10 聖騎士隊長の過去
ロイヴァンダリア王国首都の外れに形成された貧民街で、ルーカスは幼少期を過ごした。
「お母さんは仕事に行って来るから、いい子にしているんだよ」
「うん……」
夕方になると、母は濃い目の化粧をし、むせ返るような香水の香りと、一欠片のパンだけを残して出掛けて行く。
そして、明け方酒の匂いをさせて帰ってはよく、『ルーカスは侯爵家の子なのに、なんでこんな生活を送らなきゃならないの』と、愚痴りながら泣いた後、倒れ込むように眠っていた。
そんな母親を、いつもどこか冷めた目でルーカスは見ていた。
それでも昼過ぎまでには新鮮な水を用意し、ほとんど具材の入らないスープを作っては、母が目覚めるのを待った。
(母さんと俺は、父親に捨てられたんだ……)
子どもながらに察しのいいルーカスは、時々、小綺麗な身なりをした男が訪ねて来るのを知っていた。それが母の言う、侯爵家の遣いなのだろう。
しかし、そいつが来ると母の機嫌が悪くなるので、父親や侯爵家の話を聞くことはできなかった。
そんな暮らしを続けていたある日、母親が男を連れて家に帰って来た。
「お母さんたちは仕事の話があるから、少し外で遊んでおいで」
「嫌だ」
男女の詳しい知識はない。だが、男が母に向ける汚らわしい目を見て、二人きりにさせたくないと思った。
「生意気なガキだな? とっとと行けよ!」
「嫌だ……。ここは俺の家だ!」
この街で生き、否応なしに人間の恐ろしさを理解してきた。自分の倍もある体格の輩に歯向かい、ガタガタと身がすくむ。
それでもギュっと歯を食い縛り、意を決して目の前の男に立ち向かったのだが――
「ウッ」
いきなり大人の男に殴られ、ルーカスは無惨に床に転がっていた。
「なんだその目は!」
「……お前が出ていけ」
少しでも声を上げてしまった自分に、恥ずかしさと悔しさが込み上げる。
「このガキっ!」
男は、床から這い上がろうとしていたルーカスの腹を蹴って再びうつ伏せにすると、小さい彼の左手を硬い靴の踵で踏みつけた。
「ッ!!」
叫びたいほど痛いのに、また声をあげたら負けだと思った。泣きも叫びもしないルーカスから興味を失ったのか、男は薄い板一枚の扉を開け外に出ようとする。
「胸糞わりぃな。帰る」
「あ! ちょっと待っておくれよ」
男を追って母も家を出て行き、ルーカスは一人取り残された。
それ以降、直撃を受けた薬指の先は動かせなくなり、母と二度と会うことはなかった――
(俺は、母さんにも捨てられたのか……)
塞ぎ込む余裕などない。煙突の煤掃除にどぶさらい、街に住む人々が嫌がる作業を見つけては、ひたすら金を稼いだ。
ただただ、その日を生きるため必死だった――
それから程なくして、この貧民街には似つかわしくない、例の遣いが訪ねて来た。
「主人が、貴方を引き取りたいとおっしゃっています」
「いえ。行きません」
クラウェル侯爵家の使用人とは、こんなやり取りを何度か交わした。
ルーカスが十になった年、とうとう侯爵本人が貧民街にやって来た。
「このまま、ただ生き残るために足掻く人間になるな。成人まで私の元で学び、騎士になれ」
戻らぬ母を待っていたかったのかどうかは、未だに心に靄がかかってハッキリしない。
ただ、手を踏みつけた男や目の前の男より、強くなりたいと思った。
動かない左手を右手で隠し、父である侯爵に返事をする。
「俺は騎士になりたい。お願いします」
こうしてルーカスは十歳で侯爵家に引き取られ、貴族として一から教育を受けることとなる。
侯爵も与えられた教師も、貧民街の住人だったルーカスの面倒を渋々見ていたのだろう。指が不自由しているのには、誰も気づかなかった。
毎日課される課題を淡々とこなし、誰からも必要以上に干渉されない生活は性に合ったが、成長するにつれ、女性から送られる秋波に苦しめられた。
(化粧と香水臭い……。吐き気がする……)
自分を捨てた母の影がちらつき、女性への嫌悪感は増してゆく。
(騎士にさえなってしまえばいい。それまでの我慢だ……)
そして、十六歳になったルーカスは、晴れて騎士団に入団した。騎士であるのに手に欠陥があると知られたくはなく、左手薬指の事は隠し続けた。
(これでやっと、俺は自由に生きられるのか……)
騎士団に入団したが、ルーカスが孤独であることに変わりはなかった。
平民の団員からは侯爵家の人間と見られ、貴族の団員からは貧民街で育った庶子と遠巻きにされる。
(勝手に騒いでろ。強くなって黙らせればいいだけだ)
「君、僕より格好いいし強いね。ま、顔は好みもあるし、これから僕の方が強くなるかもしれないけどね」
そう言って、馴れ馴れしく肩を組んで来た同期がいた。
チャラチャラした男だが、貴族にも平民にも交われなかったルーカスに、最初から好意的に接してくれたのは彼だけだった。
「自分の顔にもあんたの顔にも興味はないし、俺はまだまだ強くなる」
「うっわあ。なんか堅いねえ~。僕はロレンス。君とは合いそうな気がするんだ。これからよろしくね~」
始めは嫌そうにしていたルーカスだったが、ずっと変わらず接してくるロレンスに――馴れた!
(友と呼ぶのは、こんな奴のことなのか?)
時間はかかったが、ルーカスはロレンスを友人だと思えるようになっていた。
さらに、人と交わらず尖りに尖っていたルーカスを見放さずしっかり育ててくれたのは、入団した時既に団長と料理長をしていたベアとリュウだ。
無愛想だが文句を言わず、手際よく仕込みの手伝いをするルーカスを、リュウはよく気にかけていた。左手の薬指を不自由しているのに気がついたのもリュウだった。
手の怪我に気づいて報告を受けたベアが、ルーカスの生い立ち含め、丸ごと豪快に受け入れてくれたことに感謝している。
「ルーカス。聖騎士を目指せ。生まれも血筋も経験も、全て利用してやれ」
(父親の侯爵家の肩書きも、侯爵を誑かした母親の容姿も、これまで生き残ってきた経験も、全部利用するか……)
「ですが、俺は指が一本動かないんですよ?」
「アホ。大したことないだろうが。俺を前によく言えたもんだ。――見ろ! お前の髪はまだフサフサだろうが! 今しか聖騎士にはなれねーぞ?」
一瞬苦しそうな顔をしたベアを気遣い、リュウは足に注目させようとはせず、ツルツルの頭をペチペチと叩いていた。
(俺は、このお二方の期待に応えられる人間になりたい)
「ありがとうございます。これからもご指導よろしくお願いします」
それからは、一心不乱になって聖騎士を目指した。いちいちロレンスが楽しそうについて来ていたが、いつの間にか一緒に聖騎士隊員に任命されていた。
そして今、ルーカスはもう一人、人生を変える人物と出会ったのだ――
(あいつも、恐怖心に耐えたんだな……)
アイヴィーを見ていた時、もっと厳しい訓練をこなしてきたし、そんな団員たちも大勢見てきたのに、飛び出したくなった。
隊長クラスの攻撃に幼子の様になって身を縮めるだけのアイヴィーと、子どもの頃の自分が嫌でも重なり、胸が締めつけられ苦しくなった。
ロレンスが来て肩を叩いてくれなければ、冷静な対応をすることができなかったかもしれない。
「あの娘の戦い、勝たせてやりなよ。あの娘なら、ジェシカに勝てるだろう? そして、勝ったら早く傷を治せるように行ってあげたらいい」
乱れた呼吸を整え、ルーカスはアイヴィーの戦いを最後まで見届けた。
無駄に綺麗な笑みを向けてきたロレンスにこの場を任せ、魔法師団の医務室に駆け込んだ。
アイヴィーを休ませた後にはジェシカの元へ行き、初めて自分から話し掛けた。
「やっとルーカスからあたしの所に来てくれたね。まあ、良い雰囲気ではなさそうだけど」
「俺はあんたに興味ない。今後、顔を合わせても任務以外で関わる気もない」
「それなら、今までと変わりないじゃないか? 任務中しか関わってもらえないのに、慣れっこなんだけど?」
「……。あんたみたいな女が一番嫌いなんだ」
「ハアーア。あっそ。――まさか、あんなチンチクリンがルーカスの好みだなんてね……」
「は? 何を言ってる?」
「あとは勝手にやっとくれ。あたしがタイプじゃないって分かったからもういいよ。二度と付きまとわないから安心して」
「おい!?」
意味不明の発言を残し、ジェシカは走り去った。
(チンチクリンが俺の好み……?)
どうしても、一人の女の顔が浮かんでしまう。
(まさかな……)
触れた髪の柔らかな感触を思い出し、その頬がほんの少しだけ緩んでいたことに、ルーカス自身は気づいていなかった――




