18:百年ぶりの出会い
「……アベシュー」
「ん?」
「あっちからなにかきこえるりす」
肩の上でタミコが耳をぴんと立てている。
「なにかって?」
「……たたかってるりすね。かたほうはおっきなケモノだとおもうりす」
愁も耳を澄ませてみる。かすかな破壊音、遠いおたけび。ちりちりと地面が震えている気もする。
「獣同士でやり合ってんのかな。結構派手にやってるな、近づかないほうがいいかも」
「そうりすね……いや、まつりす。なんか……」
「なんか?」
「……ニンゲンりす。ニンゲンがいるりす、たぶん」
「マジで!?」
「マジりす! ニンゲンのこえがするりす!」
(まさか、こんなところで百年ぶりの出会いが?)
この五年間で、ここまでの道中で、一度も誰とも出会うことはなかった。地上に出るまでそうだろうと思い込んでいた。
「アベシュー、まちがいないりす! ニンゲンがケモノにおわれてるりす!」
「マママジか! そりゃやべえ! つーかめっちゃ緊張するんですけど!」
「はやくたすけにいくりす! はしれノロマ、ゴーゴーゴー!」
「上官モード久々だな」
心の準備ができていないものの、事態は急を要するようだ。愁はぐっと身を屈め、地面を蹴る。
廊下の壁が跳ぶような勢いで通りすぎていく。タミコの指示どおりに分岐路を進んでいく。道中のメトロ獣は無視して突っ切る。
道を抜けた先に部屋があり、愁の耳にもその剣呑な物音ははっきりと聞こえるようになる。その手前でいったん足を止め、そこにいるものを感知胞子で捉える。
大きな獣がいる。派手に暴れ回っている。
それと対峙しているのは――間違いない、人間だ。
マントを羽織った少年が、バックステップで距離をとりながら、部屋に駆け込んだ愁たちに顔を向ける。バイク用のゴーグルのようなものをかけている。
向かい合う獣は――ぼてっとしただらしない腹を持つ体高二メートル超の巨大猪だ。体毛は紫、脚が短く、トカゲや恐竜を思わせる尻尾を持ち、下顎からせり出した牙がサーベルのように発達している。
「来ちゃダメ! 成長個体です!」
幼さの残る、けれど凛とした声だ。かなり若い。右手にはナイフ、左手には鞭というか紐のようなものを持っている。
「ゴァアアアッ!」
猪がおたけびをあげ、少年へと突進する。
少年は横にかわしながらナイフを振るう。体重がかかっていないせいか、毛皮の表面を滑るだけで傷はつかない。
猪突猛進――かと思いきや、猪はトカゲの尻尾をうねらせて反転し、さらに少年へと迫る。図体に似合わない機敏な動きだ。
突進、牙の突き上げ、尻尾の振り回しと打ちつけ。攻撃パターンは少ないものの鋭く隙がない。成長個体というだけあって、このあたりのメトロ獣と比較しても別格の殺傷能力だ。
しかもこの猪、愁たちに対しても警戒心を向けている。目の前の少年を相手にしながら、ちらっちらっと愁たちを視線の端で窺うことを忘れていない。知能も高そうだ。
対する少年も、小回りを生かしてうまく横合いからナイフで斬りつけ、あるいは距離をとって顔面に紐を打ちつけたりしている。しかし焼け石に水、ダメージを与えるにはほど遠い。動きを見るに撤退する機会を窺っているようだ。
「タミコ、こいつらのレベルは?」
「んーと……でかいのは40くらい、ニンゲンは20ちょっとくらいりす」
やはり見てのとおり、力の差は歴然だ。
「アベシュー、たすけないりすか?」
「いや、助けたいけど……いいんかな?」
この世界の狩人の流儀やらマナーやら、そういうものを愁は一切知らない。「来ちゃダメ」と言われたことだし、安易に手を出して「獲物を横どりしやがって!」的に怒られたり訴えられたりするのが怖い。
かと言って、今のままでは少年に勝ち目がないのも明白。このまま戦い続けるのは危険だ。そのへんの獣ならともかく、目の前で人に死なれるのも寝覚めが悪い。
「あの! 助けていい!?」
大声で呼びかけてみる。ちょっとドキドキしている。
「はっ!? 危ないです! 逃げて!」
少年が一瞬よそ見をした、次の瞬間。
猪が大きく息を吸い、ゴバッ! と大量の黒い煙を吐き出す。
「アベシュー! どくりす!」
「うおっ!」
愁は思わず壁際まで飛び退く。少年も間一髪で呑まれる前に大きく距離をとるが、それでもいくらか吸い込んだのか、口元を押さえてぐらっと上体を揺らす。
「おいおい、やばくね?」
げえっ、と少年が膝をついて嘔吐する。それを見た猪が蹄をガチガチと床に打ちつけ、勢いをつけて突進する。
(しゃーねえ! 緊急避難!)
愁は身を屈め、跳躍力強化で床を蹴る。左手に菌糸大盾を出して横合いから体当たりする。
「おわっ!」
想定以上の重さで愁の身体がはじかれるが、猪も吹っ飛んで横に倒れる。床を滑るようにしながらも器用に尻尾を振ってすぐに立ち上がる。
「タミコ、あの子のとこに」
「りっす!」
タミコが肩から下りて少年のほうに向かうのを見届けて、愁は猪と正面から対峙する。
その威圧感に背中がひりひりする。手に汗がじわっとにじむ。図体のせいか、それとも顔が怖いせいか、タミコのレベル評価以上に手ごわそうに感じられる。
「ゴァアアアアアアアアッ!」
威嚇をこめたおたけびがびりびりと部屋を震わせる。レベル差だけなら愁のほうが遥か格上だが、興奮のせいか無謀のせいか、引き下がろうという意思はなさそうだ。
愁は半身を切り、大盾で隠すようにして、右手にしゅるしゅると菌糸ハンマーを生み出す。レベルアップの効果か、あるいは菌能自体の進化なのか、最初は一メートルほどで固定だったハンマーの柄の長さが調整できるようになっている。最大で二メートルほどまで伸ばせる。
猪が突進してくる。砲弾のような勢いだ。
――それでも、ボススライムのスパイクタックルにくらべれば。
「お、お、お――」
愁の背筋が軋む。握りしめた柄がみしみしと音をたてる。ハンマーの先端が青白い胞子光をまとう。
そして、背後から一気に振りかぶり、まっすぐに振り下ろす。
バキッ! と猪の頭蓋骨が陥没する。
顔面から床にめりこみ、愁の足下まで床をずるずる滑り、静止する。
目玉が飛び出し、だらりとちぎれかかった舌が垂れている。それでもまだぴくぴくと痙攣している。
「悪いね、恨まんといてね」
ハンマーを放り出し、刀をとり出す。それでゴリッと首を断つと、ようやく猪は動かなくなる。
ふう、と肩の力を抜いて一息。結果だけ見ればワンパン勝利だが、久しぶりに少し怖いと思う戦いだった。
少年のほうに向かう。横たわったままの彼は呼吸が浅く、意識が朦朧としている。タミコが声をかけて顔をぺちぺち叩いている。
「いしきはあるりす。でもうごけなさそうりす」
「うーん、どうしよう……病院に連れていきたいけど……」
地上に出るまでにこの子がもつだろうか。
タミコの知る解毒作用のあるという草はいくらか持っている。まずはそれを食べさせるしかないか。
「アベシュー、アレをのませてみるりす」
「アレか……効くんかなあ」
第十一の菌能、食べる菌糸玉。
緑色で、治療玉のようにたっぷりと汁を含んでいる。薄緑色の薬っぽい味の汁だ(タミコはあまり好きではないらしい)。
その効果は未だによくわかっていないが、五十階で毒キノコを食べて中毒状態だったネズミに汁を飲ませたところ、元気になったという経験がある。なにかしらの解毒作用があるようだと愁たちは推測している。
「まあ、他にやれることもないし……」
少年の頭を膝に乗せ、上向きにさせる。ゴーグルを額に持ち上げる。
まじまじとその顔を見て、愁はドキッとする。
――可愛いと思ってしまった自分がいる。不覚にも。
十代半ばくらいだろうか。首にかかる長さの黒髪、やや尖り気味の耳。ふさふさの睫毛、細いがしっかりした眉、すらっとした鼻筋、ぷっくりした唇は濡れている。中性的――女の子だとしても美少女と呼べる造形だ。
愁の性愛の対象は女性だ(少なくとも元の世界で生きていた頃は)。それが今、突如として現れた超絶美少年にその理性がぐらぐら揺れている。
ただでさえ五年間地獄を見てきた末に初めて出会えた同種の存在。必要以上に眩しく見えるのもしかたないのかもしれないが――「どうしちゃったのよ」と自問せざるを得ない。
「アベシュー、どうしたりすか?」
「んにゃ!? いやはっ! なんでもないりすよ!」
今はドギマギしている場合ではない。右手に緑の繭を生み出し、ぐしゃっと握りつぶす。溢れた汁を彼の口に含ませていく。
こくん、こくん、と彼の喉がそれを通していく。
(これ、絵的にやばくね?)
自分由来の汁を飲ませている。タミコやユニおに食べさせてもなにも思わなかったが、背徳感がすごい。
病的に青ざめていた顔色がゆっくりと血の気を帯びていく。呼吸が深くなだらかになっていく。朧げだった目がぱちりと開き、「ん……あ……」と小さくうめく。
愁と少年の目が合う。しばらくぱちぱちと瞬きしたかと思うと、「きゃっ!」と飛び起きる。
「あ、まだ動かないほうが……」
愁の言葉どおり、彼はまた胸を押さえ、おえーっと吐く。さっき吐いたばかりなので胃液しか出ない。
「……あなたが……【解毒】を……?」
「え、あ? これのこと?」
もう一度右手に緑色の菌糸玉を出すと、彼がそれをぱくっとくわえる。猫の餌づけのごとく、愁のてのひらを舐める勢いで。
うつむいて必死にもぐもぐする彼に、愁は一つの疑念を抱く。
(もしかして、この子って――)
「あの――」
食べ終えた少年が、改めて愁の前に座り直す。顔色がだいぶ戻っている。
「ありがとうございました。助けていただいて」
ぺこりと頭を下げる少年。
その瞬間、愁の胸ははちきれそうになる。
五年ぶりの人間との邂逅。五年ぶりの人間との対話。
――まだ地上には出ていないのに、目的は達成されていないのに。
これまでの地獄がすべて報われたような心地になる。
「……ごめん、ちょっと待って……」
愁は顔をそむけ、肩を震わせる。
「アベシュー、ないてるりす」
「言わなくていいから」