7 夫婦喧嘩
何が起こったかと、大成は慌てて玄関の扉を開けた。外廊下に出て階下を見下ろすと、銀嶺荘の横の広い駐車場に、茶色い扉が転がっている。
扉が転がっている?
「お兄さん、あんまり顔を出すと危ないですよ!」
後ろから孝に服を引っ張られたが、大成はそれを気にするどころじゃなかった。駐車場に転がった扉がガタンとひっくり返り、その下から男がのっそりと立ち上がったのだ。
そこへすかさず銀嶺荘側からなにやら白く大きなボールのようなものが飛んできて、男の頭にぱこーんと命中した。衝撃で、折角立ち上がった男はまた地面に尻餅をつく。
跳ね返って転がったボールのようなものをよく見れば、炊飯器だった。
「た、頼む、さとこ! 俺が悪かった! 今回は俺が悪かった!」
「こ、ん、か、い、はぁ〜!?」
尻餅をついたまま情けなく叫ぶ男に対し、銀嶺荘から低い女性の声が響いた。階下なので見えないが、ちょうど一階の端、一〇五号室の辺りだろうか。
「私が悪かったことなんて、一回だって無いわよ!」
叫ぶような声とともに、今度は黒く平たいものが駐車場へ飛ぶ。脚がついている。テーブルのようだ。男は飛んできたテーブルを、今度はぶつかることなく受け止めた。
「な、なに言ってるんだ! こないだお前、料理に塩と間違えて砂糖入れただろ! あれは俺のせいじゃないぞ!」
「そんなときも優しく気付かない振りをしてくれるのが、優しい旦那ってもんでしょお!」
おたま、菜箸、皮むき、まな板、しゃもじ。次々飛んでくる台所用品を、男は手に持ったテーブルを盾にして防いだ。
「待て、さとこ! 話し合おう!」
「うるさいわね! 話し合う余地なんてないわ! お味噌汁の具の切り方が悪いだなんて、食べておいて文句言うんだから!」
「事実だろ! ネギが全部繋がってたぞ!」
男の言葉にかぶせるように包丁が飛んできて、さくりとテーブルに突き刺さった。
それを見た男の表情が、一瞬で般若のように変化した。
「お、お前、ふざけるなよ! 包丁は危ねえだろっ!?」
男は持っていたテーブルを大きく振り上げると、そのまま銀嶺荘に向けて投げつけた。包丁が刺さったままのテーブルが、一階の部屋に向けて飛んでいく。
ばこんっと大きな破壊音が響くと同時に、建物がやや振動した。大成のいるところからだと、テーブルがどこにぶつかったかは見えない。
「ちょっとあなた! ご近所迷惑でしょう! そこは沢野さんの家の壁よ!」
「元はと言えばお前がテーブルを投げたからだろ!」
仕返し、とばかりに男は手近に落ちていた炊飯器を投げる。おたまに菜箸に皮むきにまな板。自分の投げつけられた物を部屋に返すように投げつけた。その都度「ばんっ」とか「ごんっ」とか「がんっ」とか「ぎんっ」とか、なかなか街中では耳にすることのない衝突音が響く。人に当たった音ではないように思われるので、女性はうまく避けているか、物陰にでも隠れているのだろう。
男が最後に、足元に転がったしゃもじを手に取って投げようと振りかぶったとき、一階の別の部屋から、割れんばかりの大声が響いた。
「いい加減にしてください!!!」
大成のちょうど真下からの声だった。
その声に驚いたのだろう。しゃもじを投げようとしていた男は体をびくっと硬直させた。しかし投げる動作は止められない。
男の手を離れたしゃもじは、あらぬ方向へ飛んでいく。
そして、二階から呆然と眺めていた大成の額に、すこーんと小気味良い音をたてて突き刺さった。
「も、申し訳ない! ごめんなさい! すみませんでしたっ!」
男は大成の前で、正真正銘の土下座のポーズを取っていた。
場所は大成の家。ちゃぶ台を挟んで、大成と男は向かい合っていた。それを横から大家の山田、藤田(母)、そして孝と敦が正座して見守っている。
狭い部屋のことで、六人も入るとどうにも窮屈だ。この一家は本当に、同じ間取りで四人暮らしをしているのだろうか。時々あんなに派手な喧嘩までして。
「もういいです。頭を上げてください」
大成は額に右手を当てたまま、ため息混じりに言った。狙って投げられたわけでないだけマシなのだろうが、それでも鋭い一投だった。普通ならこぶか痣かができそうな痛みを額に感じだが、果たして、手のひらの下に隠れた額は今どうなっているのだろうか。
「あ、あの、大成さん。大丈夫ですか? せめて冷やすとか、手当てを」
「そんなに大したことはないですよ。赤くなってたら恥ずかしいから隠しているだけで」
藤田(母)のおどおどとした申し出を、大成はやんわりと拒絶する。どうしたらこの大人しそうな女性から、先刻のような低い声が出てくるのだろうか。
「……まあ、気にしないでください。でも、あんまり頻繁にさっきみたいな喧嘩をされたら困りますよ。子供たちもいるでしょう?」
「「はい……」」
返事は藤田(父)と藤田(母)の両方から聞かれた。お互い既に頭も冷めたようで、いがみ合う様子もない。子供たちも、安心した様子で母親の両脇にぴったりとくっついていた。
一方で憤然とした様子を崩さないのは、この場に同席した山田だ。
「まったく、藤田さん。いつも言っているでしょう。喧嘩はほどほどにって……修理代いただいているとはいえ、修理屋さんの手配するのは私なんですよ」
「「はい、ごめんなさい」」
大成の許しを得てやや雰囲気の緩んでいた夫妻が、再びきゅっと縮こまる。
その後しばらく、山田から藤田夫妻への説教が続くことになった。
長々と続いた山田のお説教が終わると、藤田一家と山田はようやく部屋から出て行った。
帰り際に、山田は大成にむけて謝罪した。
「すみませんでした。先にお伝えしておくべきでしたね……まさか、新たに引っ越してきた人がいる目の前で、すぐに夫婦喧嘩を始めるとは思っていなかったもので」
はあ、と大成は曖昧な答えしか返せなかった。いくら事前に伝えられていたとしても「夫婦喧嘩」がこんなにスケールの大きいものだとは、想像もできていなかっただろう。
というか、いったい何だったんだろう、あれは。大成は頭を抱えたくなった。百歩譲っておたまや菜箸、しゃもじくらいならいい。なぜテーブルや炊飯器まで飛ぶのだろうか。
ともあれ五人が帰ったことで、大成にはいつもの時間が戻ってきた。改めて鍋の準備を始める気力も無く、夕食はカップラーメンにしようと心に決める。
ふと大成は、五人が帰ったのにまだ額を手で押さえたままだったことに気がついた。
手を外し、念のため洗面所の鏡に顔を近づけて、額を確認する。いつもどおり白く滑らかな額には、痣もこぶも、腫れもなかった。