30:魔人病
「ノア……これも菌能なの……?」
愁は振り返らずに、怪物に変貌した頭領から視線を離さずに尋ねる。
「……いえ、違うと思います……ボクも、これは……」
「タミコ、レベルは?」
「みっ……みえないりす! わかんないりす!」
「まっ、マジ!?」
今までそんなことは一度もなかった。
タミコのリスカウターでも測れないナニカ――。
死と隣り合わせの五年間を生き延びてきた愁の危険度センサーがギュロロロと不快音をがなりたてている。
(これは――人でも獣でもない)
(もっとなにか――やべーやつだ)
恐怖を感じていられる余裕さえない。やらなければ死ぬ。確実に。
愁は左手に菌糸大盾を、右手に菌糸刀を、背中の菌糸腕に二刀を握る。それらに青白い胞子光をまとわせる。ボススライムと戦ったときと同じスキル構成、これが愁の「本気の全力」の姿だ。
「二人とも、離れてr――」
愁が言い終えるより先に、頭領が四足をぐっと縮め、地面を蹴る。かすかな星明かりが巨大な影に覆われる。
真上から降ってくるものから間一髪で飛び退く。愁の立っていた地面がズドンッ! と割れて陥没する。衝撃と震動でざわざわとあたりの鳥や獣が騒ぎだす。
もうもうと舞う砂埃の中心で、その背中にボコボコとコブが生じ、皮膚を突き破って無数の腕が生えていく。赤白の、筋繊維と菌糸を撚り合わせたような腕だ。
それらが血まみれの五本の指を広げて夜空に昇り――ぶわっと愁に向かって流星のように降りそそぐ。
「マジかっ!」
怒涛に押し寄せる腕を、愁は三振りの光る刃で斬り払う。それでもすべてを捌くのは無理だ、たまらず広場のへりまで跳んで逃げる。
しかし腕がぎゅんっと方向転換し、地面スレスレを這うように追撃してくる。「こわっ!」と寸前で避ける前の居場所に腕の雨が突き刺さる。
「ばっ、化け物!」
「なんだこりゃ!」
野盗の部下たちが目を覚ましたのか。腕がそれに反応し、ぎゅんっと狙いを変えて部下たちに掴みかかる。
「ひゃあああっ!」
頭領の口がぶわっと膨れ上がり、鷲掴みにして引き寄せた部下をまとめて二人、バクッと喉の奥に放り込む。首がイモムシのように蠕動して腹に収め、大きなげっぷをする。
「ああああああああっ!」
広場はたちまち阿鼻叫喚、部下たちが傷んだ身体を引きずりながら逃げ惑う。それを頭領がのしのしと追いかけ、触手の腕で捕らえにかかる。
別にやつらを助けるつもりはない。隙だと思っただけだ。
愁は後ろから背中に飛び乗る。腕を根元から薙ぎ払い、腰を屈めて「ふっ!」と刀身の半ばまで突き刺す。
(やったろ!)
(つか、これで死んで!)
一瞬、頭領の動きが止まる。「ギッ!」と引きつった悲鳴のような声が聞こえる。
「――うおっ!」
ズタズタになった背中の表面が爆ぜ、再び腕が生じる。後方に着地した愁を追いかけてさらに伸びてくる。栄養豊富なプランクトンの渦を狙う魚の群れのように。
(絶対心臓突いたやん!)
(なんで死なねえの!?)
(つーかはええ! 追いつかれる!)
とっさに燃える玉三つを投げ放つ。腕の束が爆ぜ、何本かをちぎり飛ばすが、それでも勢いは止まらない。
一度は横に転がって回避する。だが腕の束は直角に近い方向転換をして、再び愁へと迫る。
愁はバリッと歯を食いしばり、大盾を前に構える。
視界を覆い尽くすほどの密度の攻撃を、正面から受け止める。
勢いにはじき飛ばされる――が盾で勢いを後ろに逸らし、身体を真上に持ち上げる。
「らあ――っ!」
回転しながら腕を斬りつける。三本の青白い太刀筋が腕の束を両断し、どす黒い体液がこぼれる。
そのまま腕の束を足場に着地し、胴体へ続く世界一気持ち悪い道を駆けだす。
(胴体がダメなら、頭しかねえだろ!)
感知胞子が背後に迫るものを捉えている。
切られた腕が再生し、Uターンして愁を追っている。
それでも愁のほうが一歩早い。
腕に追いつかれる寸前で跳躍し、頭めがけて刀を振り下ろす。
渾身の一撃が硬質な衝突音を響かせる。
「――マジか」
愁の刀は頭領の歯に文字どおり食い止められている。
光の刃が口角に多少食い込んでいるが、それでも顎を切り離すには至っていない。
今度は頭領の首筋からずりゅっと腕が生える。愁がとっさに構えた大盾を掴み、力任せに叩きつける。
「がっ――」
背中から地面に落とされて、息が詰まる。衝撃で目がくらむ。
仰向けになった愁の頭上から無数の腕が降ってくる。とっさに菌糸腕の手を地面につき、愁の身体を引っ張って頭の方向へと滑らせる。それでもすべてはかわしきれず、片耳と脇腹をえぐられる。
「……ウデ、ウデ……ホシカッタノ……」
「……は?」
「イッパイ、アッテ、ヨカッタネ……」
「……はい?」
痛みを堪えながら体勢を立て直す愁に、頭領がまたも抑揚のない声で言う。
もはやなにを言っているのかまったく理解不能だ。というかそれどころではない、その隙に痛みをこらえて体勢を立て直す。
もうなにがなんだかわからないが、目の前に立ちはだかっているのが正真正銘の怪物であるのは明白だ。
そして愁はというと、なにげに補給を忘れて久しい。最後にものを食べたのは、車に乗る前に干し肉をかじったくらいか。
もう一度刀を三本、大盾を一枚出す。胞子光をまとわせたところで身体がずしりと重く感じられる。空腹と疲労の蓄積が無視できないほどになってきている、えぐられた傷の再生も心なしか鈍い。これ以上長引かせるのは危険だ。
「……モット、ミセテ……キレイナノ……アベシュウノキラキラ……」
名前を呼ばれ、愁の背中がぞわりと粟立つ。
「……ホラ、ウデ、ミテ……オシリカラモデルヨォオオオ!」
宣言どおり尻から腕が伸びてくる。赤白まだらの無数の腕が。
愁はギリギリまで引きつけて横にかわし、菌糸腕の振り下ろしで断つ。
そのまますれ違うように距離を詰め、大盾を投げつける。
フリスビーのように回転しながら飛んでいくそれを、頭領が頭を振ってはじく。
その隙に愁は頭領の真下に潜り込んでいる。
(背中がダメで)
(頭も防がれるなら)
(腹しかないじゃない)
「ああああっ!」
スライディングしながら胸から腹、下腹部へと切り開き、股の間から出て向きを変える。血が大量にこぼれ、腸がぼたぼたと垂れ下がる――だがそれでも頭領は意に介さずにずしずしと足踏みして向き直る。
「……いやいやいや……」
(バケモンつーか)
(もはやゾンビとかそっち系やん)
今度は切り開かれた腹から黒い腕が生じ、左右から挟み込むように愁へと伸びる。
手数が違いすぎる、迎撃は無理だ。押しつぶされる寸前で後ろにステップして逃げる。両手がガシガシとぶつかり合って絡まり合い、頭上でうねうねとミミズの球体のようになる。気持ち悪いことこの上ない。
「アベさん!」
「アベシュー!」
ノアとタミコは頭領を挟んだ向こう側にいる。挟撃するつもりか。
「手ぇ出すなっ! 隠れてろっ!」
再び頭領の背中から腕が生じ、ノアとタミコへと向かう。
間一髪でそれをかわしたノアだが、追撃の腕がその身体を薙ぎ、吹っ飛ばされる。
「ノアっ!」
愁の指先から放たれる電気玉×2。赤白腕がそれらを薙ぎ払った瞬間、閃光が爆ぜて電流が走る。
束の間の硬直。その間にタミコと起き上がったノアが距離をとっている。
しかし電撃のダメージのほうはほとんどないようだ。愁のほうに向き直り、品定めするように赤い目でギロギロと舐め回す。
「……ベベベ……アベベベ……アベマママ……マブシイヒカリ……」
「マジで不死身かよお前……」
やはり頭をつぶすしかないか。
立ち回り的に、あそこが一番警戒されている。ということは弱点である可能性も高い。
(隙がほしいな)
できれば二・三秒くらい。
防御をかいくぐって渾身の一撃をくらわせるために。
「――アベさん!」
遠くから声が聞こえる。走ってくる影がある。
ノア――ではない。もっと大きくて太い。足音がどすどすと響いている。
オブチだ。
「くらえっ!」
オブチの手から数本の瓶が投げ放たれる。高く放物線を描いたそれらが、赤白腕の小虫を払うような迎撃と空中でぶつかり、割れる。透明な液体が頭領の身体に降りかかる。
「ユイ様っ!」
「だわさっ!」
オブチの肩から飛び立ったナニカが地面を駆け、愁の頭を踏み台にしてさらにジャンプする。
宙に踊るその小さな影は。
(マジすかあああああああああっ!)
――ネコだ。
ネコが口から赤い玉を吐き出す――愁の燃える玉と同じ色の菌糸玉だ。
頭領の頭に着弾したそれが小さく爆発し、大きく燃え上がる。
「アルコール度数九十五パーセントのウォッカです! 燃えますよ!」
頭領が頭を振り乱している。効いている、火を消そうともがいている。
「……アツイ……アツイ……ヤキムラスギ……」
腕が身体に絡みつき、火を消そうと蠢く。
愁はぐっと身を屈め、一直線に跳躍する。
腕の茨を突き進み、身体中を削られながら、
その眉間へと光刀を突き刺す。
巨体が大きく揺らぐ。
「キィイイッ! アベシュウ……モット、モット……!」
「気持ちわりーっての!」
菌糸腕の一振りが首を刎ねる。
切り離された頭部がくるくると宙を舞う。
それと目が合う――笑っているように見える。
――アベシュウ、マタネ。
そう言ったように聞こえたのは、気のせいか。
「――うっせえ、俺のタマでも食ってろっ!」
ピッと直線の軌道で放たれた燃える玉が、生首のぽかっと開いた口に飛び込む。
ボンッ! と頭が爆ぜ、肉片がぱらぱらと降り落ちる。
ずしん、と横倒しになった巨体が、そのままじわじわと融けて黒ずんだ液体となり、地面に広がっていく。
肉の腐ったようなにおいのする蒸気があたりに充満する。そのまま骨も残らず、真っ黒な地面のしみとなって消えていく。
愁はふらりとよろめき、その場にべたっと尻餅をつく。
いっとき、一切の物音が静止する。広場に静寂がやってくる。
「……はー、しんど……」
強敵だった。あのボススライムとまではいかなくても、軽くレベル60は超えていただろう。もう一度ガチンコしても勝てる自信はない。
体力が限界だ。今すぐ栄養のあるものを食べないと、もう歩けそうにない。眠い。フジツボの上でいいから横になりたい。
「アベシュー!」
「アベさん!」
タミコとノアが駆け寄ってくる。二人とも無事そうでよかったと思っているうちにノアに首に抱きつかれタミコに頭を乳首に押しつけられる(ドリル)。
「よかった! 無事でよかった!」
「ぴぎゃー! こわかったりす! ちじょうおっかないりす!」
これを両手に華と言っていい状態かわからないが、ひとまず顔にボリューミーな乳を押しつけられつつ乳首をいじられるという困った事態。
「……アベさん……」
振り向くとオブチが立っている。ボコボコの豚っ面が泣きそうになっている。
「えっと、オブチさん?」
「はい、改めまして、オブチ・ロウタと申します。見てのとおりの〝豚人〟です」
「オーク?」
「はい、豚の亜人です」
「なるほど、亜人ね」
超能力にモンスターに魔獣にゾンビに、おまけに亜人までいるのか。シン・トーキョーの懐の広さに感服。
「ぶひゅー……この状況について、まだ理解が追いついていないのですが……」
オブチは愁の前に跪き、地面を割らんばかりに額をぶつける。百年後の世界でも生きていた日本の伝統芸能、ザ・土下座。
「申し訳ございませんでした! 人質をとられていたとはいえ、僕はあなたを、この拳で何度も……!」
「いやまあ、ぶっちゃけ痛かったですけど。このとおりもうなんともないんで……」
「いつものツルツルのしおがおりす」
「やかましいわ。つーか、俺も一発ぶん殴っちゃったんで、おあいこってことで」
「……【自己再生】の菌能でしょうか……すごいですね……」
「うん? うん……そんなっすね。つーか、人質のほうは……」
オブチの後ろからネコが顔を覗かせる。白地に顔や耳や手足などの末端だけが濃い、いわゆるポインテッドの上品そうなネコだ。尻尾の先がキノコの笠のように広がっているのが印象的だ。
ネコはオブチの隣にすとんと腰を下ろし、並んで深々と頭を下げる。
「うちはユイいいますな。うちとうちんとこのブタがご迷惑おかけしたわな。このとおり、お詫びと感謝だわな」
「……人質って……このネコ……?」
「はい。人質というか、猫質でした」
「……ネコもしゃべるの……?」
「はい。ケット・シー族です」
「……あー、魔獣ね。なるほどね、はいはい……」
知ってた的にうなずく愁だが、頭の中の全阿部愁が百年ぶりのネコ成分を求めてシュプレヒコールをあげている。宙を揉むような手つきで血涙を流している阿部愁もいる。
「森の中でこのブタとはぐれたときに、あの〝腕落ち〟にとっ捕まっちまって。うちとしたことがドジったもんだわな。おかげでこのブタもうちのために野盗の片棒を担がされそうになって……アベさんにはほんと、感謝してもしきれんわな」
「いえいえ、そんな(モフりてえ)」
「アベさんがあの〝腕落ち〟と戦っている間に、どうにか彼女を救い出すことができました。加勢もせずに一人離れたこと、ご容赦ください」
「全然。一人でもなんとかなったんで(肉球揉みてえ)」
「アベシュー、ジロジロみすぎりす」
心を読まれたか、タミコにぺしっとリスツッコミされる。さすがは相棒、隠れネコ派であることを見抜かれたようだ。その慧眼に敬意を表して尻尾の付け根あたりをこしょってやると「そっ、そこはちがうりす! ちがうのに……くっ、くやしい……っ!」とビクンビクン。
「それにしても……あの洞窟から出てきたら、アベさんがアレと戦っていて……」
一同は地面に広がる黒いしみに目を向ける。よく見ればその中心に、あの鉤爪の残りらしき金属棒が刺さって立っている。まるで墓標のように。
「あの〝腕落ち〟? を倒したと思ったら、いきなりあんな化け物に変身して……あれ、なんだったんすかね?」
あんな生き物はメトロにもいなかった。人間ともメトロ獣とも違う、もっと異質で得体の知れない怪物――。
「あんなの、うちらも初めて見たわな」
「レベルみえなかったのははじめてりす。こわかったりす」
「もしかしたら――」とノア。「あれが魔人病、ってやつなのかも」
「マジンビョー?」
「ああ……僕も聞いたことがあります」とオブチ。「メトロの深層に長時間留まるようなベテランの狩人が、死後、ごくまれにあのような人でも獣でもない怪物に変化することがあると。ただの都市伝説だと思ってましたが……」
「メトロの深層? 長時間? チョマテヨ……俺、五十階に五年いたんすけど……」
自分も死んだらあんな化け物になるのだろうか。ぞっとする。周りの迷惑も考えたらおちおち天寿も全うできない。
「五十階? 五年?」オブチがぎょっとする。「あ、え、えっと……ごくまれなケースだと聞いています。僕もただの都市伝説だと思ってたくらいで……」
「文献によると――」とノア(たぶんひいじいメモだろう)。「罹患者は確か、発症前には幻聴に悩まされていたとかなんとか。そういう兆候がなければ大丈夫だと思いますけど」
「幻聴、か……」
あの怪物の、最後の言葉を思い出す。
――アベシュウ、マタネ。
あれはあいつの言葉だったのだろうか。それとも幻聴――?
とりあえず今はなにも聞こえない。あたりは先ほどまでが嘘のように静かだ。さらさらと風が木の葉を揺らし、かすかに虫の声が聞こえてくる。あたりの惨状さえ忘れれば、とても心地のいい夜だ。
タミコがよじよじと愁の肩に登り、そっと頬に触れる。
「アベシュー、だいじょぶりすか?」
いつになく気遣わしげな彼女の表情に、愁は笑う。
なんでもない、と首を振ってみせる。
「……さあ、行こうか。いよいよ念願の、ニンゲンの町だ」
次回より舞台はついにスガモへ!




