16:太陽を
踊り場から感知胞子を飛ばす。ボスは最初と同じ位置から動いていない。
今まで一度もあそこから動いたところを見たことがない。ふんぞり返ってエサが来るのを待つだけのブラック社長。そんなやつの部下にだけはなりたくない。
カバンにはあと二つ胞子嚢が入っている。これが切れるまでは挑戦を続けるつもりだ。補給が途絶えてバテバテになったら、そのときは出直しだ。
(減らした体液……どんくらいのペースで回復するんかな?)
やつの主なごはんは一日か二日に一匹くらいの迷子メトロ獣だ。ワイルドな踊り食いで果たしてどれくらい回復するのか。時間経過によって勝手に回復、なんて質量保存則を無視した理不尽はないと思いたい。
仮に短時間で回復する術があるとなると、一気にとどめを刺さなくてはならなくなる。そうなると勝率が下がる、扉を開けて逃げるという選択肢が再び浮上してくる。
(まあ……体積が減っている今がチャンスなのは間違いない)
(やれるだけやってみよう。漢を見せるって約束しちゃったしね)
愁は右手に菌糸刀と左手に菌糸大盾、菌糸腕とその両手に菌糸刀を出す。
「じゃあ、もっかい行ってくる」
「アベシュー、きをつけて!」
階段を一気に駆け上る。部屋を出てすぐに盾を構え、溶解液をくらわないように右に飛び退く。
「っしゃ、ラウンドすり……ん?」
ボスはぴくりとも反応しない。身じろぎも、触手を出しもしない。完全に静止している。薄汚れたオブジェのように。
(……もしかして、死んでたりする?)
じり、と一歩前に出た瞬間、ボスがぶるっと身震いする。愁は驚いて一歩あとずさる。
にゅっと三本の触手が角のように上に伸び上がる。そしてそれが――しゅるしゅると糸を吐き、ウニのような黒いトゲの形にまとまっていく。
「は――」
触手が振り下ろされる。ブォンッ! と重量を感じさせるその一撃が、床を発泡スチロールのごとく易々と砕く。
飛び散る岩のかけらを盾ではじきながら、菌糸腕が触手を斬りつける。かたいもの同士のぶつかり合う硬質な音が響き、痺れが愁の背中まで到達する。胞子光をまとった刀が半ばまでで食い止められている。
(かてえ!)
(つーか菌能かよ!)
足の止まった愁をもう一本の触手が狙う。跳躍力強化で横に逸れ、もう一度菌糸腕で挟むように斬りつける。ぶしゅっと体液が噴き出すが両断には至らない。
「くそっ!」
空気をはじき飛ばすようにして三本の触手がうなる。愁はひたすら回避に専念する。
硬質化してスパイクをまとう菌能か。一度に三本までしか付与できないのか、それとも体力や容量が足りないせいか。
破壊力が増した分、動き自体はさっきまでよりも鈍い。手数も減っているし、トゲで攻撃範囲が広がってもなんとかかわせる。
しかし、さっきまでのように断ち切ることは難しい。これでは容量を減らすことができない。
「なら――」
菌能をまとっている部分は触手のちょうど半分くらいまでだ。間合いを詰めて根元から切ればいい、より多くの容量を減らせる。
三本の触手をかいくぐり、跳躍して一本を斬り裂く。その瞬間――本体から溶解液が噴射される。
「うお――」
とっさに大盾で受け止める。胞子光をまとった盾はすぐには溶かされない。
感知胞子が背中に迫る触手を捉える。挟み撃ちだ。跳躍力強化でも空中での方向転換はできない。
「くあっ!」
菌糸腕が刀を手放し、ブリッジして触手に触れる。その勢いを借りて身体を押し上げ、バック宙して回避する。
(あっぶな! パターン変えてきやがった!)
(つーか今のカッコよかったんじゃね?)
などと邪念をよぎらせる間にも触手が襲いかかってくる。慌てて距離をとる。
復活した触手が再びモーニングスター化し、三本のうねりとなって愁に迫る。
再び回避の時間。タミコの言うとおりだ、フットワークが大事。蝶のように舞い、ゴキブリのように逃げる。
そしてわずかな隙を縫って距離を詰め、カマキリのように触手を断ち切る。
やることは変わらない。こつこつと、時間をかけてでも相手の容量を削いでいく。最後にこの刀をやつの脳みそに突き立てるために――。
「あああああああっ!」
さけびながら、おたけびながら、愁はボスの周りを駆け回る。
飛び散った酸で肌が焼かれ、トゲがかすめて肉をえぐられても。
足を止めない、腕を振り続ける、斬り続ける。
意識は目の前の戦闘にのみ純化していく。
思考のよどみは消え、視界が開ける。
その先に待つものを必死に手繰り寄せていく。
「はあっ、はあっ……」
ラウンド3開始から、どれくらい経つのだろう。
切り離した触手の数は、十を超えてからは数えるのをやめていた。
「……ようやく見えてきたな……」
スライムの本体は今や開始時の半分ほどにまで縮んでいる。茶色の薄汚れた体液の層の奥に、うっすらと赤茶けた楕円の器官が見える。それがスライムの急所だということを愁は知っている。
触手は最初の半分ほどのサイズにまでしぼみ、もはやパワーもスピードもほとんど失われている。三本を維持する体積がないのだろう、残り一本だけになっている。
――あと一太刀。菌糸腕ごと刀を突き刺せば届く。それで終わりだ。
「じゃあ、そろそろ――――?」
ぶるるっとボスの身体が身震いする。そして頭頂部にトゲを生やす。本体のモーニングスター化だ。
ぐにゃっと地面に沈み込んだかと思うと、反動をつけて跳躍する。天井すれすれまで。そしてトゲのほうを下にして、愁めがけて落ちてくる。
けたたましい破壊音とともに床が陥没する。飛び退いた愁の身体を衝撃と風圧が叩く。
「最後の最後でこれかよっ!」
またぐにゃりとへこみ、今度は水平に飛びかかってくる。愁に向かう面にトゲが生える。なんとしてでも串刺しにしてやろうという意地を感じさせる攻撃だ。
壁を破砕するその突進は、受ければ串刺しどころか木っ端微塵にされそうなほどの破壊力だ。反撃しようにも迂闊に手を出せば腕ごと持っていかれる。
ボスが沈み、跳ねる。跳ね返り、跳ねる。まるで狭いところに閉じ込められたスーパーボールのように。
体液がわずかに飛び散っている。やつも少しずつ骨身を削っている。
「んがっ! どわっ!」
愁はそれを必死に回避する。煙幕玉、燃える玉、電気玉。とにかく持てる能力をフルに動員して注意を逸らし、相手の疲弊を促進させる。それしかない。
――少し楽しいと思っている自分に気づく。
勝利に手が届くところまで来たせいだろうか。
こいつと対峙していて、怖くなかった瞬間などなかったのに。今も綱渡りで命をつないでいるところなのに。
――そうだ、生きている。
俺は生きている。ギリギリまだ生きている。
「はは、ははっ!」
笑いがこみあげてくる。自分にもこんな狂った一面があったのかと改めて思い知る。
もう普通のサラリーマンには戻れないな、などと頭の片隅で思う。
やがて、スライムの動きが鈍りはじめる。
突進と激突のたびに削られた体積は、初期の三分の一程度まで縮んでいる。突進の勢いが半減し、めりこんだあとの反転に時間がかかるようになる。
愁の体力も限界だ。元々十分程度しかもたない菌糸腕はとうに枯れて背中から剥がれている。新しくつくり出す力もない。今は右手に握った菌糸刀一振りのみだ。
「アベシュー!」
階段のほうからタミコのさけぶ声がする。
「いったんこっちにもどるりす!」
魅力的で合理的な提案だ。ラウンド4までのインターバルを得る。栄養を補給して少し休めば、勝利はほぼ確定的になるだろう。
冷静に考えればそうすべきなのだろう。ボスが疲弊している今なら容易に逃げ込める。
命のやりとりに卑怯もなにもない。それくらいは理解しているし納得できる。伊達に長年弱者をやっていない。
(だけど――)
その必要はない、と愁は強がる。
次の一撃で決める、その確信があるから。
身体は疲弊している。だがその意識と神経は今、ギリギリまで研ぎ澄まされている。
今が最高潮だ。その自信がある。
「――来いよ」
ぐにゃ、とボスが沈み込む。より反動を得るために、より深く。
「来い!」
トゲをまとった泥色の球体がまっすぐに突進してくる。
同時に愁は前へ踏み出す。
床が陥没している。ボスが砕いてクレーター状になっている。そこに滑り込む。
頭上、紙一重のところを、ボスが通過する。。
突き上げた菌糸刀の切っ先がずぶっと吸い込まれる。
勢いで腕ごともっていかれそうになる。背骨が折れるかというほど軋む。
「――ああああああっ!」
それでも愁はおたけびをあげる。
身体に宿るすべてを絞り出す。
すべてをこめて、腕を振り抜く。
「――――」
突き抜けた先に、空白の一瞬が訪れる。
大量の体液が降り落ちる。背後で地面を削るような音がする。
愁はゆっくりと振り返る。
ボスは半ば地面にめりこんだまま、次の動作に入ろうとはしない。
さっきの一撃は急所に届いている。その手応えを愁は感じている。
液体の身体がぐにゃりと弛緩する。体液がどろどろとこぼれ、ツンとする湯気を立てる。そして内臓器官が剥き出しになる。
まだ息があるのか、ぴくぴくと痙攣を続けている。
愁は足の裏が焼けるのも気にせず(本当は痛いが)、そこに近づいていく。
もう一振りの菌糸刀をとり出す。胞子光をまとわせる。
「――悪いね」
青い光が糸を引く。定規で引いたように、まっすぐに。
愁だけを残して、部屋に動くものはいなくなる。
***
終わった。
ついに終わった。
愁はその場にへたりこむ。
「……勝った……」
達成感がこみ上げてくる。感情が爆発しそうになる。胸の中で膨れ上がり、喉まで出かかっている。
(勝った! けど……)
今は、それを表出する気力がない。再生途上の傷の痛みが、安堵とともになだれ込んできた疲労と空腹が、身体中にずっしりとした虚脱感をもたらしている。
タミコがとことこと近づいてくる。母とその相棒の仇、その死骸の前に立つ。
「……ざまありす……」
内臓のかけらを踏みつけようとした足を、止める。
「……けど……うらみっこ、なしりす……」
うなだれたその肩をぷるぷると震わせる。ちゅんちゅんと鼻をすする。
「タミコ」
彼女が振り返り、愁の胸に飛び込んでくる。頭をぐりぐりと押しつけてくる。
「アベシュー……ありがとりす……!」
「うん(乳首ドリルすな)」
「アベシューがぶじで……よかったりす……!」
「うん(すな)」
指でぽんぽんとその背中を叩きながら、愁は天井を仰ぐ。
「……行こう、タミコ。地上の太陽を拝みに(すな)」