君だけは忘れたくなかった
君だけは忘れたくなかった
朝の電車っていうのはだいたい混んでる。僕もそんな荒波に晒されながら学校には行かなきゃならない。
だいたい始業10分前、引き戸の教室へ入る。高三にもなると、朝から勉学に励んでいる子がいるからか妙に静かに生徒が佇んでいる。まぁ受験なんて僕には全くと言っていいほど関係の無い話なんだけど。
「おはよう」
隣の席の子が話しかけてきた。彼女はいつも僕を気にかけてくれている。クラスで除け者になっているやつのことなんか気にするなんて彼女はよっぽどお人好しかそれとも……。言葉が出てこなかった。
授業中も僕は退屈だった。だって内容が理解できないんだもの。イタリア王国成立の1861年と同じ年にロシアでは何がありましたか?なんて聞かれても、まずイタリアってなんだ?ってなるのがオチだった。
そんな僕でも唯一受けれたのが国語だった。話を読むのは凄く楽しくて夢中で読み進めてしまう。先生に何度か違う場所を読んでいて怒られたが、そんなことは気にしなかった。
僕の無知さと、こういう出来事も相まって最初は好意的だったクラスの人たちも心配から嫌悪へと表情を変えて離れていった。
それが自分にとっては別になんとも無かったのだが、妙に心の奥がなにかに刺されたように苦しかった。
放課後、隣の彼女が再び声を掛けてきた。その不安とも安堵とも言えない顔が、僕の心をもやもやさせる。
「今日は、病院に行かなきゃならないんだ」
ファイルにそんな紙が挟んであったので自然と話を終わらせて席を立つ。彼女が後ろで「またね」と言っているのが聞こえたけれどどうしてか今の自分は返事をしちゃいけない気がした。
校門をすぐ出た所で母は校舎の塀に寄りかかっていた。
「おかえり。じゃあ行こうか」
住宅がひしめく道を突き進み、暫くすると大通りへ出る。車の中ではやたらとアップテンポで知らない言語の曲が流れている。隣の母を見ると少しだけ神妙な顔つきで、どうにもこの曲が何かを聞くなんてできなかった。
市立病院の駐車場に車を停めて中に入る。顔パスを使っているかのようにスムーズに受付が終わって診察室へ招かれる。よく見る他人が白衣を着て座っていた。
「今日は、私のことを覚えているみたいですね」
メガネをかけた30手前の優しそうな男は温厚な笑顔をこちらに向ける。
風邪を引いた時のような検査、その他機械を使った検査を何個か受けて僕だけが待合室に向かわされた。母は診察室で担当医と話があるらしい。
待合室にポツンと1人残された僕は壁に貼ってあるポスターをただボーッと眺めている。
自分でも自覚していないわけではなくて、思い出すことが出来なくなっているのは分かっていた。
暫くして帰ってきた母は僕を見ると酷く悲しそうな顔をしたが、それを誤魔化すように笑ってみせて
「大丈夫。きっと良くなるから」
何度目になるか分からないその言葉は、今となってはただただ僕の気持ちを不安にさせる。
「うん」
それだけを言って母とは目を合わせない。帰り道、夕日の空を眺めているとなんていうこともない綺麗な景色なのにも関わらず、深く悲しみを覚えた。
結局その日はそれ以上の言葉を交わすことなく終わる。だが、タダでは一日は終われない。
目を瞑ってしまうと、何もかも忘れてしまうような感覚に陥っていく。明日は必ず訪れるのにそれがやってこないかもしれないと底知れない不安が襲ってくるのだ。
「はっ、はっ、はっ!!」
こうやって寝ている最中に突然目を覚ますこともよくあること。