7:俺のタマ食えよ
レイス。
ファンタジー作品でお馴染みの、幽霊的なモンスターの一種だ。漢字を当てるなら〝幽鬼〟だろうか。
もちろん目の前にいるのは半透明の霊体ではない。れっきとした生ける獣だ。その呼称はこの真っ白なローブをかぶったような外見からつけられたものだろう。
レイス。ユニコーンを除けば、オーガやオルトロスと並ぶオオツカメトロ地下五十階における最上位の存在。
タミコの話によれば、少なくともレベル50以上。愁の三倍だ。
「……マントヒヒ……的な……?」
相手から露骨な殺気を感じられないせいだろうか。冷静に相手を観察する余裕が戻ってくる。
全身にまとう白いローブのようなそれは、長くてまっすぐな体毛だ。それが頭から手首足首までびっしりと覆い、力なく垂れ下がっている。
長髪から覗く顔は、骸骨を思わせるほどに痩せこけた猿だ。まん丸い目は黒目だけが占めているように、あるいは真っ黒な穴のように見える。
身長は二メートル近くありそうだ。体毛のせいで体格は隠されているが、おそらくかなり細身だろう。腕が異様に長い。剥き出しの手足の先には節くれだった五本の指がある。
「……足音、聞こえなかったな……」
本物の幽霊ならともかく、こいつはメトロ獣、命あるケモノだ。ゴブリンに注意が向けられていたとはいえ、愁もタミコも、その姿を見るまで接近を気づけなかった。
――菌能だ。ユニコーンと同じ、動作の音を消す能力。
どういう仕組みになっているのだろう。消音なんて菌糸と関係ない気もするが。
レイスはそのうろのような目で愁を見据えたまま、身じろぎ一つしない。呼吸による上下動もない。本当に幽霊ではないかとさえ思えるほどに。
――いや、違う。この化け物の存在感は幻やまやかしなどではない。
強者の獣が持つ暴虐的な威圧感とは違う、静けさの中に潜む底知れない不気味さ。
それを感じとる愁の肌は、全身ぐっしょりと大量の汗で濡れている。
こんなやつは初めてだ。
(――嫌だ。無理だ)
(絶対に戦いたくない、けど……)
このまま逃がしてもらえるとは思えない。
「……タミコ、先に逃げろ。俺が時間を稼ぐから……」
愁はレイスから目を離さないまま、一歩あとずさる。
「……アベシュー、でも……」
タミコの声は泣きそうだ。
「――ボ」
レイスがわずかに口を開く。鉄パイプに空気を通したようなくぐもった声だ。
ゆっくりとその長い腕が持ち上がったかと思うと、その巨体が膨れ上がる。
――いや、違う。ただ一瞬のうちに、距離を詰めただけだ。体勢を変えず、瞬間移動かと思うほどのスピードで。
長い腕が斜めに振り下ろされる。愁はとっさに盾を掲げて受け止めるが、衝撃が肩を突き抜け、頭から地面に叩きつけられる。バウンドして地面を転がり、仰向けになる。
天井のホタルゴケの光が、宇宙の果てほどに遠く感じられる。
――ここで死ぬんだな。
頭で、全身で、それを悟る。
「……かふっ……」
喉に詰まった息を血とともに吐き出す。だが肺が空気を受けつけない。
盾が砕けている。左の前腕が針金みたいに折れ曲がって、骨が皮膚を突き破っている。肋骨も数本逝っている。もはや痛み以外の感覚がない。
「アベシュー!」
タミコの呼びかける声が聞こえても、起き上がろうという意思が湧かない。
「――ボ」
頭を掴まれ、引き起こされる。愁の足が浮く、身体が宙吊りになる。
「――ボ」
レイスが右手を引き寄せる。虚の目が愁をぼんやり見つめている。
「ひっ……」
愁は恐怖で声を詰まらせる。
万力のようにゆっくりと、右手に力がこめられていく。
「あがっ――」
愁の頭蓋骨がみしみしと軋む。反応を窺うように、レイスが首をかしげて覗き込む。
愁は震える手でレイスの手首を掴む。全力で握りしめても、その腕はびくともしない。
「あっ、あっ――」
視界が赤く染まっていく。ぱきっと不吉な音がして、こめかみから血が噴き出す。
「ああっ、ああっ――!」
「ぴぎゃー!」
甲高い声とともにタミコがレイスの右腕に飛び乗る。
「クソエテコー! アベシューをはなすりす!」
頭を白い体毛に埋もれさせる。かじりついているようだ。
「た、タミk――」
ばしん、とレイスのてのひらが自分の腕を打つ。
「――え」
ゆっくりとその手を上げると、右腕に赤いしみがついている。まるで血を吸った蚊をつぶしたように。
そこからぽとっと塊が地面に落ちる。丸まったタミコの血まみれの身体が。
「ああ――」
愁の中でなにかがふつりと切れる。
「――ボ」
「ああああああああああああああああっ!」
でたらめにレイスの右腕を殴る。殴る。だが拘束は緩まない。
愁は手を止め、ぽぽぽっと指先に赤い繭を生じさせる。
「ざっけんなぁあっ!」
それを直接、レイスの右腕にぶつける。
燃える玉だ。爆ぜる、三倍の火力で。
「ボッ!?」
頭を掴む握力が緩み、その隙に愁は力任せに振りほどく。
「タミコっ!」
タミコの身体をすくい上げようとして、右手首から先が吹き飛んでいるのに気づく。思い出したように激痛が脳みそまで突き刺さり、思わずよろめく。
顔を上げると、レイスと目が合う。虚の目はそのままに、目尻や眉間、というか顔中に血管らしきしわが浮き上がっている。三連燃える玉を浴びた右手首の付近の体毛が焼け焦げているが、ほとんどダメージはないようだ。
「ボォオオオオオオオッ!」
口を開け、まるでサイレンのような無機的なおたけびをあげる。明らかに怒っている。はっきりと感じられる殺意だ。
そして、左手の指をそろえ、貫手のようにまっすぐに放つ。
ぎゅんっと大蛇のように伸びて迫るそれを、愁は脇腹をえぐられながらかわす。だが次の瞬間、衝撃は背中から襲いくる。
「げぽっ!」
愁の口から大量の血がこぼれる。へその横からレイスの指が生えている。腕がしかも関節の構造を無視して直角に曲がり、後ろから愁を貫いたのだ。
「ボボッ! ボボッ!」
レイスが勝ち誇るように口元をにたりと歪める。目が真円から半円になる。
そのまま、だらりと弛緩した愁の身体をぐいっと引き寄せる。そして、かぱっと口を開く。耳まで裂けるほどに、一口で愁の頭をかじりとるほどに。
「――バカかよ」
愁は血と一緒に吐き捨て、その口に折れたままの左手を突っ込む。
そして、今度は愁が笑う。身を裂かんばかりの怒りをこめて。
「俺のタマ、食えよ」
その腕をレイスがかじりとるより先に、愁は生み出した三つの菌糸玉を握りつぶしている。
レイスの口から、鼻から、そして虚の目から。
轟音とともに光と炎が噴き出し、レイスの巨体が崩れ落ちる。
「ンブゥッ、ンブゥウウッ!」
驚くことに、レイスはまだ生きている。
顔面が内側からちぎれ、目から血の涙を流しながらも、ばたばたと身悶えて暴れ狂っている。その拍子に愁の身体を貫く指が抜け、愁は地面に投げ出される。
「……タミコ、タミコ……」
彼女はすぐそばで倒れたままだ。彼女は答えない。目を閉じて、小さな身体をひしゃげさせたまま動かない。
愁は再生途中の右手でどうにか彼女を持ち上げ、そっと懐に入れる。
彼女の倒れていたところには、菌糸の残骸が割れてちらばっている。
タミコ、第二の菌能、菌糸甲羅。
胴体に硬質な菌糸の殻をまとう、亀の甲羅のような見た目から菌糸甲羅と呼ぶ能力だ。レイスにつぶされる寸前、彼女は菌能を発動していたようだ。
さすがは師匠。とっさに最低限のガードをしたのだ。
それでも、傷は深い。
(だいじょぶだ、タミコが死ぬもんか)
(死なせない、絶対)
そう自分に言い聞かせ、愁はよろよろと歩きだす。角を曲がる寸前に振り返ると、レイスはまだ破壊的にのたうち回り続けている。
***
無我夢中で隠れ家の穴に潜り込み、足で蓋用の石を動かしてふさぐ。
小部屋に入ると、愁は膝から崩れるように座り込む。
「ふうっ、ふうっ……」
生きている。
生きてここに戻れた。
信じられない。あの化け物から逃げられたなんて。
改めて身体が震える。だが、安堵も恐怖も興奮も後回しだ。今はそこに浸っている場合ではない。
再生した手でタミコを懐から出す。彼女の背中が赤く濡れていてぞっとするが、腹を貫かれた愁自身の血だと気づく。彼女を毛皮の毛布の上に寝かせる。
彼女の手足は不自然な方向に曲がっている。尻尾はだらんと投げ出され、真っ白で毛艶のよかった腹に血がにじんでいる。重傷なのは明らかだ。
「タミコ!」
呼びかけても返事はない。そっと首のあたりに触れてみると、まだぴくぴくと脈は感じられる。腹がかすかに上下している。生きている、まだ。
「タミコ、おい!」
さらに声を張り上げる。それでも彼女は目覚めない。弱々しい、短くて細い呼吸をかろうじて続けているだけだ。
「お前、魔獣なんだろ! あんなクソザルのハエ叩きでノビてんじゃねえよ!」
どうすればいい。
動物の治療なんてしたことがない。怪我の具合を診断することさえできない。
とにかくありったけの薬を。これまでタミコの指示で集めてきた薬草を。
擦り傷切り傷向け、打撲向けの薬草をすりつぶし、タミコの身体に塗る。
傷の治りが早くなるという薬草の汁を、タミコの口に含ませる。ほんの少し喉を通るが、大半は口の端から漏れてしまう。
「タミコ……がんばれ……俺がなんとかしてやるから……!」
彼女を温めるようにてのひらで覆う。その手は震えている。
「俺を助けようとしやがって……」
弱いくせに、人一倍臆病なくせに。
「俺のせいで……俺が弱かったから……」
あのとき、完全に心が折れていた。
ビビって思考も止まって、死ぬことを受け入れていた。
実際そうなっていただろう。タミコがいなければ、タミコが庇ってくれなければ。
なのに。
「ざけんなよ……一緒に地上に出るんだろ、タミコ!」
なにか、自分にできることはないのか。
手が吹っ飛んでも腹に穴が開いても勝手に治るのに。
傷ついて苦しんでいる相棒を救ってやることもできないのか。
なにかないのか。こいつを治せるなら、なんだってしてやる。
レイスでもオーガでも狩ってやる。だから――。
「なあ、どうしたらいい? お前がいなきゃ、俺は……タミコ!」
なんのための能力だ。
なんのためにこんな世界に目覚めたのか。
こんなわけもわからない世界に。
相棒一人救えずに、じゃあこの力はなんのために――。
「……え……?」
気がつくと、てのひらに球体が生えている。
五つ目の菌能、乳白色の甘い菌糸玉。
自分でそれを出そうと思ったわけではない。無意識だ。
(……これを……?)
そしてやはり確信があるわけでもなく、愁はそれをぎゅっと握りつぶす。
白みがかった液体がぽたぽたとこぼれ、タミコの全身に降りかかる。
「タミコ――」
液体はタミコの身体にスポンジのように吸い込まれていく。
血のにじんだ腹が洗われていく。
折れ曲がっていた手足が徐々に、正しい方向へと戻っていく。
けぽ、とその口から血の塊が吐き出され、そして――。
「……アベ、シュー……?」
タミコの目が開く。
愁はへたりこみ、拳を握りしめる。唇を噛みしめる。
「……なんで、ないてるりすか……?」
「……泣いてねえし。汁が目にしみただけだし」