1、恋心
夢の中の私は呆然としている。唖然、あるいは愕然かもしれない。青天の霹靂なんて言葉では形容しきれない衝撃。決してありえないはずのことが目の前で起こっているという悲劇。しかしそれは、いつやってきてもおかしくなかった予定調和以下の何か。
今の私が睡眠中で、ここが夢の中なのはわかる。動けたら明晰夢だが、動けないということは目の前の光景を私はただ、成り行きに従って見続けなければならないということ。あまりにも残酷な生殺し。
いや、あるいは私は、未来を見ているのかもしれない。明晰夢ではなく、予知夢。確かに私は自分の感情に無頓着なまま生きてきた。人の感情に無頓着なまま生きてきた。昔からあるものはいつまでも変わらないと盲信して生きてきたし、きっと明日からもそうだったのだろう。
でももう、そうじゃいられない。夢見がちを卒業する時が来たのだと思う。だからきっと、これは警告なのだ。今の自分を変えなければならないと、無意識のうちに私の脳が発した警鐘が、こうして夢という形で私の五感に訴えかけてきた。
目の前の幼馴染みは、私に刃を突き立てる。
「あー、そのな、さっき告白されて、彼女ができたんだ。だから、その、今日からは別々に帰るってことにしてほしい。唐突な話で申し訳ないとは思うんだけど」
生まれた時から一緒に育ってきた。物心ついた時には隣にいるのが当たり前だった。それはこれからも不変で、私だけじゃなく向こうもそう思っていると思い込んでいた。そんなことはなかった。私が考えていることなんて彼には微塵も伝わっていなくて、以心伝心だと思っていたそれは無残なまでの一方通行だった。
教室で告げられたそれに私は反応を返すべきだと思いつつ、身体は言うことを聞かないという初めての経験を味わっていた。それはどうしようもないほどに息苦しく、喉からは不良品の笛から空気が漏れるような音しか出てこない。
口の中の唾を飲み込む余裕もない様子は、目の前の幼馴染みからはどう見えているのだろうか。鈍感というわけではなかったように思うが、私の異常さに気付いてくれたりはしないだろうか。そんな風に自分に都合のいい方にばかり考えてきたから、今があるのではないのか。
「そっ……、そっか、わかった」
おめでとうとか、なんでとか、そんな言葉を挟む気力もない。目の前に幼馴染がいなければ、とっくに私は床にへたり込んでいる。そうなっていないのは、とっくに粉々になっている自尊心がギリギリ働いているお陰だ。ここで泣きわめいたりするだけの素直さがあれば、何かが変わっていたのだろうか。
軽く手を振りながら教室から出ていく幼馴染みの背中を見送る。見過ごす。縋りついたり、抱き着いたり、泣きついたりしたら、今からでも私を大事にしなくてはいけないと心変わりをしてくれるだろうか。そんな思いと共に握りしめた拳に、力なんてほとんど入っていない。マシュマロすら握りつぶせない。
とっくに教室は空っぽだ。誰の姿も見えなくなって、私はとうとう決壊した。手で抑えているはずの口からしゃくり上げるような声が漏れ、両目からとめどなく涙が零れる。泣いたのなんか何年ぶりだろう。
廊下から見えないように窓の方に身体を向ける。それでも、この身体の揺れを見たら泣いていることなんてすぐにわかってしまうだろう。たとえ意味のない抵抗でも。それでも。
この失恋は、誰にも見られたくない。
「うぅ、っく、えぐっ――ひぃっ、ぐっ、うぅ――うえっ、ぐぅ――」
こんなに泣いてたら帰れないじゃないか。いや、それでいいのか。今から帰って、家が近くの幼馴染みに遭って、こんな顔を見られてしまうより、今ここでこうして、泣いている方がましか。もう、笑顔を取り繕う必要もないのに。ましなんてそんなわけないのに。
一人で泣いている自分が酷く惨めで、私の意識はそこで暗転した。
☆☆☆
ベッドの上で私――七星縁理の顔はびちゃびちゃに濡れていた。その水分の全てが私の目から放出されたものだというのは目を覚ました瞬間にわかった。反射的にがばりと上半身を起こすと、呼吸が随分と荒いことに気付く。仰向けで綺麗な寝相だった割に、全力で走った後のような疲労感が全身を覆っている。
一瞬、あの後、教室から知らないうちに帰ってきたのかと思ったが、ようやく夢であることに気付いた。人生十六年、あそこまでの圧倒的リアリティで心を抉ってくる悪夢は見たことがない。一生忘れないだろうという確信にも似た直感が私の脳に刻まれている。
どうせ一生物になるのだったらもっと幸せな夢を見せてほしい。刻むってそういうんじゃないじゃん。刻んでほしいのは思い出とかそういうロマンチシズムに溢れたものであって、心の傷とかじゃない。人生一だと断言できる寝覚めの悪さ。絶叫していなかったのが逆に不思議だ。
携帯の画面を付けると時計は七時直前であり、その下に表示されている日付が、悪夢を夢だと証明してくれていた。立ち上がって朝ご飯を食べなくてはいけない時間だが、どうも身体に力が入らない。絶望というのは人の調子を狂わせる。
ようやく立ち上がって部屋の雨戸を開けると容赦ない日光が私の眼球に突き刺さる。ぎゃあと小さい悲鳴が私の口から漏れるが、嗚咽と比べれば大して刺々しくもないものだと悟ったような感想。全てを夢と繋げて考えているのは、私が夢と現実の境目をしっかりと認識できていないせいだろう。
教室の匂い、涙と共に歪んでいく景色、誤魔化せない鼻の奥の痛み、そのどれもが私にあれを現実だと信じさせた。部屋の姿見を覗くと目が真っ赤だ。さすがに一時間あれば赤みも引くだろうけど、家族にこれを見られるのは逃れられない。
嫌な夢を見たで済ませるには私は少し年を取りすぎている。かと言って正直に夢の内容を暴露するには、私の精神は若すぎる。まあ最悪、幼馴染みにさえ見られなければいい。あの男はそんな様子の私を見たらおばあちゃんかと突っ込みたくなるくらいに心配してくるだろう。
それこそ、私が欲しい言葉は、大丈夫、ではないのだけれど。心配よりも先に私にしなくちゃいけないことがあるんじゃないのか。それを怠って何を彼女と一緒に下校するだ。私はお前をそんな鈍感なくそぼけに育てた覚えはない。向こうからしたら謂れない罵倒でしかないだろうけど、私はただいま傷心中だ。
「……こういう考え方だから、あんな夢見るんじゃないの……?」
昨日までしなかった考え方――いや、しなくてよかった考え方だ。幼馴染みに彼女ができるなんて考えたこともなかった。そして、そうなったら自分がどうなるのかも。あの夢は、同じ道を辿ったときに現実で再現される。自覚した私の恋心は、それを大声で訴えていた。
恋心。まじか。いや、そういえば以前から妹に度々、いつまでとぼけてんの、とか言われてた気がする。その時は本当に何のことかわからなかったけどこれか。鈍感なくそぼけは私だったのか。その事実に少し落ち込みつつ、顔を洗うために自室の扉を開いて――妹と鉢合わせた。
「……なに、どうしたのその目」
「え。あーえっと、ちょっといやーな夢見ちゃって。はははー……」
「……ふっ、どうせ夜色兄のなんかでしょ?」
「うぇっ。……なんでわかったの?」
「縁理姉がそれ以外の夢で泣くのが想像できないだけ。……ま、どんな夢だったかまでは聞かないけどさ」
そう言うと妹――弧縁はさっさと一階に降りていってしまう。私の二歳下で現在中学三年生の妹だが、おそらく精神年齢は私より上を行っているだろう。中学生ならではの面倒臭さを除いても、色恋という分野において私が敵う点はない。
その恋愛マスターぶりと言ったら、私の中学時代の同級生が恋愛相談で妹を訪ねてくるほどだ。久しぶりに顔を合わせた知り合いが妹の部屋に真剣な顔で入っていくのを見たときの私の心境たるや。縁のない話だと思っていたが、私が妹に泣きつくのはそう遠くないのかもしれない。
しかし、私が泣く原因として夜色以外が想像できないというのは、一考の余地がある軽口だ。一階の洗面所で顔を洗い、歯を磨きながら考える。私が最後に泣いたのはいつだっただろうか。意識して思い出そうとしてもなかなか思い浮かばない辺り、かなり昔が最後だということだけはわかる。
そうだ、思い出した。中二の夏くらいにテレビでお笑い番組を見て大笑いしたのが最後だ。次の日に筋肉痛を引きずるレベルだったそれが、私の記憶にある限り最後の落涙。馬鹿か。そしてそれ以前となると記憶どころか見当も付かない。重ねて馬鹿か。私の人生に女子らしい可愛い理由はないのか。
一体何が起こったら私は泣くのかと自問自答しても、それにすら答えを見つけることが出来ない。家族や友達が死んだりしたらそりゃ泣くだろうが、そんな非日常に足を突っ込んだ理由は現在募集していない。それこそ夢で見たような、夜色に彼女が出来たりしたら悔しくて情けなくて泣くだろうけど。
「……そりゃ弧縁にも言われるわ」
口の端から歯磨き粉をこぼしながら鏡の中の自分をジトっとした目で睨む。考えてこなかっただけで、考えてみれば私が夜色のことを好きなことなんてどの角度から見ても丸わかりなのだ。自分の目でも、こうして鏡を見つめるだけで一目瞭然。逆によく我ながら、十六年間も無頓着でいられたものだ。
一緒にいるだけで、満足していたということなのだろうと思う。恋人というわかりやすい関係でなくても、一番近くにいる幼馴染みの自分にはそれと同等の立場が確保されていると無意識のうちに思い込んでいて、しかしこうして自覚してみれば、いつ割れるとも知れない薄氷の上でよく踊っていたものだと感心する。
鏡の中の私はいつの間にか真顔だ。その顔をいつも通りの笑顔にして、昨日と同じ今日を繰り返すのは簡単。しかしそれは、いつ私を破滅させてもおかしくない道だ。破綻と言い換えてもいい。夜色と一緒にいることが常識となっている私からその常識が取り上げられたら、その先に待っているのは闇だ。
あの夢は警鐘だ。今のままを惰性で続ければ、いつか私は崩壊する。私の脳が自己防衛の本能か何かで働いた結果。気付けて良かった。危うくあと一歩で終わるところだった。まだ大丈夫。取り返しがつく。確定していない未来をつかみ取る権利は、まだ私の中に残されている。
「……告白くらい余裕だっての」
うがいをした私は勢いよく顔を洗う。肌は痛むが心は引き締まる。こんなかわいこちゃんが一世一代の大勝負を掛けようというのだ。いや、勝ちは決まっているようなものだが。ものだが。もしもこの世に神がいるなら味方しないわけがない案件だが、必要ない。黙って見てろ。これは私の戦争だ。
待ってろ、愛しのスイートライフ。