12:四十九階
三日前に歩いたのと同じ道を選ぶ。メイン通りを左へ、狼側からのルートだ。
タミコの聴覚索敵と愁の感知胞子により、近づいてくるメトロ獣はほぼ正確に察知することができる。よほどのことがない限り不意打ちをくらうことはないだろう。
だが――歩きはじめて数十分後、オルトロスがつかず離れず愁たちを追ってくるのに気づく。
「どうするりす?」
「他のやつと挟み撃ちでもされたら厄介だし、今のうちにやっとこう」
愁は菌糸刀と菌糸盾をとり出す。
数十メートル先でオルトロスが足を止めている。やる気を見せた愁に対して、踵を返そうか応戦しようか迷っているようだ。
愁は膝を曲げ、跳躍力強化で一気に距離を詰める。
オルトロス――二頭のオオカミの図体はゴーストウルフより一回り大きい程度だが、その実力は段違いだ。重く速く鋭く、脳が二つあるからか他の獣よりも狡猾だ。四つの目を持つために肉食動物の視野の狭さも克服している。おまけにどいつもデフォルトで火を吐く。オーガと並ぶ五十階の王者候補だ。
それでもさんざんやり合ってきて攻撃パターンは掴んでいるし、愁には十三個の能力がある。タイマンなら慎重にやれば問題はない。
菌糸刀と爪が数合打ち合う。愁は盾で払うようにして相手のバランスを崩し、右の頭の眉間に刀を突き刺す。片方の頭がだらりと弛緩しても、オルトロスの動きが止まることはない。もう一つの頭がいっそう怒りをこめて食らいついてくる。
愁は刺さった刀をそのままに菌糸ハンマーを出し、下から顎をかち上げる。ぐらっと傾いたところに全体重をかけて振り下ろす。ずしん、と倒れ落ちたオルトロスはそのまま動かなくなる。
ふう、と愁は息をつく。時間にしてほんの数分程度、特に苦戦することもなかったが、やはり命のやりとりはいつでも緊張する。
「オルトロスがいるならさ、ケルベロスもどっかにいそうだな」
「けるべりす?」
「ケルベロス。三つ頭の犬」
「もっとしたのかいにいるかもりすね」
タミコ母の情報によると、オオツカメトロは地下六十五階まで確認されているという。単純計算、最深部にはレベル65前後のメトロ獣がいるかもしれない。さすがに「よっしゃ、ちょっくら行ったろ!」とお試し感覚で思えるような場所ではない。
オルトロスの腹を捌き、手早く胞子嚢をとり出す。今後のためにとカバンに入れておく。今は腹も空いていないし、体力の消耗も微々たるものだ。タミコはなるべくとれたてを食べることを推奨しているが、摘出後二・三時間は鮮度がもつことを経験上学んでいる。
「できるだけボスに備えとかないとね。なにがあるかわかんないし」
「りすね」
一度通った道を慎重に思い出しつつ、しかしあまり時間をかけすぎずに進んでいく。
二時間ほど経った頃、突然道幅が広がり、明かりのないじめじめした暗い領域に入る。
岩壁が酸で溶かされたみたいにただれている。地面には雑草どころか苔も生えていない。廃墟の地下道のような、ゾンビ映画が似合いそうな雰囲気だ。
「……アベシュー、あそこりす」
「……うん、ようやく着いたね」
奥の壁に大きなトンネルがあり、その先が上り階段になっている。いっぺんに三・四人は並んで通れそうな幅の階段だ。
下から覗いてみるが、数十段上に踊り場があって折り返しているので、上階の様子は見えない。感知胞子の範囲外だ、上の階までそれなりの段数があるらしい。壁にはホタルゴケの照明が点々と続いている。
「……ボスのほうから下りてくることはないの?」
「わかんないりす……でもここをとおれるかどうか……」
「そんなでかいんか……」
手が震えていることに気づく。階段から流れてくる生ぬるい空気に、これまでとは比較にならない不吉なものを感じるのは、この先に待つ脅威の存在を知っているからだろうか。
「……行こう、タミコ」
「……りっす」
***
一段一段、踏みしめるようにして上る。蹴上と踏面――一段の高さも幅も人間用のサイズで、手すりがないのと苔が光っているのを除けば、そのまま地下鉄の階段のような感じだ。
(狩人にジョブチェンジして三年だけど、こんなとこ上ってるとリーマン時代に戻ったっぽいな)
あの頃の生活のなんと平和で呑気だったことか。明日のメシに困ることもなく、どれだけ仕事上でミスしても命までとられることはなかった。失って初めて思い知らされる、凡庸な日常のありがたみ。
(ここさえ抜けられれば――地上に出られるんだ)
その先にまた、あのような平穏が待っているとは思えない。
地上の世界がどんな風になっているのか、この目で見るまではわからないままだ。
それでも、今の愁とタミコには、太陽の下に出る未来しかない。それ以外には――いずれこのメトロで終わりを迎えるルートしかないから。
愁は五度目の踊り場でいったん足を止め、壁際に座り込む。カバンから胞子嚢を二つとり出し、タミコにも一つ渡す。
「ちょっと疲れたから休憩。念のために体力回復しとこう」
「あたいはつかれてないりすけど」
「ずっと人の肩に乗ってるもんな。たまには交代してもらいたいもんだ」
「かんでひきずるならできるりす」
「ごめん、冗談だから」
踊り場から踊り場までには二十五段ずつある。それが五度目だから、百二十五段上ったことになる。野球部にでも入った気分だ。構造的に感知胞子を飛ばせないので、どこまで続いているのかもわからない。
「たぶんあとはんぶんくらいりす」
「半分か。まあいいや、ゆっくり行こう。階段でへばってボス戦で生まれたての子鹿状態とか笑えないし」
レベル50以上の身体能力にはそんな心配はないが、できる限り万全の状態で挑みたい。胞子嚢を食べ終えると元気が出てくる。タミコを肩に乗せて立ち上がる。
彼女の言うとおり、十度目の踊り場は踊り場でなく、その先が天井の高い部屋へと通じている。
「……着いた……」
ようやくたどり着いた。四十九階に。
「アベシュー、いったんとまるりす」
「わかってる……いるね、超でかいのが」
「たぶん、こっちにきづいてるりす。のぼりきったらいきなりおそいかかってくるかもりす」
「かもね」
タミコの背中をつまみ、階段に下ろす。
「俺一人で行く。タミコはここで見守ってて」
お試しとはいえ、手を抜くつもりはない。引き際だけは想定しつつ、全力でぶつかるつもりだ。タミコを守っていられる余裕はない。
不安げなタミコが小さくうなずく。
「ぜったいムチャしちゃダメりす。あぶなくなったらすぐににげるりすよ」
「わかってる。しっかり肝に銘じてるよ」
愁は左手に菌糸大盾を出し、行く手の先を見上げる。
頭の中でタミコのくれたボスの情報を反芻する。
準備は整った。
「じゃあ、行ってくる」
カバンを放り捨て、階段を一気に駆け上る。
オオツカメトロに目覚めて三年――愁は初めて四十九階に足を踏み入れる。
***
高い天井がドーム型になっている。円形状の広間だ。ここから対面の端まで五十メートル以上はある。
タミコの話では、向かい側付近の壁にもう一つの出入り口があるらしいが、今は見えない。部屋の中央にどっしりと鎮座するそいつのせいで。
「……でけえ……」
半球形、いわゆるまんじゅうのような形だ。タミコから見て「チョーきょだいりす」という話だったが、これほどのスケールとは思ってもみなかった。高さにして十メートル以上、横は直径二十メートル以上。つまり部屋の中心部をどっしりと占めている。
スライム。
ゲームならもっとゼリー的に透明でぷるぷるしているものだが、現実はもっと薄汚れて凶々しい。体表は泥水のような濁った茶色、めりこんだ石や動物の骨らしきカスがゆっくりと流動しているのが見てとれる。顔、あるいは頭、内臓、手足、そういったものは少なくとも外からは見えない。
表情もなにもない。だが――ずず、とその巨体がわずかに身じろぎする。この謎の生き物がすでに自分をターゲットとして捉えているのを愁は実感している。
「ふうっ、ふうっ……」
対峙しているだけで呼吸が荒くなる。汗が止まらない。相手はただのでかい泥まんじゅう、なのにどうしてこれほどの圧迫感と恐怖を覚えるのか。
一瞬、スライムがぶるるっと振動する。身構えた愁の頭上に触手が振ってくる。
「うおっ!」
とっさに横に飛び退く。直撃した床が砕け、衝撃で愁の身体も投げ出される。
触手が伸びてきた瞬間が見えなかった。速い、だけでなく予備動作がない。