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彼女の旅路~Load of memories  作者: きのじ
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第六十四話 『お菊さん』

第六十四話『お菊さん』


 古い城壁の国『アルトヘイム』。

 かつても今も魔王の膝元である西側大陸に存在する人間の国にして、10大神の1柱であるエアリス神が創りあげた国。

 長く続く魔王との戦争は現在は小康状態とはいえ、経済には浅からぬダメージを与えている。

 現状の手入れされていない石畳を見ればおのずと分かる程度には限界が見えてきている。

 そんなことをいざ知らずとでも言わんばかりに、二人の少女が石畳を踏みしめて行く。

 薄い桃色の髪に、大陸では余り見掛けない着物の少女、菊。

 そして、赤い髪の少年のように起伏のない冒険者…カホだ。

 菊に連れられたカホは顔を顰めながらも、速足で先を行く菊の後を追っていく。

 その腰には、彼女と共に旅をしてきた剣は下げられているが、鎧も纏わぬ姿はおおよそ仕事へと行く恰好ではなかった。


 アルトヘイムの街中を歩いていく。

 もう歩きなれた道…それでも、私、カホは少しだけ不安だった。

 いつもは付けている師匠から貰った鎧も、ゴブリンから奪った小手や具足も付けていない。

 おまけに、ズボンも短い物で、おおよそ仕事をする為の恰好じゃない。

 一応、腰に剣は下げてはいるけれど、ゲームでいう防御力という物は今は皆無だ。

 布一枚あるのと無いのとでは雲泥の差…というのは、ここまで旅してきて学んだこと。

 転んで擦り剥くのを防いでくれるし、汗を吸った布はゴブリンの持つ粗鉄のナイフの刃くらいなら刃をブレさせてくれる。

 刃がブレれば力が外へと逃げてくれる。それで深く斬られなかったことも経験として体が覚えている。

(おしゃれなんてするんじゃなかった…)

 そう思うと今日に限って精一杯いい恰好をした自分を責めたくなり、さらに普段の小汚いと揶揄される麻服のありがたさが身に染みる。

 普段着としても着られるし、仕事へ行くにも適している。

 案外…私にとって一番合う装備なのかもしれない。

 それに多分…神様らしき存在から貰った物だから、もしかしたらあの小汚い麻服はゲームで言う伝説の防具かもしれない。

 まぁ、例え伝説の防具であったとしても、ゴブリンからの攻撃や、転んで擦り剥いたりを繰り返した結果、ツギハギだらけで縫ってないところがない程にボロボロだし、その辺で似たような物はいくらでもあるけど。

「おーい!菊…さん!カホ!」

 不意に私達を呼ぶ声がした。

 声は私達が来た方向からした為、振り返ると…私よりは年上だけど比較的年若い『青き風』の冒険者の人がいた。

 短い黒髪。溌溂した表情と、少し馬面な彼の名前は…正直まだ知らない。

 ただ、同じ団員なのと、先日私に謎理論でキスを迫ってきた…変な人ということは知ってる。

 あとは、マイさんと歩いていると、しょっちゅう壁に頭を打ち付けているヤバい人…ということも。

 多分、マイさんに気があるんだとは思うけど、あからさまにそんなヤバい行動をしていたら、さすがのマイさんでも…引いてた。

 ドン引きしていたので、今度それとなく注意という名の助言をしてあげたい。

 どうやら走ってきたみたいで、何か問題でもあったのかな、と思っていると彼は少しだけバツが悪そうに一度菊さんを見てから、私に向かって。

「カホ。依頼の件だけど、街の北側にある酒場で待機しておいてくれってさ。護衛任務だし、先方の都合が付くかも分からねぇから」

 彼の言葉に私は思わず、あぁ、言葉を漏らす。

 ウェンディさんの護衛依頼ばかり受けていた所為か、こちらの都合を優先するような行動をしていた。依頼人が依頼を出している訳だから先方に合わせるのは当然だ。

 お互いに時間指定している訳でもない。

 そう考えると、インターネット技術というのがいかに便利かよく分かる。電信の設備すらないこの世界だとより如実に。

 菊さんもそれは理解しているらしく、俯き頷いている様子であった。

 かなり落ち込んでいるように見えるので、余程借金のことを気にかけているのだと思う。

「依頼人から仕事の延期とか言われたら、別の依頼をしても大丈夫かな?」

 私が、私にキスしようとした同じ団員に尋ねると、彼は「その日仕事なら問題ないだろ?」と私の意図を汲み取ってくれた答えをしてくれた。

 何だかんだでいい人ではあると思う。名前も知らないし、未だに私に何故キスしようとしたのか分からないけれど少なくとも好意からではないのは分かる。

 「ありがとうございます」と私がお礼を言うと、私にキスしようとした団員は、何故かチラチラ菊さんに目線を泳がせている。

 私もその視線に釣られて菊さんを見てみる。

 余り気にしてなかったけど、菊さんは東洋人…特に私と同じくニホン人に似た顔をしている。丸くて小顔。低い鼻。目じりが下がり気味な瞳。

 こちらに来てから西洋系の顔立ちの人とばかり合う所為か、菊さんは幼い顔立ちに見える。

 最も、自分が同じような顔つきをしているとは思えない。

 正直なところ、菊さんは同じ女性として見ても整った顔立ちだとは思う。

 最も、自分の顔ですら鏡で余り見ないから、そんな女子力が欠如した私が下した裁定には何の意味もないのだけど。

 それでも、鏡や水面に映る自分の顔が”可愛くないし美人でもない”ことは分かってるし、広く一般的に言って”ブスである”という自覚はある。その上で菊さんの顔立ちは整った、カワイイとカッコいいが両立しているとは思う。

 私にキスしようとした同じ団員が気になるのも仕方ないと思う。

「私の時みたいにキスしようとしたらダメですよ。菊さんは結婚してるんですし」

 私が口を尖らせると、私にキスしようとした団員は目を丸くし、そのまま気まずそうに菊さんから目線を外した。

 私の言葉に…彼は困ったような笑顔を浮かべ、照れたように頬を搔き始めた。心なしか、焦っているような、戸惑っているようにも見える。

 問題は…

「は?」と一言…地獄の底から響くような、恐ろしい声が菊さんから発せられたことだ。

 その声が聞こえたと思うと同時位に「不埒者!」と菊さんの強い言葉彼を刺した。

 菊さんの強い語気に私は一歩身を引いてしまう。

 私にキスしようとした同じ団員の彼も、一歩引いていた。

 菊さんは明らかに激昂した様子で彼を見据えている。

 不意に思いついたのは…菊さんの旦那さんは彼だったのでは?ということだった。

 そう思うと、菊さんからすれば不倫されたのと同じ…そう捉えられても仕方ない気がする。

 そうなると、彼が『イサム』様なのかもしれない。

 言われてみると、黒髪で、何処か東洋人っぽい顔つきに見えなくもない気がしないでもない。

 鼻は高いし、目元もくっきりしているから…ハーフという可能性も考えられる。

 そんなことを思う位には、自分の軽率な言動に私は現実逃避をしていた。

 よくよく考えたらそんなことはないとは分かる。でなければマイさんと会うたびに壁に頭を打ち付けるなんていう奇行はなしないと思う。

 彼は慌てた様子で。

「いやいやいや!してない!してない!未遂だよ!それに、俺がカホにキスしようとした理由はちゃんとあってだな!」

 彼がまるで、不倫していた言い訳を付き合っている彼女にするように言い出した。

 菊さんは軽蔑と怒りを込めた瞳で彼を睨み、

「では!どんな理由があって、嫌がる女子から無理矢理唇を奪おうとしたのか、説明して下さい!」

 周りからは痴話喧嘩に見られるかもしれない…と私は思った。

 それだけ、菊さんの語気は強い。ただ、補足しておくと…嫌がるとか…無理矢理とかはちょっと言葉としては強すぎる気がする。事実はそうだけど、口に出す言葉としては不適切かもしれない。

 私に無理矢理キスしようとした同じ団員も声を荒げ、

「いやいや、要約して説明するとだな!」

 そう切り出し、

「俺はカホにキスしようとしたが、カホにキスしたかった訳じゃない!」

 …そう意味不明な説明をし始めた。

 私の瞳に宇宙が広がった。

 夜空かもしれない。

 一体、何を言っているのか当事者の私でも訳が分からなかった。

 彼にもそうであって欲しいとさえ思った。

 菊さんも同じだったのか「はい?」と聞き返し、その言葉に彼は「何で分からねぇんだ!?」とさらに語気を強めた。

 逆にそれで分かる方が難しいと思う上に、先ほど私が切に願った”彼もそうであって欲しい”というのは叶わぬ願いであったようだ。

 少し彼の事が怖くなった。

 少なくとも私から彼への評価は、別に悪い人じゃない、から変人へとランクアップした。

 嫌がる私に無理矢理キスを迫った変人は、頭を掻き「つまりだ」と頭に…。

「いいか。俺はカホとキスしたいんじゃなくて、カサリア様から祝福を貰えるかもしれないから仕方なかったんだ。つまり、カホとキスすることはカサリア様とキスしたと同じだけの祝福を受け取れる訳で、したがって別に俺はカホとキスしたい訳じゃなく、俺の女神様である大いなるカサリア様とキスしたはずのカホだから、俺はカホからカサリア様の祝福が欲しくてキスしようとしたんだ」

 彼はそう言い切った。言い切ってしまった。

 …えっと?

 私は言葉を飲み込んだ。いや、出したはずなのに、声が出なかった。

 震えている…死の恐怖ではない怖いってこういうことなんだと分かった。

「は…?」と菊さんからは絞り出た答えもその一言だけだった。

 多分、菊さんの目にも宇宙が広がっていると思う。

 それは夜空かもしれない。

「なんで分からないんだ!?俺はカサリア様とキスしたい!だが、カホはキスしたはずだから!俺はカホとキスしたかったのではなくて、その祝福を受けたくてカホに対してではなく、カサリア様からのキスが欲しかったんだ!」

 異常者の団員がさらに語気を強くして説明してくれたけれど、もはや主語も述語も頭に入って来ない。

 取り合えず分かったのは、私に気はない…ということと、彼は異常者というだけ。

「ごめん。理屈が分からない」と私は素直に謝り、さっさと話を切り上げようとし。

「すみません…訳が分かりません」と菊さんも諦めた様子で語気を弱め一歩引いた。

「ちゃんと理解してくれよ!俺はな…!」と彼がさらに続けたものの…結局、何一つ分からなかった。

 理屈も理由も彼の言っている意味も論理も…全てが分からない。

 人間なのに人間と話している感じがしない。超宇宙的な恐怖と言えばいいのかもしれない。

 暫く彼の訳の分からない、常人では辿り着けないであろう論理を聞かされていたものの、

「えっと…私にキスしたかった訳じゃないんだよね?」

 そう私が彼に諦めの果てに伝えると「そういうことだ!」と彼が納得したので、ようやく安堵出来た。

 そのまま「じゃあ、そういうことで」と彼から逃げようとしたものの、「おぃ、ちょっと待てよ!」と彼は回り込んできた。

 どうやら彼からは逃げられないらしい。

 私が元いた世界でも変質者は怖い人達だと思ってた。

 学校の帰り道に遭遇して、いきなりコートの前を開いて見せつけてきて…

 「あ、ごめんね。間違えた」とすごすご帰っていかれた時は、恐怖よりも惨めさを感じ、悔しかったのを覚えている。多分私がジャージ姿だったからだとは思う。

 間違えは、あんた自身だよ!と、怒鳴りつけたのも…今では懐かしい。

 つまり…今の彼はそういった人種に見えてくる。何故、もっと早く気付けなかったのか不思議なくらいには彼はHENTAIだ。

 変態の団員が、私に一歩、歩み寄ると不意に菊さんが私より前へと出た。

 後ろ姿だけれど、怒っているのは分かる。それだけ肩に力が入り、足を一歩後ろに引きながらも重心は前へ残している。

 袴で見えないけれど、前に出た足の膝を軽く曲げいつでも飛び込めるような体勢だとは分かる。

 菊さんは上半身は右肩を前にし、腰も左に切っている。そこから繰り出される一撃というのはきっと『抜き』なんだと思う。

 時代劇位でしか見たことはないけど、その特徴は何となく分かる。

 逆手持ちのように、一瞬をさらに縮める為の剣技。

 納刀しているという、本来なら足枷になる状態を、距離を計らせないという特性へと昇華させると共に、間合いに一瞬で飛び込み斬り払う…そういう剣技。

 …菊さんも『青き風』の団員なんだよね?とは思わないでもないけれど、変態から私を守ろうとしてくれているのは十分に伝わった。

 変質者の団員は菊さんの構えに対して困ったように頭を掻きながら。

「お前ら酒場の場所知らないだろ?」といつもの彼らしい、少しぶっきらぼうながらも優しい声色で尋ねてきた。

 私と菊さんはというと、「あ」と同時に声を上げ、お互い目を見合わせることしか出来ない。

 そんな私達を彼は呆れるような笑顔で返し、

「お前ら遊びとかしなさそうだもんな」

 そう言いながら彼は先を歩き始めた。

 彼は変な人な変態ではあるけれど、やっぱり”いい人”というのは間違っていないんだと思う。

 先輩として心配もしてくれていると思うし、それも伝わる。

 そういう意味でもさっきのやり取りは彼なりの優しさから、私達の肩の力を抜く為にワザとしてくれたかもしれない。

 ワザとにしては少し怖かったから、そこは今度抗議しようとは思うけれど。



 私と菊さんが彼に連れられ、酒場への道を行く。

 道中、彼は菊さんに「ちゃんと飯食ってるか?」と小言のように告げ、菊さんは苦々しい表情で「あなたに関係あるのですか?」と少し攻撃的な口調で返していた。

 菊さんは片意地張ってるだけだとは思う。その半面彼はただ優しさから言っているのが何とも対照的に感じる。

 ふと思ったのは、彼と菊さんはまるで、兄と妹のようだということ。

 真面目で不器用な妹と、奔放でおちゃらけた変態の兄。

 二人の性質が水と油な所為か上手くいってないのは分かる。でも、周りからすると…

「私が食べてないとあなたにとって何か困るのですか?」

 そう菊さんが声を荒げると、彼は困ったように眉を顰めたものの、軽い口調で。

「一人前は体調管理もするだろ?」

 簡単に返してしまう。

 その一言はその通りだと思う。言い方はあるとは思うけれど、少なくとも菊さんには効果覿面だったみたいで、菊さんは言葉に詰まっていた。

「ぐっ!だったら、何だと言うんです!」と言い訳がましく菊さんが言い返しても、彼はヘラヘラとした表情のまま。

「一人前は半人前の面倒を見てやるもんだよ」

「んな!だ、誰が半人前ですって!?」

 彼のデリカシーのない正論に菊さんは顔を真っ赤にするものの、多分彼自身、菊さんが怒っている理由が理解出来ていないのか「え?話聞いてなかった?」と喧嘩を売るような返答をしていた。

「ぐぬぬ!あ、あなたのような!尻軽そうな男の話等聞きたくありません!詭弁です!」

「悪かったて。意地張んなよ。ほら、奢ってやるから…」

 菊さんがムキになり始めると、彼は今更のように懐柔を始めたがプライドの高いであろう菊さんはそっぽを向いてしまい。

「結構です!軽い男はお断りしています!」

 ぷいっと彼から視線を逸らす。

 菊さんの態度と言葉に彼は少しだけ悲しそうに表情を曇らせながらも「でもよ…」と言いながら…

 二人して壁にぶつかった。

「いっでぇ!」

「いったー!」

 …少し楽しそうに見える。

 通りすがりの薄手のワイシャツ、長ズボン、そしてベレー帽のような帽子を被った、小脇に皮製であろう鞄を抱えた壮年の男性もクスリと二人を笑い通り過ぎて行く。

 二人に夢中で注意出来なかった自分に罪悪感は感じるけれど、謝る暇もなく二人が言い合いを始めてしまったので私は出来るだけ空気になることに徹した。

 酒場に到着したのはそれからほんの少しした後。

 酒場はアルトヘイム城に近い場所にあり、すぐ脇にはアルトヘイムのもう一つの冒険者ギルド『金の翼』もある立地だった。

 ここまで来る途中にも思ったものの、北側は規格的に整備が行き届いており、街行く人々もしっかりとした服装…と表現すると私の頭の悪さを露呈させるのだけど、この言葉が一番しっくりくる位には経済状態がいいように感じた。

 酒場も『青き翼』の中にある、よく見る木造の酒場ではなく、石壁に大理石のような光沢のある石で彩られた立派な建築物だった。

 酒場に到着すると彼は「んじゃ。後は待ってろ」と少し不機嫌そうに言い残し、酒場のカウンターの方へと行き、何かの書面を酒場のマスターであろう中年の男性に渡していた。

 酒場のマスターが一度私と菊さんへ視線を送り、頷くと奥へと姿を消した。

 私がその姿を見ていた所為か、同じ団の彼は私と目が合い人懐っこい笑顔を浮かべ片手を上げてそのまま去って行った。

 彼が出て行ってから、少しご機嫌斜めな菊さんに視線を移す。

 菊さんは先ほど壁にぶつけた額を押さえながら「本当に、何なんですかあの人」と憮然とした様子だった。

「あの人なりに気にかけてくれてるんじゃないかな?」

 私が宥めるように伝えると菊さんは頬を膨らませ「それでもです」と怒りは収まらない雰囲気だった。

 菊さんは語気を強めたまま、

「第一、殿方が節操なく婦女子に軽率に声を掛けるなど恥を知るべきです!」

 そう私に同意を求めて来る。確かに菊さん視点だとそういう捉え方をされて然るべきだとは思う。いきなり来て、菊さんにちょっかいを掛けて来る変人、または変態…多分変態。

 あの人は変態だから、そう見られても仕方ないとは思う。

 ただ、傍から見てる限りでは彼は…多分菊さんを異性の女としては見ていないと思う。

 手のかかる後輩に手を差し伸べたい先輩で、たまたま相手が女だっただけ…そういった感じに思えた。

 デリカシーがないと言えばそうだし、現代社会でいうならセクハラに当たるのだとは思う。ただ、不器用な彼なりに本当に菊さんを慮っていたんだとも思う。

「多分、菊さんのこと心配してるんじゃ…」と私がフォローを入れるも、

「色目ですか!?私にはイサム様がいるのです!それを知って…あの恥知らずめ!今度遭ったら酷い目に合わせてやります!」

 と取り合ってくれない。

 それでも、話している間、菊さんは生き生きとしている。

 楽しそう―そうも見える。

 初めて会った時…正直菊さんの印象は怖かったと。

 思いつめた表情が何かを想起させる程、その瞳は暗く、黒く、昏く…まるで、死守の秘蹟で剣を結んだスケルトン、カレルさんのように何も映していないとすら感じた。

 瞳はあるのに、まるで惚けて何も映さない暗闇。

 その目が怖かった…。だから、怖気づいてしまい、ヴォルフさんが取りなしてくれるまで碌に話すことも出来なかった。

 正直、同じ団の彼と菊さんが話している姿を見て、菊さんがそこまで怖い人でもないとも分かることも出来た。

 この仕事が終わればお礼を伝えたいと今は…名前も知らない彼には思っている。

 肩の荷が降りたのは、私もだ。

 私と菊さんが向かい合って…殆ど一方的に菊さんからの愚痴を私が聞いていると、不意に机にコップが置かれた。

 私は目を丸くしてしまい、菊さんはというと瞬時にコップを置いた手の持ち主の方へと視線を走らせた。

 驚き動けなかった私とは対照的に、菊さんは重心を変え腰を引き、いつでも迎撃出来る…そういった体勢だったけれど、今回ばかりは私の方が正解だったようだ。

 机にコップを置いたのは、若い太った給仕らしき男性だった。

 給仕らしき男性は、「お待たせしました」と言いながら、机に皿を並べ、盆に乗せていたであろうパンとスープ、肉料理とサラダを並べた。

 一通り食事が並べられると給仕の男性は一礼をし、下がっていく。

 さすがの菊さんでも呆気に取られたのか、それとも菊さんのお腹から鳴る虫の声の所為かすぐには反応出来なかったようだった。

 給仕の人が数歩歩いて離れたところでようやく菊さんが声を上げ「あの!頼んでいません!」と間違いであると告げた。

 その言葉に給仕の男性は、体型に似合わずスマートな立ち振る舞いで振り返ると共に、にこやかに。

「えぇ。存じております。こちらは依頼料に含まれたものですので、どうぞごゆっくり」

 その言葉と共に踵を返し、去っていく。

 あまりのスマートさに、菊さんですら言葉が返せず、少しすると机に並べられた料理に視線を落とした。

 私はというと、終始置いてけぼりで、こんな制度あるんだ、とポカンとすることしか出来なかった。

 私と菊さんは並べられた料理に視線を落とす。

 並べられた料理の香りが鼻腔を突く。

 普段食べている料理が美味しくない…ということは決してない。

 メニューとしても殆ど変わらない。

 それでも、並べられた料理一つ一つを取ってみても、そのクオリティの高さは見ただけで分かる程。

 いつも食べるパンは表面がザラザラした質感があるもので、食べ応えとしては、ふわふわというよりしっとりか、ボソボソとしている。

 並べられたパンは私が元いた世界の物に似ている、表面にテカリがあり、明らかにふんわりとした丸い形だ。

 スープもこちらではごった煮のような物が主流だとばかり思っていたくらいには、白濁したものか、または具が少ない水のような無色系統のものしかないと思っていた。

 しかし、今出されたスープは黄金色というに相応しく、具も肉に豆類、ハーブに人参のような色をした根菜らしきもので、見た目も楽しめる上に香りもコンソメスープに似た、食欲を刺激される芳醇な香りが漂っている。

 メインディッシュであろう肉料理も、屋台等では見掛ける厚切りのお肉よりもしっかりとしたボリュームあるお肉だ。その表面はしっかりと焼かれているのに、断面は赤身であり黄金色にも輝く肉汁と濃いソースが肉を引き立たせ光を反射しているとさえ思わせる。

 こちらでは香辛料が高い所為か、屋台等では薄味で大きめのお肉が売り出され、逆にお店では味を良く思わせる為に薄切りの肉料理が普通だ。

 なので、この肉料理一つだけでも圧倒される衝撃を受けた。

 最後にサラダだけど、サラダと言えば…そう思いつく物が出てきたことに感動した。

 アルトヘイムでサラダ…というのは、基本的に酢漬けの葉っぱで、黄色っぽいものがサラダだった。

 良くても酢漬けの葉っぱに、採れたてのほうれん草のような形の野菜と、何かは分からない白い根菜が刻まれて入っているも程度が主流だ。

 生野菜自体は手に入っても、それを新鮮なまま提供を売りにする店は少ないだろうし、そもそも物価の高騰でそれどころじゃないからか、どうしてもメインディッシュ以外は保存食になってしまうのだと思う。

 この店で出てきたサラダは青々とした、まさしくサラダで、アルトヘイムのサラダは黄色系統…という固定観念を見事に破壊してくれる程のものだった。

(お腹減った…)

 ―と自然とそう思える。

 涎を飲むという行為を意識的に押さえないといけない程だった。

 それでも私以上に菊さんのお腹は正直で、料理が並び始めた頃には小さな不平を漏らし始め、今は菊さんが必死に押さえているのに不平の大合唱を始めている。

 刻一刻…刻一刻と時は過ぎる。

 時がいくら過ぎようとも、食事は逃げない。物はここに在る。

 しかして、時が過ぎる都度に温かさ逃げ、香りは薄れ、ご馳走の味は遠くなり、彼方への望郷を望むが如く最高という時は遥か彼方へと離れ行く。

 刻一刻…人とは…この一刻を逃せば、二度と手に入らぬ物がある…。

 最高の一食は常に…過ぎ行くもの!

 考えが巡り、思わず息を飲む。

 余りのご馳走に、変な思考回路になっていた自分を責めることすら出来ない。

 決して今まで食べてきた料理が悪いとかじゃなく、借金が出来てからは特に粗食も粗食を食べてきた。

 マイさんに誘われた食事処でも一番安いセットを頼んだり、酷い時はリザードマンの過食部位をマイさんとリディちゃんの前で焼いて食べて…ドン引かれたりしていた。

 もっと酷い時はロイ君達と受けた仕事先で…ヴィーニャちゃんに教えて貰って…食べれると知った…摂れたて新鮮なメイトワームを調理して食べていた…。

 三人に隠れて…原型がなくなるまで、大きいクワガタムシのような顎のあるカブトムシとアゲハ蝶の幼虫を足して二で割ったような…幼虫にしか見えない…食べたくもないグロテスクな生き物を…。

 何度も何度も、何度も…何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も…

 必死に、涙を堪えて、石を振り下ろして引き潰して、叩き潰して…飛び散る緑色と紫色の体液にえずき、口を押さえても鼻から侵入してくる臭いと、手に伝わる感触…何度も潰しても手に伝わる筋収縮による伝わる動きを…我慢して…。

 我慢して…必死に我慢して…涙を堪えて…堪えても溢れて来る涙を袖で拭って…惨めさで溢れる涙を噛み殺して…

 そうして必死に摺りつぶして、団子状にして…焼いているところを…見つかって…

『カホお姉さん…僕たちのお弁当分けてあげるよ?』

 憐れみと憐憫が私を突き刺した…それを覚えている…。

(私…何やってんだろ…)

 思い返すと、本当に自分の女子力という物が既に彼方への呼びかけよりも遥か遠くにあるのが分かる。

 思い出すと悲しくなる。それでも、がっつくことが出来ない自分が情けなくなる。

 菊さんが空腹に負けて食べ始めたら、じゃあ私も…とかしようとしている自分がより情けない。

 菊さんを見てみると、明らかに限界がきているのが分かる。

 今にも獣の本性を剝き出しにせんとばかりだ。それでも人である縁。誇りという寄る辺が。

 今も必死に彼女を人に繋ぎ止める最後の鎖となっている。

 人は獣だ…その本性を、ただその鎖にしがみつき人であることを捨てない…。

 それは美しかった。

 菊さんはジッと食事を見つめて、無言で…まるで親の仇でも見るようにただ見つめていた。

(私と一緒…なんだ…)

 不意に思ったこと…それと同時に私は手を合わせる。

 思わずだった。もう我慢の限界だった。

「いただきます」

 私の言葉に菊さんは目を見開き、私に合わせて手を合わせた。

「て、天の三光に身を温め!地の五穀に神を養う。この命を糧として…いただきます!」

 菊さんも口上を口にし食べる―を決めてくれた。

 私は食事と一緒に並べられていたフォークに手を伸ばす。ナイフも手に取り、どちらでどうだったか、というテーブルマナーも適当にお肉にナイフを突き立てた。

 肉料理にナイフを突き立て、一引きすると、肉汁がさらにこぼれ始め、強いソースの香りがさらに鼻腔をくすぐる。

 その香りに菊さんの目が見開かれる。

 菊さんが慌てるようにナイフを手に取り、震える手で肉料理にナイフを添え…優しく一刀で切る。

 私も切った肉料理を口元へ運び、口に入れる。

 瞬間、口の中で油が弾けた。

 肉汁の甘味は想定していた。ソースの濃い味付けも想像していた。お肉の美味しさも、熟慮していた。

 だが、出された肉料理は…浅慮で貧乏舌な私の無知さを右ストレートでぶっ飛ばす。真っ直ぐ行ってぶっ飛ばす。

 ソースは想像以上に濃い、ウスターソースなんか目じゃない程に濃い。

 それ単体だと辛すぎる味付けとも思えるスパイシーな味付けだ…。舌にソースが触れた時は辛いと思った程だ。なのにそれに肉汁が混じると、辛さのソースが肉汁の甘味を引き立たせられ、肉汁無しでは完成されない二つの調和がそこにあった。

 さらに、口の中に入れたお肉にそれが絡まる…。

 お肉自体が熟成されたものらしく柔らかく、ソースがスッとしみ込む…。

 ただ美味しい…。いや、もっと近く、身近な答えがある…。

 お肉は…私が元々いた世界で食べていたお肉に近い程に美味しい。

 ジビエとも言えない狩ったばかりのお肉ばかり食べていた。だから、今更熟成肉の美味しさに感動する。

 向こうの世界となってしまった…私のいた世界を思い出させる味と…この世界の熟成された味。それらが合わさり、瞼が熱くなる。

「美味しい…」

 私は自然と溢していた。

 無知な私ではこんな言葉しか出なかった。でも、ようやく出会えた愛した世界に悲しくもなり、愛も覚えた。

 本当に好きだった―

 そう胸を張って、今でも言える…その自信が確固たるものになる。

 ホームシックというはもしかしたらこういうことなのかもしれない…そう思うと、涙を堪えながらもただ笑顔がこぼれた。

 私の前では菊さんも美味しそうにお肉を食べていた。

 それだけでなく、続いてサラダを食べ目を輝かせ、パンを千切ると同時に出た湯気に息を飲み口に入れ恍惚の表情を浮かべていた。

 よっぽど美味しいんだ…そう思っている内に私はお肉をさらに一切れ…とナイフを伸ばしたところで―カツンという音がした。

 不思議に思い手元をみると…私のお皿からお肉が消失していた。

 意味が分からず、菊さんを見てしまう。

 勿論菊さんが私のお皿からお肉を盗る…なんていうことはしていない。

 だって、私は―ずっと食べていたのだから…。

「あ…」

 気付いた時には感動の渦中で忘れ、忘却の彼方へと追いやっていた記憶が蘇ってくる。いきなりの復活に脳が拒否する程の情報量。否定し、彼方へと追いやりたい…それ程までに私はお肉料理を食べていた。

 一口分の感想を…思い浮かべる間に、時間すら消し飛ばす程の懐かしさと味わいが…終わってしまっていた。

「お気に召したようで」

 不意に声を掛けられ、慌てて顔をあげると…給仕の男性が優しい笑顔ですぐそこにいた。

 彼は空いたお皿を下げに来たらしく、恭しく一礼をするとお皿を下げて行く。

 下げられていくお肉のお皿…それに一抹の寂しさすら感じる。

 別れは来るもの。それがどれだけ悲しくてもいずれ訪れる。

 この旅を通じて、私は何度も経験してきた。だから…大丈夫。

「とても…美味しかったです」

 素直に言えた言葉に、給仕の男性はクスリと笑い、胸ポケットから2枚のカードを差し出してきた。

 名刺のようなそのカードを受け取り、視線を落し…息を飲んでしまった。

 黒地に金の縁取。黄金の車輪を繋ぐ車軸と牛のような生き物のイラストが描かれたいるそれは…。

『金の車軸亭~優待券』

 そう書いてあった。そう書いてあることに思わず給仕の男性を二度見してしまう。

 給仕の男性はニコニコと笑顔で「良い宣伝となりましたので」と彼は言い終わると同時にスッと横に身体をよける。

 それで、店の他のテーブル状況が見えた。

 誰もが私と菊さんと同じセットか、それよりも豪勢そうなお肉料理を食べていた。

 その光景に絶句してしまう。

 給仕の男性はそんな私に小気味よく笑いながら、

「一応、有名店でしてね。それに、極東のお嬢さんと、あなたの赤い髪は目立ちますし、美味しそうに食べていただけて感謝が尽きませんよ」

 そう言いながら、彼は品よくお辞儀をする。

 太っているとは思えない程、丁寧で綺麗なお辞儀に思わず私も頭を下げ、菊さんも続いて頭を下げていた。

 頭を上げると、彼はさらに小さく笑っており「あぁ、やっぱり日本人ですね」と楽しそうだった。

 日本人という言葉に私は思わず顔を引きつらせてしまう。

 給仕の男性は「僕も、元は『勇者』として来たんですよ。」とウインクをし、そのまま続けて、

「世界を救うよりも、ここで賄いを食べているのが幸せで。もう、旅も辞めてしまって長いですね」と茶目っ気を入れて告げた。

 私はせめて自分は勇者じゃない…そう言おうとしたものの、彼は察してくれたのか「お気にせず」と自分の口元に指を当て一礼と共に踵を返した。

 …と思ったものの、もう一度振り返り「ドレスコードはこのお店にはありませんので、いつでもご自由に来てください。この店はエアリス様の如く、如何なる方も受け入れますので」とニコやかに付け足した。

 彼は私達に向けて言っていた。それでも本当にその言葉を受け取った二人の男女は気まずそうに視線を逸らした。

 彼が去ってからも、私と菊さんの食事はただ幸せの連続だった。

 どれも美味しく、気付けば無くなる程には美味しかった。もう、そうとしか表現出来ない程に美味しかった。

 そうして…やがて終わりは訪れた。

 何か変な思考になっていたものの、感動は消えない。

 私は食事を終えてから一息つく。菊さんもそれは同じだった。

 食事が終わったものの、まだ連絡は来ない。

 ぼんやりとしているのも勿体なく感じ、菊さんへ視線を送る。

 菊さんも私の視線に気付いたのか、二コリと優しい微笑みを返してくれた。

 ツンツンしていたのは空腹の所為もあったのかもしれない。

 穏やかな菊さんの髪が揺れた。誰かが来店し、その時に入った風が彼女の長い髪を撫でたのだろう。その風に遊ばれた髪はフワリと浮き、光を反射させる。

 きめ細やかな長い髪…それを維持するのが大変だと言うのは…自分でいうのもなんだけど女性だから分かる。

 マイさんの長い綺麗な髪に関心出来る程には、長い髪を維持する面倒臭さも、手入れの大変さも分かっているつもりだ。

「そう言えば菊さんの髪、綺麗だね」

 私がそう切り出すと、菊さんは目を丸くしたものの、嬉しそうに。

「ありがとうございます。結構大変なんですけど、私も諦めてカホさんのように短くしてもいいかもしれませんね」

 菊さんはそう答えながらも、愛おしそうに自分の長い髪を軽く撫でていた。

 何か思い入れがあるのだとは何となく察せた。

 マイさんの話だけど、長い髪を維持しているのはお母さんに影響を受けているとは聞いている。そう思うと、私はお母さんが好きといいながら、髪型まで真似れていないので割と親不孝者かもしれない。

 そんな自分に苦笑しつつも、「そういえば、お風呂とかどうしてたの?」と長い髪を保つ秘訣を聞いてみた。

 この世界には魔法もあるから、そういう便利な物でもあるのかな?程度の好奇心からだった。最も、私には魔力というものが全くないらしいので、あったとしても使えないし、学生時代からずっと短い髪だから今更伸ばすことなんてしないのだけど。

 菊さんは私の質問に、困ったような笑顔を浮かべ。

「実は…近くに温泉を見つけて、そこで湯あみをしていたんです。」

 菊さんは言い終わってから、「婦女子が外で湯あみなんてはしたないのですが」と私から視線を逸らしていた。

 そうなんだ、と私は返していたものの、実際本当に心の中で思ったことは…

(菊さん…女子力高いな…)

 真剣にそう思っていた。

 ついでに、旅に出て1週間もすれば自分の女子力が擦り切れ、川で平然と裸になっていた自分が哀れに思えた。返り血に、泥に汗に…取り合えずそれらが落ちればいいやというのが私のスタンダードだった。

「湯あみと言えば…主な私の収入源も石鹸でしたね」と菊さんが続けてくれたので、私は自分の惨めさにこれ以上向き合わずに済み、すこしホッとした。

「石鹸って、極東では名産なんですか?」と私も適当な質問で返答すると、菊さんは首を振り「極東ではとぎ汁とかぬかを使ってましたので私も驚きました」と前置きをしてから、机の上から掌を20センチ程浮かせ。

「これくらいの、えーと…こちらの大陸に住むコロボックルさん達に教えていただいたんですよ」

「本当かい?」

 不意に声が差し込まれた。

「え?」と思わず、私と菊さんが声の方を見ると、目が落ちくぼんだ小太りの男がいた。

 いかにも覇気がないといった雰囲気で、小汚いと言えば小汚いが、汚れは見られない平服を纏っただけの男だった。

 男の登場に菊さんも私も何も言えなかった。

 小太りの男性は困ったように眉を曲げ、気弱な言葉で。

「あぁ、僕が依頼主だよ…えっと、そうだねぇ…アライグマおじさん…って呼んでくれるかな?」

 いきなりだった。

 誰か…そう思ったら、いきなり自己紹介されたものの、その内容も…。

「クマ?」と思わず聞き返してしまう。

 アライグマ…と言われれ、そんな気がしないでもないけれど、むしろ…

「タヌキ…ですか?」と菊さんが声を出してくれた。

 私もそう思った。

 落ちくぼんだ目といい、小太りの身体といい…どちらかというとタヌキという方が合っていると思う。

 アライグマおじさんは、「アライグマだよ」とにこやかに笑うと共に、私をジッと見つめ。

「…君、『勇者』だね?」

 そうぴしゃりと言い放った。

「違います」

 と私もぴしゃりと返す。

 私の答えにアライグマおじさんは面を食らったようにキョトンとしたものの、苦笑し。

「…まぁ、いいか。時々、『勇者』にね、アライグマって言うと、クマと聞き返してくるみたいにね、ちょっと会話がかみ合わなかったりするんだ。」

 アライグマおじさんはそう言い終わると、『勇者』なんてどうでもいいとでも言わんばかりに菊さんの方を向き、「さっきの話は本当かい?」と確認をした。

 菊さんは聞かれた時には要領を得ない様子だったものの、すぐにコロボックルの話を分かったのか。

「え?あ、はい…こちらのコロボックルは大きいですが、明るく頼もしい子達なんですね」

 菊さんの答えに、アライグマおじさんは柔和に微笑み「そっか…良かった…」と懐かしむように、まるでかつての友人の無事を聞いたかのように嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 そこには邪悪さは微塵もなく、ただ喜んでいるようだった。

 それがこの人の本心だと、何となく理解出来る程に優しい人だと思えた。

 アライグマおじさんは仕切りなおすように小さく咳ばらいをし、

「えっと、ギルドの二人共、今日はよろしくね。あと、君は…『極東』の侍かい?」

 アライグマおじさんに菊さんがそう尋ねられていた。

 菊さんは刀も差しているし、着物も着ている。それに、さっき”抜き”をしようとしていた。

 私としても多分侍だろうなぁ…とは思っていたけれど、態々聞かなくてもいいと思っていた。

 菊さんは尋ねられた内容に目を丸くし、自分自身を指さしながら。

「え?私が…ですか?」

 と答えた。

 その反応だけで何となく察したけれど正直、驚きで反応出来なかった。

「違うのかい?」とアライグマおじさんが続けると、菊さんは困ったように眉を曲げ。

「私は普通に村娘ですが…?えっと、何処かの侍の御方がこちらに来ておられるのでしょうか?」

 町娘?

 私の頭はそこで止まっていた。

 アライグマおじさんも同じようで、何故か私と顔を見合わせていた。

 二人して顔に”どゆこと”とでも書いてあるようだった。

 答えた菊さんも要領が得ていないのか、困ったように視線を右上へ移動させ。

「えっと…道場の跡取りではあるので…剣士ではありますね」

 菊さんの答えにさらに、私とアライグマおじさんは混乱してしまう。

 顔を見合わせ、お互いに『なんであなたが困ってるんですか?』と押し付け合おうとしてしまう。

 二人してそうしていると、アライグマおじさんが折れてくれたのか仕方ないと言わんばかり。

「あぁ、ごめんね。やっぱり、極東の事はよく分からないや…」

 それは切り上げの言葉でもあった。

 ただ、気にはなるから、もう少し聞いてくれたらとは思ってしまう。

 その気持ちはアライグマおじさんも同じのようで少し考えている様子だった。

 二人して考えあぐねいていると、ふと菊さんが思いついたように。

「そう言えば、こちらでもよく聞かれるのですが、着物を着て、刀を差していれば侍でしたら、極東の百姓から姫巫女様まで侍となってしまうので。自分が侍ではないという答えしか出せないんです」

 刀を差して、着物を着ていれば侍…確かにそれは私の感覚だ。

 こちらではどうか分からないけれど、ニホンにいた私ですらこの有様だ。正直、何が侍と言われても良く分からない。

 侍なんて時代劇でしか見ないし。それもフィクションだから、侍を見ることはないし見たこともない。

 ふとアライグマおじさんに視線を送ってみると、彼は何かを考えているのか口を真一文字に結んでいた。

 落ちくぼんだ優し気な瞳が一転して、険しく皺だっているのに少し肝が冷えた。

「…でも、こちらに来て何となくその理由が分かりました。」と菊さんの声が続いた。

 私はその声に気付き菊さんの方を見るものの、アライグマおじさんはやはり何かを考えていたようで、キョトンとした表情をしたと思うと。

「え?あ、ごめんね。今、何て言ったのかな?もう一度いいかい?」

 本当に聞いていなかった様子で、菊さんに聞き直した。

 菊さんは目を丸くして、「あ、ごめんなさい!」と一度謝ってから。

「あぁ…!えっと、こちら!来て!理由!分かった!気がします!まする!」

 …と、何故かやけにぶつ切りな話し方を始めた。

 むしろ分かりにくくなったような…とは思ったものの、アライグマおじさんは困ったように乾いた笑いを浮かべ。

「えっと、そこまでぶつ切りにしなくてもいいよ。菊さんの公用語は十分上手いから。僕がちゃんと聞いてなかっただけだよ」

「そうですか、ありがとうございます」

 アライグマおじさんのフォローを受け、菊さんはまたいつものように話し方に戻してくれた。正直、さっきのぶつ切り言葉だと私が分からなくなりそうだった。

 アライグマおじさんは項垂れるように。

「うん…姫巫女様がかなり酷いからね…あれはもう公用語じゃないよ」

「文法が違いますしね。私も苦労しました」

 菊さんの言葉にアライグマおじさんは「文法の違いか…」と頷き、それに続けて。 

「それで理由って?」と先ほど、菊さんが言いかけた言葉の催促を求めた。

 菊さんは催促され、一息つくようにコップに注がれた水を飲むと。

「距離と言葉の壁だと思います」

 距離と言葉…とそう菊さんに言われて何となく納得できた気がする。

 私の知識でなら分かりやすい話だった。

 ジパング…そう呼ばれていた時代のニホン。

 脚色された大言壮語。ありもしない話を真に受けただけの話。

 それでも浪漫や、それしか情報がないなら、真実として面白い方が採用される傾向がある。

 黄金の国なんてある訳がないのに、それでも信じる者は一定数いた…そう歴史は語っていた。騙った歴史を信じる人はいるのだから。

 でも、それすら仕方ない。

 伝える為の道が遠いように、現状を知る由がなく、あとから来た真実も”面白くない”として虚偽として扱ってしまうのだから。

「アルトヘイムと『極東』の間に伝わるまでの時間で情報が変遷し、変化し意味を変えて伝わってしまうのだと思うんです」

 菊さんはそこまで言うと、一度肩を竦めた。

 まるで何かを思い出すように、眉を曲げ、噛み締めるような表情で。

「あとは言葉の壁ですね。私もこちらに来て苦労しました。元々、極東で公用語の勉強をしていましたし、同期の中ではかなり上手な方でしたが、それでも最初はこちらでは全く通じませんでした」

 そこまで言い終わると菊さんは、本当に苦労しました、と言いながらため息を吐いた。

 どんな苦労があったのか、というのは分からない。

 正直、私が何故この世界の言葉が分かるのかも分かっていないし、読み書きもある程度出来るのが不思議すぎて考えないようしている位だ。

 気にし始めると超次元暗黒でも視えそうで、もう、そうあるもの…としか認識していない。だけど、菊さんやアライグマおじさんの言いぶりからしても、この世界にもその土地に根付いた文字や言葉があることは分かる。

 じゃないと、公用語なんて言葉は使わないと思うし、菊さんが言うような苦労はないと思う。

 菊さんは多分、私なんかよりももっと苦労してきたんだと思う。

 さっきも勉強してきた言葉が通じなかったと言っていたくらいだし、学校で習った英語が現地では全く通じなかった…というのと同じだと思う。

「なので、そういう時に侍とは何?と聞かれると、極東の剣士…としか答えられないと思うんです。で、さっき言った距離で、意味が変遷して極東の剣士は着物と刀を装備した剣士となってしまうんじゃないでしょうか?」

 菊さんはそう言って言葉を締めた。

 その後に付け足したのは「なので、ただの小娘の私ですら、大陸では侍に見えるのかも、と」とアライグマおじさんの最初の質問への答えを示した。

 アライグマおじさんは顎に手を置き、眉を曲げながら。

「確かにね。僕も侍ってそういう者だと思ってたし。一応、貴族階級的な立ち位置とは聞いてるけど、それも違うのかい?」

「官人ではあるとは思うのですが、定義はよく分からないので…姫巫女様側に立つ貴族階級の武人で合ってるのでしょうか?鬼族は武人ではあっても基本的に反姫巫女様体制なので侍とは呼ばれず兵や武人と呼びますし…これも少し違うような気はしますが、そもそも姫巫女様が侍では…多分ないですし…」

 菊さんは自信なさげに眉を顰めた。

 さっきからちょくちょくと出て来る姫巫女様がどういった人なのかよく分からないけれど、多分偉い人ということは分かった。

 アライグマおじさんもその姫巫女さんという人を知ってる風なので、もしかすると見た目以上に偉い人…なのかもしれない…。

 覇気がなくて、優しそうで、何処か…高貴さも感じはするけれどそれ以上にやっぱり気弱に見えてしまう。

 一瞬だけ見せたあの鋭さは何処にいったの?と言いたくなる程には。

 アライグマおじさんはそんな私の考えをお見通し…とでも言わんばかりに軽くウインクをしてきた。ただ、本人はウインクのつもりだったのだろうけど、左目を瞑って、右目は半開きだったから、一瞬困ってるのかと錯覚したのは余談だ。

「『極東』か…」

 と不意に溢してしまう。

 まだ首狩りの文化があって…着物や刀があって…漠然とニホンに似た場所ということしか知らない。

 …いや、そもそも知らないんだと思う。

 知ったかしているだけなんだと思う。

 現地にも行ってないし、実際見た訳でもないのだから、知っているということすらおこがましいんだと思う。

「知らないことばっかりだなぁ…」

 そう一人ごち、かつての偉人が言っていた無知の知という言葉の重みが今更のしかかる。

 その言葉は知っていたとしても、その言葉の重みも意味も知らなければ、知っているだけに他ならず、意味もない言葉となってしまっている。

 旅を始めて、シノの村から、アルトヘイムまで来たけれど、私が知っているのは本当にここまでだけだ。

 この世界には『中央』や四方にも国があって、その国の周りには多くの街や村もあって、遠く離れれば『極東』という国もある。

 魔法もあれば、奇跡もある。戦技とかいう技もある。

 でも、実状はどれも分からない。

 始めに神様に言われた魔王がどういった者かも…私にはまだ分からない。

 窓の外を見ると、人波の先に街並みが見え、建物の屋根が見える。

 その屋根の先には空が見え、空には昼間なのに月が二つ見える。

 それですら、私は”そういうもの”と思っていなかった。

「じゃあ、史跡調査を一緒にして見ないかい?」

 不意に声を掛けられ、私はハッと現実へ戻される。

 声をした方を見ると、アライグマおじさんが優しく微笑んでいた。

「歴史を学ぶのは良い事だよ。ただ護衛をしているだけじゃ退屈だろうしね」

 その言葉に私は思わず顔が熱くなる。

 何故かこの人には見透かされているような気がしてしまう。弱気そうで、頼りなさそうなのに、老獪さも感じる。

 いや、私よりもずっと大人だから、その経験から私みたいな程度の知れる子どもの考えなんて分かってしまうだけなのかもしれない。

「はい。」と私はしっかりとアライグマおじさんの提案に賛同し、それに続いて菊さんも「こちらの文化に興味があったので、是非に」と続いてくれた。

「じゃあ、行こうか」

 そう言って、私達はアライグマおじさんと史跡調査を始めることになった。



 私と菊さん、そして、アライグマおじさんと名乗る三人で、アルトヘイムの街中を歩く。

 依頼は護衛。アライグマおじさんが史跡調査をする間、私と菊さんで守る…という内容なものの、アライグマおじさん曰く、街中に限定した調査を1日か2日だけで、1日の稼働時間も数時間らしく、そこまで難しくはない依頼に感じた。

 アライグマおじさんに連れられ、街の北側を城の城壁をぐるりと東に廻るように歩いていく。石畳を歩いているだけでも、この辺りが富裕層と分かる程に石畳はしっかりとした作りだ。

 しっかりとした作りの石畳を歩くこと10分程した頃だった。

「あぁ、あった」とアライグマおじさんは富裕層の一角にある広場の方へと歩く速度を少し速めた。

 私と菊さんもそれに続くと、富裕層の一角の広場に小さな石碑があるのが分かった。

 石碑は大理石に似たつるつるとした材質であり、何かの紋章と文字が書いてあることが分かる。

 紋章は雷と雲を象った物だとは分かる。

 その石碑が何を現わしているのかまでは分からない。記念碑なのか、それとも何かを祀っているのかも。

 紋章の下に描かれている文字に目を凝らして見ても、天来にして天籟。雷霆にして雷帝。黄金の正義…としか書かれていないので、本当に分からない。

 誰かのお墓という可能性もある…そう考えると下手に答えない方がいいと思い、私は口を噤む。

「それは…」と菊さんが代わりに尋ねてくれるようで、私はホッとする。

 アライグマおじさんが勝手に話始めてくれるのを期待するか、菊さん任せの私は相当に情けないけど。

 アライグマおじさんは「あぁ、ユピルの紋章だね」と自然と答えたものの、菊さんはムスッと表情を曇らせた。

「カミノナリノタヂカラオです」

 菊さんの抗議にも似た言葉に私は元より言葉は失っており、アライグマおじさんですら言葉を飲んでいた。

「うぅ…そっか『極東』だもんね」とアライグマおじさんは乾いた笑いを浮かべながら、

「まぁ、僕達がユピルと呼んでいるのも間違いかもしれないんだけどねぇ…」続けてそう言った。

 私は首を傾げるしか出来ない。

 多分、10大神…の一柱なのだろうけど、いかんせん私が知っているのは…アルトヘイムで広く信仰されているエアリス様と、主神らしきロイド神、死の神で黒き星リーバ神だけだ。

 さらに知っていると言っても、エアリス様はおかしなエピソードしか知らないし、それ以外は名前しか知らない。知識としてはその程度しかない。

 アライグマおじさんは考え耽るようにしながらも、石碑に対して手を組み一礼をする。組んだ手を解いてから元より手入れされているであろう石碑の表面についた薄いホコリを払い。

「ユピルはマーズの宿敵にして、好敵手…と伝説で語られているんだけどね、古い文献にはユピルではなくて、ユフィンと書かれているんだ」

 そう説明を始め、少し楽し気な口調で。

「あとは、こうもね、白きロイドの意思を継ぐ、瞬ける黄金の光の神。正義と秩序を愛し、喧喧囂囂たる人々を雄々しき雷の如き侃侃諤諤により黙らせ秩序を齎す。雷帝にして雷霆の黄金の聖女と…」

 アライグマおじさんの説明に菊さんは合点がいかないのか、

「カミノナリノタヂカラオを男神ですよ。雄々しき身体と巨躯。豊穣を司る金の肉体。稲穂の如ききめ細やかな筋肉…」

 そう話を始めてくれたものの、のっけから筋肉と肉体美の圧が凄い説明の所為で、筋肉が凄いとしか分からなかった。

 私の中でユピル神も、ユフィン神も、カミノナリノタヂカラオ神もどれも曖昧な所為で、ボディービルダーみたいな神…という変な属性がついた。

 そこにさっき、アライグマおじさんが言っていた聖女が習合してしまい、頭の中では隻眼の冒険者レオーナさんが決め顔でマッスルポーズをしていた。

 また、レオーナさんなら喜んで、いつものようにニカリと笑ってマッスルポーズをしそうなのが妙な現実感すらあった。

 笑いを堪えるのが必死で会話には参加出来そうにない…。

 そう思っている間にもアライグマおじさんは菊さんの疑問に答えていた。

「ユピルはねぇ…多分、元はカミノナリノタヂカラオなんだと思うよ。筋骨隆々で、相撲等の格闘技を好み、悪しきを許さぬ雷帝…。大陸でもそっちのウケが良かったんじゃないかな?カッコいいし。そして、現在語られるユピルの伝説の元は黄金の聖女ユフィンで、それらが習合した結果…と僕は思っているよ」

 ユピルの見た目の元はカミノナリノタヂカラオで、その伝説のベースはユフィン?

 要約するとそういうことなんだと思うけど、それって神様に対して不敬なのでは?と思ってしまう。

 形を受け継がず、伝説だけを抜き出して、好きな見た目に変えてありがたく信仰する…

 人間で言えばかなり失礼にあたると思う。

 自分の歩んできた歴史を奪われるのだから。

 まぁ、もっとも…私みたいな人間が小さな功績に執着しているだけかもしれない。もしかすると神様からするとどうでもいいことなのかもしれない。

 取るに足らない人間如きがどう改変しようと気にせず、名前も伝説も好きにすればいい。形に意味はなく、ただ示した通りに正しくあればいい、とか思っていそう。

 私個人の考えでしかないけど、少なくとも有名になりたいと思って神様になるような存在は知らない。

 誰かを救いたいという思いがそのうち皆に認められ、その考えに共感したから受け入れられているだろうし。

 そうじゃなければ、ソーシャルメディアに”有名になりたい”と書き込むだけでいいのだから。

「『極東』ではカミノナリノタヂカラオが人気なんだっけ?」

「はい!当然です!正義であり、悪しきを滅ぼす。さらには、我らの国技、相撲の神!嫌いな者等いません!」

 菊さんがアライグマおじさんの言葉に興奮した様子で答える。

 もっとも、私としてはこちらにも相撲があるのはなんだか嬉しかった。

 お昼ご飯中に同じ施設の子達とアニメを見ていたら、余りにも食事が進まないので職員の先生に点けられていたのをよく覚えている。

 それによって別に私は相撲は好きでもないけど、有名な力士を数人あげられるくらいには知識は得られた。それが役に立ったこともある。

 スーパーでバイトをしていた時に、頭の寂しい年頃の娘さんのいる店長さんが相撲好きだった。相撲の話がきっかけで仲良くなり、放課後もバイトをする許可への口利きを学校にもしてくれた。

 世界に無駄な知識なんてない、という証明だと個人的には思っている。

 …まぁ、彼とは相撲の話でかなり仲良くなってしまった所為で、彼が実は男女問わずに筋肉への異常な愛を感じているといういらない知識まで得てしまったし、筋肉系女子の丸みを帯びた美しい筋肉への信仰を語られた時は絶句もした。

”お嬢様のような品のある女性が、きめ細やかで雄々しさを超えた美しい筋肉を持つ姿ッ!そこには性愛等と言う不純物は消え!ただ圧巻!ただ至高!ただ美徳!そう、これこそ至高ぉッ!”

 …多分、この世界には無駄な知識はないと思うし、思いたい。

 私を他所に菊さんは思い耽るように、

「私も幼き頃はよくしていたものです。こう見えて相撲は得意なんですよ!河童に、鉄鼠、鬼にだって負けたことはありません。」

 ―と私には爆弾のような発言を始めた。

 目を輝かせている菊さんがいかに相撲が好きだというのは分かっても、さっきまでいらない想像をしていた私は菊さんの頭がついた力士しか思いつかず、それが筋肉への異常なまでの信仰をしている店長にすげ変わった時には笑いを堪えるので精一杯だった。

 不意に菊さんが何かを思い出したように言葉を切ったかと思うと、笑顔のまま怒りを湛えた雰囲気で。

「帰ったら…鉄鼠族には酷い目に合わせてやりますが…」

「何かあったの?」と私が尋ねても、菊さんは目線を逸らし「色々です」と苦々しい口調となった。

 その一幕が終わると、菊さんは気を取り直したように、うっとりとしたような表情で。

「あぁ…でも、成人男性の相撲試合は…本当に見ててうっとりしました。鍛え上げられた体で、まるで抜打ちかのような静粛さからの、始まりの合図で雄々しく、荒々しく、激しくぶつかり合い…散る汗に光が反射し、熱気と轟音…それがたった数瞬で終わる…まさに武士道です。また、見たいです…鉄鼠族は泣いて謝っても許しませんが」

 色気すら感じる表情と口調。

 それでも、最後の一言には…少なくとも憎悪は籠っていた。

 本当に何があったのか気になる。良くないこととは分かるけど、そこまで恨むのはよっぽどだと思う。

 菊さんは不意にアライグマおじさんを見上げる。

 アライグマおじさんもそれに気付いたのか、「どうかしたの?」と聞き返す。

 菊さんはため息を吐きながら、

「私も、もう少し大きければ力士にもなりたかったのですが…薙刀に弓術、甲冑術、馬術、横笛、琴、茶、詩歌、舞の稽古だけでなく剣の稽古もあって…しかも道場の跡取りということで叶わなかったんです」

 本当に残念そうに溢していた。

 今、思うとアライグマおじさんは、気弱そうで小さく見えるものの身長だけで言えば180センチはゆうに超えている。

 小太りで筋肉には見えないけれどガタイも大きい。

 小柄な菊さんがその大きさに憧れるのも…ミリ単位でなら納得出来なくもない。

 あと、本当にどうでもいいものの、菊さんて割とお嬢様なのかな?とは思った。

 剣士に道場の跡取り…とは聞いていたけれど、何か色々出てきたことに圧倒された上に、稽古という言葉にお嬢様感を感じた。

 それに、その稽古以外にも公用語も勉強していたとなると、本当にお嬢様だ…と頭の悪い感想しか出て来ない。

 つまり、私はお嬢様ではない―ということ。カホです。

 そもそも孤児となった私と菊さんでお嬢様度を比べるのもおこがましいかもしれないけれど。

「まぁ、『極東』は男性も小柄だからねぇ…」とアライグマおじさんはクスリと笑いながら、

「そういえば、姫巫女様も…相撲好きだったね…シグルド君みたいな体の大きい男性を見ては…」

”お主!良い体だ!どうだ、力士!ならんか?あぁ、だが四股名!私が決めたい!どうだ!興味はないか?支度金なら出すぞ!回しには何がいいかのう!?”

 と、件の姫巫女様の真似をしたのだろうけど、男の子口調で語った。

 姫巫女様と呼ばれているくらいだし、女性だと思っていたけれど、女の子でもなくて、男の子なのかな?といらない想像をしてします。

 菊さんも「似てますね」と楽し気に答えていたので、私の中で姫巫女様とかいう人は男の娘的な立ち位置にすることにした。

「何故、大陸では相撲をやっておらんのだ?って、悲しそうだったよ」とアライグマおじさんが菊さんに同意を求めると、菊さんも頷いて答えながら、

「姫巫女様はもう御年少なくとも300歳は超えてますが相変わらずですね…。まぁ、記録はあるのですけど、ただ歳を聞いても…」

”もう覚えておらん。数えてもおらん。天白の大飢饉があった頃にはここに座しておる。天白の大飢饉の奉納相撲で初めて相撲を見たから、それが私の生まれ年で良いだろう”

「…と言ってましたので、自称…188歳…の若さですかね?」

「え?そうなの…?そこでも相撲が基準なんだ」

 半分呆れたようにアライグマおじさんが答えた。

 私としてむしろ、年齢の方が気になって仕方がない。

 こちらでは普通のことなのかもしれないものの、「え?188歳?」と一応聞き返すと、菊さんは少し驚いた様子になったものの。

「えぇ。姫巫女様は竜のかむなぎですので…歳を取るとかそういう概念はないみたいなんです。こちらには竜の巫はおられないのですか?」

 竜の巫?と新しい単語…と思っていると、頭の中で白の死守しもりリースちゃんが浮かんできて不服そうに「私です」と不平を言ってきた。

 そう言えばリースちゃんも自分のことを”竜の巫女”と呼んでいたと思い出す。

「それって、死守しもりみたいな感じなの?」

死守しもり?」と私の言葉に菊さんは首を傾げた。

 どうやら死守しもりは聞き馴染にないみたいだった。

 私自身、死守しもりのことは今一つ理解していないから、これ以上言えることもないのだけど。

 ふとアライグマおじさんが驚いたように。

死守しもりを知っているのかい?リーバ神の遣いを名乗る、文字通り死の番人だけど、彼らは普通に人間も魔族も、エルフや異種族だっていたと思うけど…」

「え?白の死守しもりもですか?」と私がさらに続けて聞き返すと、アライグマおじさんは顎に手をおきながら。

「竜の巫女は、古竜信仰をしている一部の者が何故かそう呼ばれてはいるけどね。そう考えれば、その巫女が白の死守しもりをしていてもおかしくはないね」

 アライグマおじさんに諭されるように説明され、納得できた。

 ものの、何故か少しもやもやとする。私の頭は理解も納得も出来ているのに、何故か引っかかる感じがしてしまう。

「そうなんですか?こちらの竜の巫は『極東』とは定義が違うのですね」と菊さんは関心していた。

 アライグマおじさんは口を開け。

「定義の違い…そうか」

 そう言いながら、一瞬…ほんの一瞬だけ、初めて会った時に見せた鋭さを見せた。

 表情は変わらないのに、この人自身がその本質を巧みに隠している。そんな気がした。

 そんなことを思っている間にもアライグマおじさんは平服から一枚の紙を取り出し、何かを書き込んでいた。

 取り出した紙が光を受けて内容が透けて見える。

 幾何学的な線が書かれた紙でそれが地図だと何となく思った。

 アライグマおじさんは地図に何かを書き込んだところで、私の視線に今更気付いたように取り繕い笑顔を見せる。

 多分、始めから私の視線に気付いたと思う。

「アルトヘイムはエアリス様の国だからね。10大神の史跡がどれ程残っているか調査してるんだ」

 そう説明してくれた。

 それが依頼の内容だったと今更思い出す。だけど、それと同じ位にアライグマおじさんの言っていることが嘘だとは感じていた。

 何となくだけど、地図に何かを書き込んだ場所がここでは無い気がしたから。

 それでも調査というのは嘘じゃないと思う。

「じゃあ、次に行こうか」

 アライグマおじさんはそう提案し先へと歩いていく。

 私と菊さんはその後を続くものの、不安が首をもたげ始めていた。


 私達三人が次に訪れたのは、街の北西側だった。

 私は向かっている途中、思わず足を一度止めてしまった。

 街の北西側…その場所には…

 スラム街…そしてブラックマーケット…『花畑』…があることを私は知っている。

 それらの強烈な不の感情が私の足をもつれさせる。

 一瞬、目の前が暗くなる…だけど、その時にはシーちゃんの妹…バンシーとなり砕けた彼女の悲しくも優しい笑顔が浮かび上がる。

(大丈夫…)

 私はそう心の中で呟き、一歩を踏み出す。

 暗闇を払うように歩いた一歩。

 それは予想外の温かさに受け止められた。

「大丈夫ですか?」と厳しくも柔らかな声と温かさに身体を受け止められた。

 それが菊さんの手だと分かると、自分がトラウマをまだ払拭出来ていないことが吹き出し、思わず恥ずかしくなってしまう。

 それに、どうやら私は通りすがりの男性にぶつかりそうになっていたらしい。

 薄手のワイシャツに、長ズボン、ベレー帽を被った、小脇に皮製であろう鞄を抱えた男性にぶつかりそうになったところを菊さんが受け止めてくれたらしい。

「ごめんなさい…」と私が謝ると、菊さんは私の瞳を覗き込み小さく微笑んだ。

 菊さんは私の足が丈夫だと分かると、私から離れ。

「私も夜の厠は未だに怖いんですよ」

 と少し恥ずかしそうに私に言った。

 その意味を考えていると、菊さんは困ったような笑顔で「昔、夜に厠に入っている時に賊に襲われてしまったんです」そう言った。

 それだけで、トラウマになる気持ちは分かる。

「誰だって、怖い物はありますよ」と菊さんの静かな励ましはしっかりと私に届いた。

 菊さんの励ましに頷いて答えながら、強がる為にも、

「もしかして…それが鉄鼠族だったり?」

 と聞いてみると、菊さんの表情から一瞬で笑顔が消えた。

「はい」

 静かな怒りを湛えた、殺意すら籠った声が生まれた。

 菊さんがやけに鉄鼠族に敵意をむき出しにしている気持ちがようやく分かった気がした。

 話してみると、落ち着いているし、育ちも良さそうなのに、やけに鉄鼠族に対してだけは攻撃的な理由もそれなら納得できた。

 街の北西側…丁度ブラックマーケットの付近へと着いた頃だった。

 ふと、といった雰囲気でアライグマおじさんが周りに視線を送り始めた。菊さんもそれに習うように顔は向きを変えずに視線だけを動かしている。

 アライグマおじさんは足取りを変えず、まるで観光でもするように…それに反して菊さんは身体の重心を変え前傾ではなく下方向…真っ直ぐに構え直した。

 それだけで緊張する。

 ましてや、今日の私は鎧も何も身につけていない。剣だけはあるけれど、実力的な問題でどう考えてもこの二人には劣ると分かってしまう。

 アライグマおじさんがブラックマーケットへと入っていき、数歩進んだところで、

「そう言えば、『極東』って、首狩りの文化があるんだっけ?」

 唐突に菊さんにそう話しかけた。

 内容も唐突だったこともあり私は「え?」と言葉を漏らしてしまう。

 菊さんも一瞬だけ不思議そうな表情をしたものの、クスリと小さくアライグマおじさんに笑顔を返してから。

「首狩り…?戦の中でしたら、首は獲る物ですけど?」

 そう言いながら彼女は腰の刀に触れ、揺すりカチャリと音を鳴らした。

 物騒だなぁ…とは思いながらも、私は何も言えずに二人の周りを警戒することしか出来なかった。

「うん?そうなのかい?」とアライグマおじさんは天気の話でもするかのように、自然に話を続けて行く。

 菊さんもそれに合わせるように、自然体な雰囲気で。

「首は一人につき一つしかありませんし。勲功を数えるには丁度良いのではないですか?」

 首は1人につき一つ…と言われれば確かにとは思う。

 アライグマおじさんは「へぇ」と関心するように短く言い、少し呆れるように。

「あぁ、そういうことなんだね。僕たち大陸の民みたいに見せしめにする為じゃないのか」

 その言葉は菊さんに向けているというよりは、大陸の民の残虐性に辟易しているように聞こえた。

 見せしめに首を斬る…多分それはこの世界では普通のことなんだと思う。

 魔族とも戦争中とは聞いているし、そういった行為で相手に心理的なダメージを与えられるとなれば当然やるのだと思う。

 実際、考えただけで私も精神的なダメージを受けているし、私のいた世界でのソーシェルメディアでそういうことが起こったとも見たことはある。

 この世界も、私のいた世界も人間が人間である限り、その性質は余り変わらないのかもしれない。

「え?不義理者は首を見せしめに晒しますけど?」と菊さんのおどけた声が響く。

「え?」と思わず私は声をあげてしまう。

 菊さんはアライグマおじさんに、天気の話でもするかのように。

「私もこちらに来て長いですが、隣町のガン助が朝秀の10にも満たない娘を無理矢理辱めたとして、陰部を切り取った後に、市中引き回し。河原にて斬首。首を捨て置かれ、石と馬糞の的となってましたよ?あと主人を暗殺で討たれ、仇討ちをしなかった不忠義者も、切腹を許されず打ち首、後に捨て首となりましたし」

 菊さんの口からすらすらと物騒な事が語られる。

 思わず私とアライグマおじさんは顔を見合わせる。

「…やっぱり『極東』って怖いね。そこまで徹底するんだ」とアライグマおじさんが若干引き気味に菊さんに答えを返すと、菊さんは当然とでも言わんばかりの雰囲気で。

「不義理は罰しなければいけません。悪人であれば猶更です。善人であれば正しきを示さなければなりません」と言い捨てた。

 それが日常というよりは、当然と思っているのだと部外者でも分かる。

 ただその根底というものが残虐性ではないことも同時に分かる。

「お天道様は我らの悪事を必ず見ています!悪が蔓延ることなど天道が赦しません!正しきを行い、悪を裁く!これは剣の道の初歩です」

 死生観と倫理観…その違いなのだとわからせられる。

 法律が厳し過ぎて、命でしか償えない…それが『極東』の法律なんだとなんとなく察した。

 その根底にあるものが、どうしようもないくらいの善意と正義から来るというのも。

(もうちょっと…手心を加えてもいいような気がしないでもないけど…)

というのが私の正直な感想だ。法整備された世界で生きていたから受け入れきれないだけかもしれないけど。

「日常的に首斬りがあるとか聞いたことあったんだけど?」とアライグマおじさんがさらに続けると、菊さんは不思議そうに。

「斬り合いは…私がいた頃は少なかったですが、ありましたね。まぁ、そもそも、骨に当てる程深く斬らずとも、人であれば致命傷は負わせれますし、骨を避けて胸か下腹部でも突けば十分です…というか、態々堅い骨がある首を切断する理由って戦場での手柄や、晒し者にする以外にあるんでしょうか?」

 そこまで菊さんは語ったところで急に思い出したように。

「…でも、鬼族は首を落としますね。腕なりを斬り落としても、ものの七日程で再生しますし」

 そう言い切った。

 腕が再生?と首を傾げたくなったものの、話がどんどん残酷な方に向かって行っている。

「さっき言ってた鉄鼠族っていうのはどうするの?」と私が方向変換を試みて見る。

「…顔面が変形するまでどつき回します」と菊さんは真顔で答えた。

「こわ…」とさすがにアライグマおじさんも引いていた。

 私も引いた。表現が生々しいのも余計に恐怖を煽る。

 菊さんはというと、激昂した様子になりいい訳でもいうように。

「だって、鉄鼠族は糞が兵器として利用出来ると知って、糞なり小便なりを投げつけて来るんですよ!?糞団子とか投げつけられたことありますか!?痛いし臭いし病気になるし!最低なんですよ!」

 切実な声色だった。

 聞かないけれど、多分菊さんもぶつけられたんだと思う。

 相撲の話や、さっきの厠の話でも思っていたけれど、鉄鼠族はどうも糞と縁が深いらしい。

「あぁ…そうなんだ」とアライグマおじさんですら、話を切り上げようとしていた。

 だけど、菊さんは止まらない。よっぽど腹に据えかねているらしく。

「だから私達も不浄返しをして…相手が怯んだところに乗り込んで一族郎党を根絶やしにする勢いで撫で斬りにします!」

「…すごい絵面だねぇ…。」とアライグマおじさんは遠くの空を眺めていた。

 空は青く澄み渡っていて綺麗だ。なのに、その半面、地上では痴情の如き茶色に濁り切った糞の話をしている。

 また、その話をしているのが、私から見ても女子力の高そうな菊さんというのが…なんというか…世界は悲劇なのだろうか?

「今『極東』って荒れてるんでしょ?戦国の世なんだっけ?」とアライグマおじさんが糞から話題を変えようと必死だ。

 やっぱり育ちがいいのかもしれないとアライグマおじさんのことを再確認すると共に、育ちが良いだろうけどそれでも糞の話をする菊さんに微妙な気持ちになった。

 菊さんは鉄鼠族への憎悪を吐いていたものの、アライグマおじさんの新たな話題に。

「え?荒れてる…?と言われても…こちらとそう変わらないと思いますが?」

「…そうなのかい?」とアライグマおじさんは食いつくように聞き返した。

 まるでそれが聞きたかったと言わんばかりだったけれど、思えば糞の話題がヒートアップしていたので、ここは乗らないといけなかったんだと思う。

 それだけ私にとっても、戦争がすぐ身近で起こっているここは荒れてるという判定だから。

「覇権争いなんて、静かであれ、賑やかであれ、いつもあるものだと思いますし。こちらも大国同士が戦争中なんですよね?私からすればこちらの方が荒れていると思いますが?」

「…あぁ、そうか。そういうことか…。」

 二人はやけに合点がいくのか、急に和やかな雰囲気となった。

 私はというと要約しても、”どこもかしくも戦争ばかりだ。あなたの国もそうなのでしょう”としかならないので、荒れてるなぁ…という感想だった。

 菊さんは考え耽るように。

「荒れてると言えば…5年前に姫巫女様の御殿に火を付けられ、鬼族と妖族に都が襲撃されたことはありましたが、あの時は都が炎に包まれましたし、あれ位が荒れているというんじゃないんですか?」

「首都に攻撃されているのは荒れてるを超えているよ…」と呆れるアライグマおじさん。

 私もそれは思う。

 ただ…今思い返すと、応仁の乱とかいう、教科書には載せないといけないくらいの大事件なのに、詳細は書けないから、あったことだけは教えられるラグナロクが存在しているのを思い出した。

 こっちもあっちも案外同じかもしれない。

「まぁ…あのムスヒ…姫巫女様だし…その程度じゃ斃せないだろうけど…」とアライグマおじさんはため息を吐き、それに反して菊さんは目を輝かせ。

「はい!姫巫女様が陣頭に立っての大立ち回りは聞き及んでいます!燃える御殿を背にカミノナリノタヂカラオの如き、神嵐を纏った鳳の雷鳴剣で大地を割り!竜の如き光と閃光を放つ雲耀一閃で妖族と人族の間に開闢したと!見て見たかったです!」

「姫巫女様は無茶苦茶な強さだからねぇ…」とアライグマおじさんは項垂れた。

 さっきから…姫巫女さんの話がちょくちょくと出るのだけど、聞いてるだけでもとんでもない人だと感じる。

 『極東』への偏見の殆どがその姫巫女さんの所為じゃないかと思う位には。

 そう思っている間にも目的地へ辿り着いたのか、「あった。あれだね」とアライグマおじさんが声をあげる。

 私はアライグマおじさんの視線を先を見てみたものの、そこには史跡らしきものはなかった。菊さんも同じ感想を思ったのか「どれでしょうか?」と尋ねる。

 アライグマおじさんは困ったような笑顔で。

「ウーヌス様の像はもう撤去されちゃったからね。代わりに石床が…」

「おい、そこの商人!」

 アライグマおじさんが言いかけたところで、急に横から怒声を浴びせかけられた。

 私は驚いてしまい、一瞬、反応が遅れてしまう。

 慌てて腰の剣に手を伸ばしたところで、菊さんに手で制された。

「ん?」とアライグマおじさんは自然とした様子で、声のした方向へと向く。

 声がした方向には、若い浅黒い肌を持ち、彫りの深い顔立ちの男がいた。

 いかにもチンピラや、脛に傷のありそうな男の登場に、私はたじろいでしまう。そんな私を隠すように菊さんは半歩前に出て、自然なゆっくりとした足取りで前へと歩き始めた。

「あんた見ない顔だな?何の用だ?ここを何処だか分かってんのか!?」

 と男の怒声が響くが、前にいる菊さんの背中に視線が自然と吸い込まれていて、男のことが気にならなかった。

 菊さんの歩み…いや、その重心は自然そのものだった。

 それが物語るのは―相手にすらならない。そう語っているようだった。

「あぁ、ごめんね。僕は何分新人でね。ちょっと見て回っていただけだよ」

 そうアライグマおじさんがおどけた様子で答え、男はその態度が気に喰わないのか、舌打ちと共に矢継ぎ早に…

「あんたらがうろちょろする所為で、こちとら商売あがったりなんだ。とっとと出て行…」

 そこで言葉が止まった。

 怒声が消えたことで恐怖はなくなり、私が菊さんの背中から男の顔に視線を移すと、その顔は青ざめていた。

「う…」と男は言葉に詰まり、対する菊さんは自然と立っているだけだった。

 刀に手も掛けず、両手は自然と体側に沿い、足も肩幅に開いているだけ。

 到底、戦う姿に見えない自然体。

 その後ろ姿だけでも分かるけれど、多分睨んでもいない。ただ、男を見ているだけ、と。

 男が静かになった所為か周りから声が聞こえる。

 『極東』や侍…そういった言葉が響く。

 菊さんはそれに答えるように、足を軽く踏みかえ、ゆっくりとした挙動で腕を組む。その静かな動きに男はビクリと震え、菊さんが腕を組んだだけと分かると、目を見開き、

「…っち!とっとと消えろ!」

そう言い残してすごすごと去って行く。

 菊さんは男の背中を見送る。

 彼も一度振り返り、菊さんと目があったのか「消えろ!チビのビッチのアバズレが!」と怒鳴っていた。

―ピクリと菊さんの頬が動いた。

 腕もそれに反応していたものの…堪えたようで、菊さんは振り返ると、眉を怒らせていた。

「子どものいう事です…」

 そう溢し、歯を食いしばり、「ガキのいう事です…こんな…ガキ程度に…怒る…など…。怒る…糞ガキがぁ…」と続けたので大分お怒りの様子だった。

「ありがとう。菊さん」と自然とアライグマおじさんがフォローとお礼を言うと、菊さんも一度息を吐き。

「いえいえ、あなたのお手前もさすがです」

 少し嫌味のような言い方に、アライグマおじさんも困ったように視線を逸らし、「ごめんね」と弱弱しく謝罪をした。

 多分、その言葉を本当に言わなければいけないのは、何も出来なかった私だと思う。

 アライグマおじさんは先ほどの地図を取り出すと、まともや何かを書き込み始めた。

 今回は数か所に何かを書いている様子で、目当てであろう史跡にはよらず、「帰ろうか」とブラックマーケットの出入り口の方へと歩き始めた。

 私と菊さんは咄嗟では理解出来ず、数瞬遅れてアライグマおじさんに追随する形となった。

 ブラックマーケットから出るまでの間、アライグマおじさんは地図に何かを書き込み続けていた。

 周りからは視線は多く注がれるものの、誰もが私達を遠巻きにし、何かをひそひそと言い合っている。耳を澄ましても聞こえてくるのは『極東』、そして侍という言葉ばかり。

 その言葉に合致するであろう菊さんは気にも留めず、歩き続ける。だから、私もそれに倣うしか出来なかった。 

 ブラックマーケットから出ると、アライグマおじさんは額の汗か、それとも冷や汗を拭い「じゃあ、今日はここまでかな」とひょうきんな声をあげた。

「え?まだ2か所だけですよ?」と私が聞き返すも、アライグマおじさんは満足したように。

「それ以上に得る物はあったからね」と何故か満足気であった。

 史跡調査…と聞いていたのに、実際には本当にたった二か所だけ。

 それも、小さな石碑と、床に何かあると聞いただけ…本当にたったこれだけだった。

 ポカンとしていると、アライグマおじさんはニコニコと笑顔を浮かべ「街の東側の宿をとってあるから今日はそこで休んでね」と言いながら、菊さんに鍵を渡していた。

 菊さんは自然な動作で鍵を受け取り「ありがとうございます。でも、火遊びはお気をつけた方がいいですよ」と少し棘のある言葉だった。

 その棘のある言葉に、弱気そうなアライグマおじさんは…あの鋭さと、優しさを両立した笑顔を浮かべた。

「明日もよろしくね」

 アライグマおじさんのその言葉は強かった。

 威圧すら感じる程の一言に私は何も言えず、ただ頭を下げる。

 菊さんは丁寧にお辞儀をし「使いの者を待っています」と静かな言葉で返答していた。

 アライグマおじさんはそのまま片手を振りながら、街の北側の富裕層へと歩いていく。その背中を見送り私達は宿屋へと向かい歩き始めた。

 宿に向かいながら、言うか言わまいか迷っていたことを悩んだ末に口に出すことにした。

「菊さん…あの地図…」と私が言いかけたところで、

「戦略図でしょうね」と菊さんからの返答が帰って来た。

 私の頭はフリーズした。

 私は困惑した…。

 菊さんがさも当然のように答えた上に、斜め上の答えだったこともあり、答えあぐねてしまう。

「え?気付いてたの?」と何とか絞り出した答えは保身に満ちていた。

 戦略図なんて知らなかったのに、知っていた…とでも言いたげな私は本当に情けない。

 菊さんは思案するように。

「はい。恐らく防衛用の物かと。なので、あのアライグマおじさんなる方の商人というのは多分嘘ですね」

 そのまま、チラリと視線を動かせ、振り返る。

 菊さんが見ている方向を見ると、それはアルトヘイム城だと分かる。

「身のこなしに、あの目つき、したたかさ…恐らく騎士や、軍師に値する方かと思います。実際、ここに来るまでに忍者…は分かりますか?こちらでは何というのか分かりませんが、密偵のような方が数人後をつけていましたし」

 菊さんがチラリと物陰へと視線を送る。

 そこには前に出会った、配達人のロビン君とよく似た恰好の薄手のワイシャツ、長ズボン、そしてベレー帽のような帽子を被り、小脇には皮製であろう鞄を抱えた男性がいた。

 男性は特にこちらに気付いている様子もなく、自然な足取りで人混みの方へと消えて行く。

 菊さんはその男性を見送り、

「ふふ…緊張しましたが、正直楽しかったです」

 そう言いながら菊さんは胸に手を当て。

「私達は客寄せというところでしょう。冒険者…それも『青き風』を伴っているという事実に目を向ける為の」とそこまで言うと、またもや視線を動かした。

 片手を今度は商店が立ち並ぶ方へと伸ばし、

「まぁ…私は普段から依頼は受けないですし、物珍しい極東人を連れて…という意味で成功しているのでしょう。そうですよね?」

 その言葉を受け取る者はいない。

 ただ、足音が離れて行く…それだけは分かった。

「え?」と私があまりのことに呆気に取られるしか出来なかった。

 菊さんはクスクスと笑い「伊達に忍者のいる国で育ってませんよ」と楽しそうだった。

 その言葉でようやく尾行されていたことに気付いた。

 ただ、今一つピンとこない。尾行される理由もないはずだ。

 あるとしても、あのアライグマおじさんが、多分偉い人ということくらいだ。

 私や菊さんが尾行される理由…と考えても何もない、

「先ほどの方の御付きの方でしょうね。婦女子の寝所までついてこられると流石に無礼と思いまして、追い払っておきました。彼らの任務は私達の安全確保ですよ」

 菊さんの答えに、私は素直に呆気にとられた。

 それでもよく考えると、ブラックマーケットで、騒ぎこそ起こしてないものの、目を付けられたかもしれないから…という理屈は合点がいった。

「さぁ、宿に参りましょうか」

 菊さんは優しい口調で、何処か楽し気に先を歩く。

 誤った見方…というのはいつでも起こるのだと思った。

 偏見もしてしまうものだと思った。

 『極東』の噂を鵜呑みにし、菊さんとの初対面では恐ろしさすら感じていた。

 でも、真実を知れば自分の無知さが浮き彫りになった。

 『極東』は思ったような修羅の国ではなく、この世界なら…いや、元いた世界でもどこにでもあるような少し治安が悪そうなだけの場所で、菊さんはどこまで私を気にかけてくれる頼もしい先輩だった。

 知らないということが時に悲劇を産む。

 知らないをを認められるか、認められないか…それこそが無知の知なんだと、痛感した。

 思えば今日は知ったかばかりをしてしまった。黙って、情報が出るのを待ってばかりだった。

 思い立ったが吉日―だ。

「菊さん!」

 私は意を決して菊さんに声を掛ける。

 菊さんは面を食らったように、それでも優しく丁寧な口調で「何でしょう?」と私の呼びかけに応えてくれた。

「菊さんの旅の話、聞かせて貰ってもいいかな?」と私が続けると、菊さんの表情が曇った。

「えっと…理由とかでしょうか?それはちょっと…言い難いのですが…」

 菊さんにだって話難いことはある。それも分かってる。

 だから、その線引きは忘れてはいけない。

 旅の理由とか目的とか気にはなるけど、それはおいおい、菊さんが打ち明けられる時が来たらでいい。お互いを知るにはまずは明るい話題からだ。

「あの…コロボックルの話とか。私も借金があるから石鹸とか…作れたらって思って」

 私の提案に菊さんは口をポカンと開け「あ…」と溢したかと思うと、何処までも優しく、明るい笑顔で。

「はい!勿論です!是非、一緒に作りましょう!」

 菊さんに言い終わると、嬉しそうに頬を緩め、口元も緩めてくれた。

 それが、今日の仕事中、彼女がいかに気を張っていたを物語っていた。

 それに比べたら、私はまだまだ仕事と私事の区別が付けれていない。まさに、”ガキ”だ。

 成長する為にも、それ以上に…知ろうと、知るために前に進もう。

 まだ日は高いけれど、私と菊さんは宿へと向かい歩いていく。

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