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『序章』
目を開けると白い空間だった。体を起こして周りを見渡すが、白い空間がどこまでも続いていた。部屋の中央には白いローブを纏った老人が佇んでいる。
見覚えのない景色と人物に一瞬茫然としてしまうが、すぐに夢だと感じる。
太陽の光とも、電灯の光とも思えない白い光はどこまでも続く。そして、何度見返してもその老人がこちらをじっと見つめてくる。
「目覚めたか。」
荘厳な口調ではあるがどことなく柔和で物腰が柔らかな雰囲気だ。
はい、と答えたいところだけれど夢と認知している以上相手にしないほうがいい。夢を見ているということは熟睡出来ていないということ。
明日も学校がある、ちゃんと休んでおかないと明日の学業に触る。
そのまま眠りにつくために横になり、目を閉じる。
「え、寝ちゃうの?」と老人が声を掛けてくるが無視する。
勉強は苦手だ。テストでいい点を取れることも稀。だから学業態度くらいはしっかりとしておきたい。授業中に居眠りして内申点を下げられると卒業にも響きかねない。
勿論、内申点がどれ程成績に影響を及ぼすかなんて学生の私にはあずかり知らないが。
老人は嘆息のような息を吐き、「勝手に進めてしまうがよいかのう」と続ける。
聞かないふりというより、いかに早く深く眠れるかを重視した結果、老人を無視し脳の活動を抑えることにしただけ。
「君には世界を救う新たな勇者となって欲しいんじゃ」
その言葉に頭痛がした。
私にも存外中二病の素質があったようね、と軽く笑って済ませれないレベルのイタイ妄想。こんなことを深層心理で考えているなんて考えてしまうだけで自己嫌悪に陥る。
深層心理ではそんなものになりたいと思っていた…なんて本当に笑えない。
世界を救う勇者…そんなのはゲームや物語だけで十分。
現世を生きる私たちには不必要極まりない。
非現実性も、冒険というスパイスも、恵まれた環境で平和を享受して生きていられることに比べれば過剰な添加物にしかならない。
ましてや内容も、学校に押し入ってくる暇なテロリストと、それを脈絡なくご都合主義で撃退してしまう高校生と同じ。私はただの高校生で、戦いとは無縁に生きてきたから、そんなことを頼まれても出来る訳がない。
さっさとこんなこと忘れよう。夢なんて余程の内容でもない限り目が覚めれば8割は忘れられる。そして何事もなく、こんな黒歴史な夢も忘れて、明日も学校に登校すればいい。
「君にはもうそんな場所もないだろうに」
老人の冷ややかとも取れる声に何か違和感を感じた。老人の言葉にではない。むしろ私自身のことに。
右足に力を入れる。まるで虚空を切るような、何もない空間をこぐような不安定さと無抵抗感。浮遊感に似た感触。
ゆっくりと目を開け、自分の右腕を見つめる。それが繋がって…
「大丈夫じゃよ」
老人の声に反応し、思わず体を起こす。さらに、自分の右腕と左足を見つめ、軽く動かしてみる。
右腕も左足にも感覚はある。
だけど、それに違和感が混じり、むしろ空虚さも感じる。さっき感じたものは紛れもない真実だと体と心が告げてくる。
汗が頬を伝う。動悸と息切れで苦しい。覚えているはずだ、と体が告げているように落ち着かない。眩暈がする。
「私…あの時」
「もうよい」
柔らかい感触が私の頭をなでる。顔を上げると老人が柔和な笑みを浮かべ、私を覗き込んでいた。
落ち着く。小さな頃に亡くなった優しかった祖父を思い出す。
それに老人の纏うローブからだろうか、あの祖父の家で自然と嗅いでいた香りがする。
土と、イグサの畳、草いきれ…そういった懐かしい香りが落ち着かせてくれる。
ゆっくりと息を吸い、深呼吸を数度繰り返したところで、改めて老人の顔をまっすぐ見返す。
「落ち着いたようじゃのう」と老人は満足そうに頷き、私も頷いて返す。
「心配かけました。ありがとうございます。」とお礼を伝えてから、老人から離れ、一人で立って見せる。
「気丈なもんじゃ」と老人は感心するような口調の後に一枚の紙きれを見せてきた。
「ところで、君に一つ見てもらいたいんじゃが?」
そういって私に紙きれを渡してきた。紙きれとはいってもA4サイズくらいの紙であり、その材質は映画の世界でしか見ないような羊皮紙のような紙だ。紙には何かがびっしりと書き記されている。
紙自体は詳しくないので知らないけれど高級品だとは思う。
「紙ですか?」と一応確認すると、
「カミじゃよ」
老人は私に笑顔を向けてくる。意味が分からず、紙に書かれている文字を読み、そこに剣技や回避、工作、語学、魔術等といったような単語が羅列されていることが分かった。
老人はコホンと咳払いをし、
「簡単なアンケートと思ってくれんかのう?君にとって大事だと思うものをこの中から選んで欲しいんじゃ。そして、十段階かつ合計は10になるように選んで欲しい。」
その説明は分かりにくい。しかも何の意味があるのかも分からない。老人は説明を続ける。
「つまり、最大10のものに1か、一つのものに10とかでも良いぞ。もちろん、これは君の…」
「じゃあ語学に10で」
「まじ?」と老人は間の抜けた声をあげる。
思考を放棄した…訳でもないけれど、少なくとも私にとっては剣技とか魔法とかよりも生きていく上で語学は大事だと思う。
それよりも気になることがあるのでこの話題を真面目に取り合う気になれない。
紙を返すと、老人は「まぁよいか」と口ではいいながら困惑した様子ではあった。
「聞いていいですか?」と老人に話を切り出すと、老人は首を傾げてから「気になることでも?」と、質問に答えてくれそうな雰囲気を見せる。
こんなことを聞くのは私としても気恥ずかしさはあるけれど、私に戻りつつある記憶を整理するためにも 向き合う必要がある。
「天国なんて信じてませんけど、ここがそうなんですか?」
「そうではないが、似たようなものじゃな。その外側とは言えるかのう?」
外側と言われても分からない。ただ、嘘をついているようには見えない。考え出して一番近い言葉がそれなんだとは何となく理解出来たつもり。だからといって今のこの現状を理解出来たとは言えない。
ならここはどこだろう?思案していると老人は「話を戻そう」と切り出し、
「君には…そうじゃのう、有体に言えば異世界への転生をして欲しいんじゃ」
異世界への転生?
そう言われても漠然としてしまう。私が今まで生きてきた世界とは別の世界へ行く…なんて言葉では言い表せても実のところその言葉以外の表現が見当たらない。
近場の題材としては―
「異世界転生?最近流行ってるのかよく見かけますね」
私の言葉に老人はキョトンとし、「流行っとるのか?」と困惑するような表情を見せた。
流行っているかどうかは分からない。本は割と読むほうだけど、レビューは全く見ない私にとって、流行かそうでないかは、売り文句にベストセラーがついているか、いないかだけの判断しかしていない。
書店でたまたま目に入って買っただけの本が芥川賞受賞作品だった…なんてこともあるくらい。
「わからないです。ただ、そういう内容を題材にしている本は多いですね。余り好みの内容じゃないですけど」
素直に流行に疎いことと、好みではなかったことだけは伝えておいた。
正直、現世では出来ないことを自分の好きなように振舞えるから異世界は最高、みたいな内容だった。
私としては物語は山あり谷ありが好きで、平坦な平野だけが広がるような物語は好きになれなかった。
「あ、でも一概には言えないですね。第二次世界大戦の異世界に転生した艦隊シリーズは好きですね」
―といいながらも、やっぱりそういうジャンルでも好きな作品はあったのを思い出した。
私が付け足すと、老人は「戦争ものが好きなのか?」と聞いてきたので、首を振ってから「平和主義ですよ」と答えておいた。
「ファンタジーは嫌いかね?」とさらに聞かれたので、
「ファンタジーですよ?」
思わずこっちが驚かされた。
異世界へ行き、かつて出来なかったことを仲間と共に成し遂げる。周りと協力していかに敗北という名の勝利をつかみ取り、平和な未来をどう作るか。
これがファンタジーでないなら、私の知るファンタジーの物語は指輪物語だけになってしまう。
「それに勇者なんて私には無理ですよ。ただの高校生ですよ?」
「方便というものじゃよ。むしろ、君には違う世界で幸せになってほしいというわけじゃ」
幸せ―そういわれて、胸の奥が痛んだ。
怒りを覚えているのは分かる。でも、何に怒りを覚えたのか、分からなかった。
「興味ないです」と自分でもわかる程ツンケンとした態度をとってしまう。続けて、
「それを受け入れなかったら、私はそのまま死ぬんですか?」
私の言葉に老人は口を歪ませ渋々といった風にうなずいた。
死んだのは間違いない。なら、
「じゃあ地獄行きですね」
「なぜそうなるんじゃ?」と老人は困ったように眉をひそませる。
こういってはなんだけど、この老人はいい人で、私は本当に性格が悪い。自分で言っておきながら、地獄行きが当然だと思ってしまう。
「天国の外側と書いて、地獄とルビをふるような作品を読んだ事があるので」
軽口を叩く私に老人は、訝しむように「怖いのう。君達には最高か最低しかないのか?」と諭すような口調となった。もしかすると私の心の内は読まれているのかもしれない。
「…その間は、無間地獄ですか?」
「酷くなっておるような気がするのう」
呆れた様子を見せながらも、どちらかというと私の言葉を引き出そうとする姿は、むしろ合いの手を入れてくるようにも感じる。
「献身的に、君の為にと思って勇者として選んだのにのう」
「献身的なら上から目線やめて下さい。ただの押し付けじゃないですか」
言ってから、これは言葉を引き出された、と感じた。ワザとらしい。思慮にかける言葉には倫理観で攻撃しやすい。攻撃的な言葉にはその人の本性が出やすい。それを見越されたのかもしれない。
今の私にとってはそのことでマイナスとなることはない。内申点が下がって困るのは学校授業だけで、進級出来ないのが痛手となるから。
ここで内申点がさがったところで、勇者とならずに済むだけだからむしろ良いこと尽くめ。
「私は死んだんですよね?」
私の直接的な確認に老人は、多少迷うように口ごもり
「そうじゃな。思い出してきてはおるのだろう?」
思い出してきている、という言葉に頷いて返す。
大分思い出した。私は身勝手だからあの子のことなんて考えずに、自分の思った通りの行動をして自己満足していたのも覚えている。
最低だ。誰かを失う覚悟がないから、私はその覚悟を誰かに押し付けてしまった。あの子の傷も考えずに。
「そうですね。まぁ、ここがどこであれ天国に行けるとは思っていませんよ。腹をくくらないと、ですね」
「やけに地獄を推すのう」と今度は本当に呆れたられた。
実際問題、さっきから地獄行きとは言っているけれど、内心天国に行きたい気持ちの方が強い。
「聖書の内容や、仏教徒の教えから考えたら大抵の人が地獄行きだと思うんですけど?」
「教えの内容は注意歓呼しているに過ぎんじゃろ。」
優しい言葉だった。もし、この老人が私が考えている通りの存在なら、物腰の柔らかさといい、懐の深さ。傲慢ではあるけれど、随所にある思慮深さから、存外良い存在なのだと思う。
「そうはならぬよう努め、振り返り後悔し懺悔する。そうして善性を育むものじゃ。」
善性を育む。人はお互いの善性でかろうじて生きているし、生かしあっている。今日の世界が発展していくのはお互いの善性のおかげなのだろう。だから、悪意が目立つ。
今の私のように、不必要で身勝手な悪意の攻撃性が。
そしてようやく分かった。解きほぐされるように言葉を紡いでいった結果、私が何に怒りを覚えたのか。それと向き合うと本当に恥ずかしい限りで、この老人には頭が上がらない。
今、この場で改心してもいいと思える。
だけど、人が人智を超えた者に勝つのは邪悪さである、と何かに書いてあった気がする。もしそうなら、私はいまこの存在に勝つために、思いを伝える為に人間らしさを見せるしかない。
「あ、でも今からクリスチャンになったら天国に行けますか?」
「浅はかな信仰じゃ。敬虔なキリスト教徒が聞けば激怒じゃすまんぞ」
あなたは怒らないんだ、とクスリと笑いそうになる。
人を糾弾するのは常に人だ、と言いたいようにも聞こえる。
それを許すか許さないかは、許せる度量があるかはそれを決めた本人達だ、と。
「日本は信仰の自由が認められていますから。それに学業信仰が盛んなんですよ。知識あるものは道を拓ける。いい学校でいい点数を取っていれば幸せは約束されているみたいな」
得意げに言ってはみるものの、私の成績はオール3がいいところ。秀才や天才達に言わせれば「何言ってんだこいつ」と言われそう。
自分で言っておきながら自分で傷つく。人それを自業自得という。
老人はやれやれと首を振り、
「皆がそうでもなかろうに。自分がそうだからと、他人を巻き込むのは他人を蔑ろにしてはおらんか?それがもし世界の本質だとしても他人を貶める免罪符にはならんだろうに」
その通り。論理は誰かには正解であっても、それに当てはまらない人だっている。決めつけはよくない。
『世界』や『社会』、『皆』なんていう言葉のように個人を無視して一括りにすれば正当性は生まれやすいけれど、この老人の言っているようにその枠外の個人を蔑ろにしている。
集団が認めているから、という数の暴力で、個人を無視している。
―なら、個人として、個人に対して言うことはこれに当てはまらないの?私は違うと思う。
「けど、あなたのやっていることも一緒じゃないですか。勝手に選んで、勝手に決めてつけて。個人を蔑ろにしてはいませんか?それがもし正当だとしても個人の幸せの見解への冒涜ですよ」
私の答えはこれしかない。老人は静かに私を見つめ、ふむ―と。思案しているように見える。
私は自身をもってこれだけは言える。
「私は幸せでしたよ。納得もいっています。出来れば生きていたかった、やり残したこともあった…でもそれだけです。幸せであったことは揺るぎません」
言い切った後に、思わず大きく息を吐く。緊張している。思いのたけを一対一でぶつけるだけなのに、言ってみるとこっぱずかしさが出てくる。
言った事に後悔もしている。始めから、「私は幸せでしたので、決めつけないでください」と言うだけでよかった。でも、この老人の物腰の柔らかさに引き出さされた。
老人は成程、とつぶやいてから、
「理不尽に与えられる幸福は不自由な不幸と変わりない、か」と一言置いてから、
「なるほどのう。それが言いたかったのか。そうじゃな、すまんすまん!若くして命を落とし、不幸だったね、なんて片づけるべきではないな!それは君の人生を『不幸な人生』と決めつけているに過ぎんか!」
老人は大きく笑いだす。それは私を嘲笑していることはなく、むしろ教え子の成長を喜ぶ教師のようにも見えた。
手加減しながら相手してくれて、自分の想像の少し上を言ってくれた若輩の成長を素直に喜ぶ、そんな様子だった。
「君には幸せもあったろうに。それに幸せの形を、自分を知らない赤の他人に勝手に決めつけれるのは癪にも障るか」
そして、言いたいけれど中々言葉に出来なかった部分まで答えを出してくれた。
「ごめんなさい。つい…話易くて。」
素直に謝っておいた。この老人と話をして心が軽くなったのは間違いない。何に対してか分からない不安や怒りを言葉にし、向き合うことが出来た。
「よい。そうじゃのう。君も耐えてくれておったのじゃな。怒らせると怖そうじゃ」
気にしていないといった風に老人は笑顔を向け、
「余程、愛しておったのじゃな。順風満帆じゃったか?」
そんな意地悪な質問を満面の笑顔で問いかけてくる。
分かっている癖に、と少し呆れる。
「ベタ波の魔女の海域のような人生でしたね」
「船乗りが泣きそうな惨状じゃな」
「同意ですね。でも順風満帆だけが幸せじゃないですよ。凪でちっとも進まなくても、そよ風を頼りに少ししか進めない人生もいいものですよ。見方を変えれば釣り糸を垂らせば魚釣りも出来ますよ」
静かな水面に糸を垂らし、思考を纏める。かの釣り好きの仙人、太公望のように。その場にとどまり考える時間だって大切だ。
「凪の海で釣りか。釣れはせんじゃろうが、静かに過ごせそうじゃな。しかし、ちっとも進まんのも考えものじゃな」
悪戯っぽい答えに、私はむくれて見せる。今の詩的でよかったと思うのに。
「幸せと困難の割合は3対7くらいが丁度いいと思いますよ。失敗続きでも幸せな時や成功した時の味は格別ですよ」
「辛さが幸せになっていなければいいがのう」
老人はからかうような言い方だったが、嫌悪感はない。むしろ、今はこの老人との会話を楽しんでいる自分がいる。
老人の話し方は半肯定をしながらも、半分を否定はしない。話し上手で聞き上手と素直に称賛したい。
「マゾヒズムじゃないですよ。マルキ・ド・サドの作品は1冊だけ読破したことがありますけど、ザッヘル・マゾッホの方は読み進めるのが辛くて途中で投げ出しちゃいましたし」
なので、私は意地悪な言葉で返す。反応に困るような題材を持ち出してみると、老人は口元を歪めた。
「読む本の内容が極端すぎじゃ」
老人の反応に思わず得意げに笑みがこぼれる。悪戯を成功させた子供の気持ちがよくわかってしまう。
「知見を広げるのも大切だと思うんですよ。変態文学だからとかいう前に、見てから、読んでからじゃないと避難も否定も肯定も出来ません。ただの偏見は嫌いですし」
「ほほう、感想は?」
畳みかけようとしたところ手玉に取られる…なんてよくあること。
老人の柔軟な返しに言葉に詰まる。
素直な感想を述べるなら『変態文学』の一言に尽きる。だけど、そう言ってしまったら恥を忍んでの言動が、本当に恥だけで終わる。
自分の物言いを振り返ると恥ずかしくなる。得意げに変態作家と名高いマルキド・サドの名前を出すべきではなかった。
賛否両論の題材なら『異邦人』。偏見への題材なら『ドグラマグラ』とか色々あったのに。
「私的な感想ですけど、サド作品は文章の表現の奇麗さとか、詩的な表現は素敵に思いました。性的描写は割愛しますが、内容であやうく鬱になりかけましたよ。あなたもどうですか?」
言い終わってから徐々に顔が熱くなる。恥ずかしい。得意げに言うべき内容では決してない。恥ずかしさを紛らわせるために推薦してみた。
「魔導書並みに危険じゃな。遠慮しておこうかのう」
老人のひょうきんな物言いで受け流され、私は完敗した。赤っ恥をかいた。少しくらい困惑して欲しかった。
「成程、人間は自由に生きる。そして、偏見がそれを狂わせるか」
老人は呟き、急に笑い出した。それも哄笑といった笑いだ。
「気に入った。改心しよう!」
大声でそういったと思うと何かを払うかのように手を振り、
「じゃが、君には諦めてもらおう」
その言葉の意味を理解するより早く体が後ろに引かれた。何かに吸い込まれる感覚。振り返ると、白い世界の中に明らかに異質な、深淵のようにぽっかりと開いた黒い空間が広がっていた。
「行ってこい!新たな勇者よ!」
「ちょっと!なんでそうなるのよ!」
必死に踏ん張り、老人を掴もうとするも吸い寄せられる力が強く手は空を切った。
「君なら、あの世界を新たな光と熱で灯せるであろうからな!それに困難とそれに打ち勝つのが好きなのであろう?」
「限度がある!」
足が地面から離れる。慌てて手を伸ばし黒い空間の縁を掴む。しかし、手がしびれてきた。もうそんなに持たない。きっと出来ることは恨み言一つ言えるくらい。
「教えて!」
あらん限りに力で叫ぶ。そして、老人の言葉を待たずして、私の本当に聞きたかったことを告げる。
「あの子は無事なの」
私の言葉に老人は柔和な笑みと、優しい瞳でゆっくりと応えた。それだけでわかる。少しの時間だったけど、おおよそこの老人からは邪悪さは感じられないし、傲慢に感じることはあっても、思慮深い。
「安心せい」
「なら…」
その言葉に思わず力が抜けた。
暗闇の中に吸い込まれる。遠くなっていく白い空間を見つめ、「ありがとう」と呟く。
ゆっくりと目を閉じ、流れに身を任せることにした。
少女が去った後、老人は一人空間に残り、ゆっくりと息を吐く。
あの少女の存在は痛烈で、思い知られるところもあった。
勝手な決めつけによる幸福の押し付け。たった一つの事象で不幸と決めつけられることへの不快感。
人間は自ら進み、自ら切り開き、未来を創っていく生き物だ。それが破滅だとしても自分で決めた道を進む。それが人間。
もう、この世に奇跡は必要ないと、それが正しかったと思わざるをえない。
それ程までに人間は己の力で道を進んでいく。
すこし捻くれた形ではあるが、それを体現し人間を信じ、現世を愛するが故の真っすぐさには心を打たれた。
熱と光―まさにそう呼ぶに相応しい。
それに、あの少女が助けたあの子の無事を聞くや否や『よかった』等と安心していた。
まるで現世への心残りはそれだけ、とでも言いたげではあったが、その優しさは伝わった。
だからこそ、危うさもある。だが、期待もしてしまう。
「よい勇者になるんじゃぞ」
既にこの場にいない少女に小さな応援を送り、老人はその場を離れた。