153:胴長野郎
ナカノの森には小・中規模のメトロが無数に点在している。それらは現地民の生活を支える貴重な採掘地であり、人とメトロの距離は都会よりもずっと近い(もちろん危険とも隣り合わせとなるが)。
通称ナカノメトロ、この地方の名を冠するメトロがナカノの里の地下に広がっている。全十階層とそう広くはないが、希少価値の高い菌糸植物や鉱物キノコなどがゴロゴロしているという。立ち入りが許されるのはカーバンクル族と一部の人間のみだ。
「少なくともここ数十年では――」とコユキ。「外部の方がここに入ったことはありません。お社様にお会いになるのもお二方が初めてで……」
「そりゃあ光栄なんだけどさあ……」
愁は岩壁に張りついたまま、ちらっと下を見て、後悔。
「この道のりは想定外だったわ……」
社の奥の間には床下の隠し穴。ハシゴを下りたアベシュー探検隊を待ち受けていたのは、さらに下へと続く縦穴だった。
「いやまあ、ロッククライミングとかわりとやってきたけど、これはなあ……」
数十メートルの縦穴を降りてしばらく通路を歩くとまた別の縦穴、そこを降りたらまた別の……そんなのを繰り返すこと三回目。おまけに今へばりついている穴の底は、【感知胞子】がギリギリ届くほどの深さだ(約五十メートル)。
若干斜めなので手を滑らせても奈落まで一直線ではないが、これはこれでレベルとか関係なく恐い。金具の取っ手がガッチリ打ち込まれているので手足の移動場所には困らないが、誤って滑り落ちやしないかと冷や汗が止まらない。
「アベっちさあ」とウツキ。
「なんすか?」
「あたしって何カップだと思う? 触って確かめてみたくなぁい?」
「おんぶしろってつなげる気でしょ、断る」
「ちっ、君のような勘のいい童貞は嫌いだよ」
「密閉空間で【魅了】使うなロリビッチが! そして一度も認めた憶えはねえ!」
「おい、狭いとこで騒ぐな。うるさくてかなわん」
「サーセン」
「ロリせん」
ダイアナに叱責されてからは集中して進む。道はどんどん複雑に分岐していく、左右ばかりでなく上下にも。帰りは一人でと言われたら泣きそうなほどに迷路だ。
「入り組んでるのもアレだけど、道幅が狭いのもストレスだなあ」
「アベ様、十一階まではこんな感じが続きますので、それまでどうかご辛抱を……」
「あれ、十階までしかないんじゃ?」
「今私たちが通っているのは、里の者たちが出入りしている通常のナカノメトロとは独立した通路です。通常の最下層のさらに下につながっておりますので……」
「隠し通路から隠しフロアにつながってるのね。そう言われるとちょっとテンション上がるわ」
道中出くわすのは虫やコウモリなどの小動物くらいで、メトロ獣との遭遇は一度もない。そもそもナカノメトロ自体が御神木の真下にあるので、元から危険な肉食獣などはほとんどいなかったらしい。それでもロッククライミングやら迷路攻略やらで思った以上に時間と体力を消耗する。
「これさ……十一階までどんくらい深さあるんだろうね?」
「確か……地上から七・八百メートルほどと聞いたことがあります」
「うへー……」
スカイツリーのてっぺんから外壁を降りていくようなものか。
何度か小休止を挟みつつ、出発から四時間後。がらんとした広い空間に行き着く。コユキの言う十一階のようだ。
「ふむ、思ったよりも早く着いたな。さすがは現役の狩人といったところか」
「あ、あざす……」
ウツキはヘロヘロ、愁もわりと腕がダルくなっているが、ダイアナは「いい汗かいたな」くらいで平然としている。あれだけの登り降りを片腕でひょいひょいとこなしてきたのだから、レベル79の基礎体力を除いても素直に感心せざるを得ない。
「あー、久しぶりに見たな」
枕木のついたレールが目の前を横切っている。メトロという存在の名残、地下鉄の線路だ。あのオオツカメトロを出てからまだ半年も経っていないことを思い出す。懐かしむには地獄すぎて吐きそうなので追憶は中止。
「お社様はこのフロアの、ここから三十分ほど歩いたところにおられます。道中、危険な獣は――」
「待って」
察知したのは【感知胞子】ではない。軽微な空気の異変を捉えた肌の感覚、つまり勘だ。
線路の奥、暗がりから息を殺してひたひたと近づいてくる気配――そして【感知胞子】がその実在を確信させる。
(――なんだ?)
その輪郭は認識できるのに、その姿を肉眼で見ることはできない。
(あのときと同じだ)
御前試合の閉会式でススヤマ(偽)が使っていた【透明】の菌能だ。
「……ケァル、いるのか?」
【戦刀】を抜いた愁を、ダイアナが一歩前に出て制する。
「アベ、納めろ。敵じゃない」
その透明な影がぶるんっと身震いしたとたん、たちまち色を帯びる。輪郭のとおり大型の四足獣だ。
(狼――じゃない?)
線路の風景も相まって狼を連想していた愁だが、現れたのはイヌではなくネコ。黄色と黒の斑模様を持つ豹だ。背中にトサカのようなヒレがあるのが特徴的だ。
「ケァル! 久しぶりですね!」
ダイアナの肩から飛び出したコユキが、キナミを伴ってそいつに駆け寄る。一瞬ドキッとした愁をよそに、見るからに獰猛そうなその獣は前脚を折って顔を近づけ、ゴロゴロと喉を鳴らしながらコユキに頬をこすりつける。
「ケァル、お社様の唯一の〝眷属〟さ。この階層の番犬? 番猫? だ」
「お社様の……〝眷属〟?」
「人間以上に知能と気位が高く、お社様の許した者にはああして温厚に接するが、そうでない者には容赦なく牙を剥く。私も初対面のときは目で殺さんばかりに威嚇されたもんだ。あいつが本気になったら私でも勝てるかわからん」
「マジすか……」
確かにしなやかで繊細な佇まいはそこらの獣とは格が違うように見える。ユニコーンと同等以上の洗練された雰囲気さえ漂わせているし、顔立ちもどことなく高貴そうだ。
「なんていう種類の獣ですか?」
「さあ、私も他でお目にかかったことはないな」
一位経験者でも未発見ということは相当レアなメトロ獣なのだろう。
「お社様ってのは……〝眷属〟をつくれるんすね」
菌能の一種なのだろうか。〝糸繰士〟なら習得できるだろうか。いつかモフモフパラダイスを築けるのだろうか。
愁は【戦刀】を手放しておそるおそるケァルに近づいてみる。敵意を見せないようにハンズアップし、無理やり笑顔をつくり。友好の証にひとモフさせてもらいたい。
頭を上げたケァルがぷいっと顔をそむけ、踵を返してすたこら歩きだす。愁は内心「ああん」と涙に暮れながらあとを追う。
***
このメトロに入ってからずっと、オオツカメトロのオアシスのにおい――獣を遠ざける御神木の香りを感じていた。それは深く潜るにつれて少しずつ薄らいでいるような気がしていたが、この階層はどこよりも増してそれを強く感じられるのだ。
見るからに肉食っぽいケァルは平気なのだろうか、などと思いながら彼(彼女?)の後ろについて歩くこと数十分。
「……ほえー……」
大きな部屋だ。天井から木の根が荒々しく垂れ下がり、床や壁にも無数に絡みついている。御神木の香りだけでなく水のにおいも強い、奥に池があるせいか。
水辺に色褪せた鳥居が立っている。その脇には大きなベンチと丸テーブルが置かれている。端の擦り切れたボロボロのレジャーシート、レンガ積みのかまどに使い込まれた飯盒やポット、無造作に転がる酒瓶や食べ残しらしき獣の骨。鳥居を除けばオウジのキャンプ場とよく似た雰囲気だ。
「ここがお社様の寝所だ」とダイアナ。
「んで……お社様はどこ――」
ザパッ、と水飛沫の上がる音が愁の言葉を遮る。
「――よく来たな」
若い女性だ。ぽたぽたと水の滴る長い白髪、一糸まとわぬその肢体、華奢な体躯に不釣り合いなほどたわわに実った胸部。
それらを正しく認識するまでに、愁の脳は二・三秒を必要とする。それから無言で目を覆う。てのひらの闇の中で過去のそれらをめくるめく想起比較し、「過去最高値更新かもしれん」などと思う。
「童貞には目に毒よね」
「うっせえ過去最低値」
「おお、すまん。客人に見苦しいものをお見せした。堪忍してくれ」
バシャバシャと上がってきた彼女が、ソファーにかかっていたシーツをその裸体にまとう。再び目を開けた愁の前で、腰に手を当ててにこやかに佇んでいる。
「……思ったとおりだ」
「へ?」
「よく似ている。そのにおい、あの男と……」
懐かしむように切れ長の目を細める。その顔立ちはつくりもののように非現実なまでに端正で、白い肌に浮かぶ赤い唇が視線を吸い寄せる。絶世と言っていいほどの美貌だ。けれど――。
(なんだろう)
(どっかで見たことあるような?)
「え、あ、あの? あなたが――」
「お社様」
コユキとキナミがてとてとと前に出て、恭しくかしずく。後ろからのそのそと続くケァルも尻尾をぶんぶん振っている。
「久しく沙汰なきこと、平にご容赦を――」
「いい、いい。テンプレ挨拶はいらんと毎度言っているだろう。早くその愛らしき毛並みに触れさせてくれ。お前たちを吸わせてもらわんと月を越せんのだ」
二人をてのひらに乗せ、嬉しそうに頬ずりし、体毛に鼻を埋めて吸う。その様子を眺めるダイアナはいつになく穏やかでまぶしそうな表情をしている。
(この人が)
(生き残りの〝糸繰士〟?)
十二人の〝糸繰士〟の内、女性は三人。ネリマのアカメ・アサギは存命で、アカバネのアヤメ・メイとスギナミのキワミ・カイは〝魔人戦争〟で命を落としたとされている。彼女はそのどちらかなのか。
「お社様、本日は客人を……」
「ああ、一目でわかったよ。例の新聞の男だな、確かアベ・シュウだったか」
「あ、はい」
一発正解でむしろ戸惑う。
「珍しいな、お前たちがよそ者を連れてくるとは」
「その……この方たちは都庁政府の使節でして……恐れながら、お社様にご用向きとのことで……」
「いいさ、お前がそうしたのなら、是非は問わん。で、そちらの少……女性は?」
ウツキが一歩前に出て、その場に片膝をつく。
「お初にお目にかかります。サトウの弟子のウツキ・ソウと申します」
お社様の顔から笑みが消える。鼻にしわを寄せ、皮肉げにふんっと吐き捨てる。
「……まだ生きていたか、とっくに野垂れ〆鯖にでもなっているものと思っていたが。あの偏屈魚ジジイが人の子に教えを授けるとはな、世も末というものだ」
「いつの日かスズキ様にお目通り叶いました暁にはと、サトウより言伝を預かっております。『引きこもって毛玉と戯れるのもほどほどにせえ、ワシらの使命を思い出せ』と」
「ふん、なにが使命だ。そんなくだらんもんはちぎって刻んでドングリタンポポの肥やしにしてやったわ」
「……えっと、ウツキさん? スズキって……?」
頭上を飛び交う秋ナスを振り払いながら愁はおそるおそる伺う。嫌な予感しかしない。
「それは私の名ではない。お前ら人間が勝手にそう呼んだだけのことだ」
答えたのはお社様だ。
「お前らのクソガキ都知事は、私がなんたるかも伝えずにここへ寄越したのか? ガキの遣いとは難儀なものだな。どれ、百聞は一見に如かず、だったかな」
シーツがばさりと地面に落ち、再び裸体が露わになる。
「――この姿を晒すのも幾年ぶりか」
ごぎっ、と鈍い響きを合図に、彼女の華奢な肉と骨がみるみる肥大化していく。
口角が頬まで裂け、目尻が切っ先のように尖る。伸びた鼻先からざわざわと鋭利な体毛が生じ、全身を覆っていく。骨のような白地に血の赤を混ぜたまだら模様だ。
(これは……)
愁はかたく身構えたまま、後ずさろうとする身体を必死に留めている。
(とんでもねえ……!)
かつて目にしてきた「圧倒的な異形への変容」。野盗頭領の魔人病のときのような、オウジの魔人の〝覚醒体〟のときのような。しかし今、この化け物から吐き出される威圧感は、明らかにそれらを凌駕している。
「……おおっ、おおおおおっ……!」
地の底から響くようなうめきとともに、弧を描く鉤爪で空を掻きむしる。粘ついた汗が滴り、荒くはずむ息が白く濁り、蛇を思わせる細長い背中が小刻みに蠕動している。
かつて目にしてきたどの獣とも違う。
そして間違いなく、かつて相対してきたどの獣よりも強い。
――いや、唯一並ぶとすれば。
ウツキの師匠、獣王サトウ。
「〝鮮血風鼬〟……お前らが畏怖とともに呼ぶ大層な名は、この姿に冠せられたものだ」
「……話がちげえわ……」
平成仲間との再会を予想していたのに。クソガキ都知事め――よりによって新たな獣王とは。
「『毛玉贔屓の胴長野郎』って……野郎じゃねえじゃんクソ鮫……」
「今胴長と言ったか? ドングリタンポポの肥やしになりに来たのか?」




