、こうして電車に乗るとき、座席の一番端っこも、扉の前も譲ってくれている。これは私のことをしっかり女子として見ていることの表れでは。
ここで調子に乗る私と、しおらしくなる私、夜色はどちらが好みだろうか。珍しく心配を掛けた、心配してくれているという状況をどっちの方向から利用するのが戦略としては正しいのか。これは恋愛初心者にはハードルの高い難問だ。そういえば夜色の好きなタイプとか知らないな。
軽快なリズムで走っているこの電車が止まれば、さっさと高校の最寄り駅に着いてしまう。そうなればもう今日の大半に告白チャンスは訪れないと思って差し支えない。かと言ってこの電車の中で伝えるのは躊躇われるし、そうなると放課後。
隣の夜色の横顔を見ながら、膝の上の鞄を抱えながら両手を握りしめる。無言を気まずいとは思わないが、今にも変な音が鳴りそうな喉を抑えるのに必死だ。絶対に聞こえる。今日一日、学校で覚悟を決める、そして帰り道でさっさと言ってしまう。大丈夫だ、私ならできる。できる。できる。
恋人繋ぎで帰り道を歩いてやる。勝利はもう、私の手の中だ。