1 推しとの遭遇
「たっだいまー」
「コラ! こんな時間までどこ行ってたんだい!?」
「川岸のおじいちゃん家で、牛のお産を手伝って来たよ」
「まぁた小遣い稼ぎばかりして! 三日後には成人だってのに、嫁の貰い手も働き口もないなんて……。このあんぽんたん!」
「仕事やお金だけが人生じゃないってー。ご飯もお風呂もいただいちゃったし、明日も早いからこのまま寝るねー」
「待ちなさい! アイヴィー!」
仁王立ちで出迎えた母の脇をスルリと抜け、少女は階段を一気に駆け上がった。
質素で小さい部屋の中――貯めていたお金を全て鞄に仕舞い、シンプルなアイボリーの寝間着に身を包んだ少女アイヴィーは、それはそれは幸せそうにとろけるような笑みを浮かべて呟いた。
「おやすみなさいルーカス様。明日はいよいよ、特別なルーカス様とお会いできますね」
その陶酔を向ける先には、端正な顔立ちの美しい黒豹の様な男の姿絵が飾られている。
描かれているのはロイヴァンダリア王国の現聖騎士隊長、ルーカス・クラウェル。
艶やかな黒髪は無造作に束ねられ、長い前髪の間から覗く瞳は黄金に輝く。獲物を狙い定めたかの様に鋭くもどこか憂いを帯びた双眸は、悩ましげでとてつもなく凄艶だ。
齢二十二の最年少にして、誉れ高き騎士の頂である聖騎士隊長に就任した彼は、この国に住まう全女性憧れの騎士である。
「あぁ~。でもでも、一晩も待てません。せめて、夢の中でお会いできますように――」
アイヴィーは、何度も何度もおはようからおやすみまでの挨拶をしてきたルーカスの姿絵をひとしきり堪能すると、うっとりしながら灯りを消して固いベッドに潜り込んだ。
「――――グー。スピー。クウー。フガッ」
おやすみ三秒。枕で潰れた口の端からヨダレを垂らし、アイヴィーはスヤスヤと眠りについていた――
ぐっすり眠った翌日。賑わう街の商店街にアイヴィーの姿があった。
「るんたふんたる~ん♪」
ご機嫌に歌いながら大通りをスキップする彼女の腕には、小さな紙袋がしっかりと抱えられている。
ご近所さんの乳搾りや花の収穫なんかを日々お手伝いし、貰ったお駄賃をじっくり貯めて買ったのがこの包み!
“聖騎士隊長ルーカスの袋入りスペシャル姿絵”だ!
(くう~っ。早く中が見たい! でも、街中ではスペシャルだから開けられないし、もぉっどかしいなぁー)
販売前から袋に入れられ中身が見えなくなっている袋入りスペシャル姿絵は、正規品ではなくよろしくないルートで描かれた物。噂によると、少女には刺激が強く、マダムには垂涎ものの一品らしい。
正規品の姿絵を全種鑑賞用と保存用まで集めたアイヴィーは、とうとう今日、値段も十倍する袋入りを勇気を出して買ったのだ。
(私だって十六歳になるんだから、この扉を開けたってバチは当たらないはずよ!)
アイヴィーはあと三日で成人を迎えるが、推し事ばかりに人生をかけて生きてきたので、未だ働き口も決まっていない。
(騎士団が女性を雇ってくれたのなら、勉強も運動もきっと頑張れたよねー)
憧れのルーカス様のお側で働けたなら最高に幸せだが、この国の騎士団は男所帯。掃除から料理まで訓練の一貫として全て自分たちでこなす。
団舎と近い城勤めなんて、貴族の子女や裕福な平民の娘が箔をつけるための行儀見習いで働くため人気が高く、コネもない平民中の平民のアイヴィーが働ける場所ではない。
(せめて、魔法が使えたらよかったのになー)
ド平民の女子でも、魔法が使えれば騎士団と隣接する魔法師団に入団できる可能性はあった。でも、アイヴィーは基礎的な魔法すら扱えない素質なし。
正確に細かいことを言えば、針傷を治せるだけの治癒魔法は扱えた。だが、基礎魔法も扱えない者が、特殊枠の治癒魔法を唱えられるはずがないというのが大方の認識だった。
(ま、適性がなかったんだから仕方ないっか!)
親にお小言を言われてもなんのその。そんなこんなの言い訳をし、根気強く勉強をするわけでも就職先を探すわけでもなく、大好きなルーカス様グッズを集めるためのお小遣い稼ぎばかりをしてきたのだ。
今日もこのまま家に帰り、隅から隅までずずずいっと、袋に入った成人仕様のルーカスをじっくり堪能するつもりだったのだが――
「嬢ちゃん、早く逃げろ!!」
「おい、危ないぞ!?」
(はあ~。この中では、どんなルーカス様が私を待っているんだろう?)
「きゃあああ、やっぱりこっちに来たわよ!」
「へっ!?」
女性の甲高い叫び声に気づき、やっとアイヴィーが後ろを振り返った時には、眼前に大きな馬の蹄が迫っていた。
時既に遅く、そのまま馬に蹴りあげられアイヴィーはヒラリと宙を舞ったが、大切なルーカス様が入った袋はしっかり握りって離さない!
(これ死んだわ!)
固い石畳の道に全身を打ち付け、意識を手離しそうになった。が!
(無理! 大人なルーカス様を見なきゃ死ねない!)
血塗れになりながらモゾモゾ動く少女に、さらに大きな悲鳴があがるが、最早アイヴィーの耳には届かない。
(どうせ死ぬなら恥はかき捨てよ!)
最期の力を振り絞って死守していた袋を破き、死ぬ前にアイヴィーは大人の扉を開いた――
「はうっ! ルーカス様、尊い……」
訓練後の様子を盗み書きしたらしく、動かしたばかりの躍動する筋肉が浮き出る上半身が全て露になっていた。光る汗を纏わせ、水筒から水を飲んでいる瞬間を切り取ったスペシャルな姿絵。
口の端から滴る水が太い首筋をつたうのも見事に描写されており、たいへん扇情的だ。大きな喉仏がゴクリと上下に動くのが見えそうなほどの写実画で、今まで集めた姿絵の中でも最高の品だった。
(はふう~。私だけの特別なルーカス様に会えた……。――もう、思い残すことはないわ……)
思いの外体は軽いし温かくて、痛みは感じない。お迎えが来る最期の最期とはこういう感覚なのかと思い、アイヴィーは幸福な思考のまま瞳を瞑ろうとした。
「きっ、騎士様こちらですっ!」
アイヴィーの周囲に人だかりができているが、当の本人はいろんな意味で天に召されそうになっていて気づかない。
(ルーカス様の鎖骨どころか、色々見ちゃったわー)
「嬢ちゃん、しっかりしろ!」
「あんた……、大丈夫か? って、やっぱ笑ってるよな……」
(うるさいなぁ。――ん? 騎士様?)
うっすらと目を開けると、数名の騎士に囲まれていた。その中で、一際輝く真っ白な外套に、銀糸の刺繍が施された聖騎士の隊服を纏った人物に瞳が釘付けになる。
「あぁ、ルーカス様……。とうとう私は召されて天国にたどり着いたんだ。やっぱりルーカス様が、私の神様だったのね……」
「……アホな事を言ってんな。おい、治癒師。とっくに身体は癒えている。さっさと起きろ!」
憧れのルーカスに見詰められながら肩を揺さぶられ、ピタピタと頬を叩かれる。
「ひゃん。ルーカス様もっと――」
その感覚をもっと噛みしめたいと、アイヴィーは覚醒した。
まるで、化け物でも見たかの様な形相をしたルーカスが後ずさる。
「うっ……。大丈夫なら、まずその絵をどうにかしろ……」
「へ!? あれ? 私生きてる?」
「生きてるから、俺の半裸の絵を仕舞え……」
「ひいいいいっ!」
フワフワしていた脳味噌が一気にキビキビ働き出す。運良く死なずに済んだみたいだが、騒ぎに駆けつけた騎士の中に本物のルーカスがいたらしい。
(ご本人に、正規品ではない大人の姿絵を買ったことがバレてしまった……)
「チッ……。こんな物まで出回るとは……」
「……」
(なんて辱しめなの……。死んでた方がマシだったかも……。でも、こんな近くにいらっしゃるルーカス様をまだ見詰めていたい……。でもでも、絶対破廉恥な女だと思われたはず……。でもでもでも――)
「ルーカスさん、やっぱりなんかこの人フラフラしてますよ? 目も飛んじゃってますし、医務室に運んだ方が?」
(って、さっき肩とほっぺを触られた~! 生ルーカス様とせっ・しょ・く――)
推しの聖騎士隊長ルーカスに触れられた喜びと、ご本人にいかがわしいグッズを持っているのがバレた羞恥心で頭がグルグルする。
――ガクン――
「気を失ったか……。――仕方ない、医務室へ運べ」
「ういっす」
ウブな乙女の思考回路は完全停止し、アイヴィーは意識を手放した――