117:シン・トーキョー都知事ネムロガワ・チュウタ
集まった観衆の歓声は高まるばかりだ。なのに、愁の耳には、コツッと革靴の底がスガモの路上に降り立つ音が聞こえた気がする。
その姿を目にしたとき、愁の中でどくんと強く跳ねるものがる。
(……あれが――)
シン・トーキョー都庁政府、都知事。ネムロガワ・チュウタ。
愁と同じ〝糸繰士〟であり、〝東京審判〟から百年以上を生きる先史時代の生き証人。
ついに、その姿をこの目で見ることができた。
強まる鼓動に押された血液がめぐり、身体が熱くなる。
同時に――脳みそは衝撃と戸惑いで若干混沌としている。事前情報がなかったら目玉が飛び出でんばかりに驚いたことだろう。
彼はこの国の人には珍しくネクタイ、というか赤い蝶ネクタイをつけている。白いシャツにチェック柄のベストとネズミ色の半ズボン。まるで子どもの七五三か入学式かという出で立ちだ――そう。
(……子どもだ)
小学校高学年、十歳かそこらのように見える。行儀よく切りそろえた髪、ぷっくりとした頬、つぶらな瞳。美少年というよりは愛嬌のある可愛らしい男の子だ。
(そういうのもありえるってことだよな)
【不滅】は半不老不死だ。愁も百年前の新卒社会人だった頃のまま、ほとんど年をとっていない。
ネムロガワもきっと、東京が滅ぶ前はごく普通の小学生だったのだろう。それが〝糸繰士〟の能力を得て、永遠の子どもとして新世界の百年を生きることになった。「生きた年数」でもその壮絶な人生経験においても、愁よりも遥かに上の存在なのだ。
「ボクも初めて見ましたけど――」と隣でノアが言う。「実物を見るとちょっとびっくりですよね。あれで百二十歳近いって」
「僕は一度、センジュで見かけたんだよね」とクレ。「閣下と同じくらいの背丈だった頃でさ、うちのお偉いさんがペコペコしてて、なんか不思議な感じだったな」
「なるほど」
確かに信じられないものはある。
〝糸繰士〟という規格外のポテンシャルがあったとはいえ。
東京の大崩壊から十年に及ぶメトロ暮らしを生き抜き、地上でもトライブ族長となって人々をまとめ、やがて政府を樹立させて抗争を終わらせ、一つの国をつくった――そんな偉業を、果たして普通の小学生が成し遂げられるものだろうか。
愁としては真似できる気がしない。新卒のペーペーにそんな無茶振りをしないでもらいたい。
自身を呼ぶ歓声に都知事は振り返り、周囲の黒服を手で制して一歩二歩と愁たちのほうへと近づいていく。
「――ごきげんよう、スガモ市のみなさん。愛しき国民のみなさん」
彼が手を振りながらそう言うと、周囲の声援がぴたりと止む。声変わり前の子どもらしさを残しながら、凛とした力強さとよく通る耳触りのよさを備えた声だ。
「スガモ市生誕三十周年……こうしてこの日を迎えられたのも、恒久の平和を願うみなさんの思いが、一歩ずつ紡がれていったからこそです。おめでとう、スガモ市! おめでとう、みんな!」
一拍遅れて、声援が一気に爆発する。「都知事閣下ー!」「万歳ー!」と称賛ばかりではなく、「きゃー!」「可愛いー!」という黄色い声も混じっている。野次や罵声の類は一切聞こえてこない、老若男女問わず支持率は盤石のようだ。
そこに、見憶えのある痩せた男――スガモ市長の秘書のススヤマとともに、小柄でややぽっちゃりとした男が小走りで駆けつける。愁も実物を見るのは初めてだが、あの人がスガモ市長だ。
市長は都知事と握手を交わし、大きなカメラとピカピカ光る傘のようなものを掲げた記者らしき連中の撮影に応じる。市長の先導で都知事一行が議事堂のほうへ入っていくと、周囲の熱狂が少しずつ落ち着いていき、人混みがゆっくりと離れていく。愁もふうっと一息つく。
「……アベシュー?」
「……シュウさん?」
「……あ、いや」
なんというか、未だに胸がドキドキしている。ショタに目覚めたとかでは断じてない。
(あれのどこが子どもだよ……)
外見上は十歳そこらのままでも、精神的には大人以上だ。
それはわかっている、だが――それを差し引いても。
あの佇まい、雰囲気、表情、語り口調。吸い込まれそうな感覚だった。ああいうのをカリスマ性と言うのだろうか、それともそういう風に見せる菌能でもあるのだろうか。
もちろん百年に渡って培われたものが大きいのだろう。だがきっと、あの子自身の人並み外れた器もあればこそなのだろう。そうして完成された今の彼は――それこそサトウや魔人と同じくらい化け物じみて見えた。
(……あれ?)
ふと、頭の隅にカリッと引っかかるものがある。
(あの子、どっかで見たことあるような?)
もちろんこの世界でではない。東京が崩壊する平成の頃――愁にとっては眠っていた期間を除けば五年かもう少し前の記憶だ。
どこかで会った? いや、小学生の知り合いなどあの頃にはいなかった。
テレビかネット? ああ、そんな気がする。ドラマの子役かなにか――。
「シュウくん、もしかしてビビった?」とクレ。
「いや、別に……」
「確かにオーラすごかったね。頭の中で何度か仕掛けてみたけど、どうあがいても一本とれそうなイメージが湧かなかったね。ぜひ一度お手合わせ願いたいなあ」
ぺろりと舌なめずりするクレ。そんな地下格闘家みたいな真似で本当に相手の強さが測れるかどうかはともかく。
「あ、タミコ。都知事のレベル見た?」
「みたりす……」とタミコ。「なんと、130こえてたりす……」
「はっ!? 130!? マジで!?」
「マジりす……あたいもおもわずチビったりす」
「いつの間にか左肩に移ってんのはそれか」
当然と言えば当然だが、レベルが見えなかったというサトウや魔人アラトを除けば最高記録だ。
「ノアに前聞いたのは98で菌能二十八個だっけか。それよりさらに数段上って、さすがは国内最強戦力だな」
「……ですね」とノア。「ひいじい……の手帳にはそう書いてありました。同じ〝糸繰士〟でも、そんなに差があるんですね……」
愁の目覚めてからの五年と、都知事の百年と。単純比較するとレベル差と時間とは比例していないように思える。とはいえそれは、愁がオオツカメトロという(レベル上げ的に)恵まれた環境に放り込まれたからこそだ。
ここから先の60レベルの差。果てしなく遠く感じられるのは気のせいだろうか。
その差が埋まることはあるのだろうか。埋めることが可能なのかどうか。今は想像もつかない。
(……ってか、あれ?)
(もっと強くなりたいとは思ってるけど)
(俺、最強とかめざしてたっけ――?)
「――こんなところにいたのか。おかえり、アベ氏たち」
後ろから声をかけられてはっとする愁。
「……は?」
振り返った先に、キリッとした黒髪美人が立っている。その頭の上にはチワワがしがみついている。
アオモトだ。
***
ギルド支部の飲食スペースは浮足立った雰囲気に包まれている。もちろん祭りが近いのもあるが、先ほどの都知事降臨の瞬間を見物していた人も多いらしい。
「帰ってきてたんですね。つーか本物かと思いましたよ、それ」
立ち飲みテーブルに肘を置いて優雅にコーヒーを飲む様はまさに美人上司だ。その頭に白い毛並みのふわふわが乗っていなければ。
「ふふ……『ショロトル族のぬいぐるみ』、目ざとい職人たちがさっそく大量生産していてな。温泉タマゴに続く新たなオウジ名物だそうだ」
てっきりオウジで一匹拐かしてきたのかと思ってしまった(この女ならやりかねない)。ぬいぐるみはそのくらいよくできている。
「すでに品薄で、あいにく四つしか買えなくてな。寝室用とリビング用と保管用、そして持ち運び用なので、君たちへのお土産は別途お菓子を用意させてもらった。あとで私の執務室まで来てくれ」
昼食代わりの野菜スティックをかじっていたタミコがテーブルの上でそわそわしだし、アオモトはそれをチラ見してほくそ笑んでいる。
「その持ち運び用をなぜ頭に乗っけてるんすか?」
「よくぞ聞いてくれた。残念だがなアベ氏、オウジ深層はすでに君の天下とはいかないのさ。献上品のビーフジャーキーが火を噴い……違う、私の誠意と友愛の精神が身を結んだんだ。彼らもすっかり心を開いてくれたよ。こうして何度も乗せてやったものでな、その感触はもはや幸せという言葉では形容しきれないほどで、私はこの世に生まれてきた意味を知ることができた」
頭上のぬいぐるみを撫でて恍惚とした笑みを浮かべる様は「やべーやつ」と形容できる領域にまで到達しようとしている。
「寝るときもこっそり私の小屋にやってきておやつをねだりにじゃない添い寝してくれるんだ。帰り際には最後まで笑顔で手を振ってくれてね……次の機会には新たなおいしいものを持ってくると約束したんだ。さっそく各地のお取り寄せグルメをチェックしなくては」
「すいません、もう言うけど全部メシ目当てやん」
都合の悪い真実は耳に入らないらしく、アオモトはぬいぐるみを抱きしめて思い出へとトリップしはじめる。
「で、肝心の修行のほうはうまくいったんですか?」
「ん? ああ、もちろんさ。ショロトル族の集落を拠点に、三十二階以降で狩りをしてきた。最前線の調査隊は四十階で階段をさがしているとのことだが、私はショロトル族の有志とともに三十五階まで行ってきた。マッコという愛らしいお嬢さんも来てくれてな、君たちとも一緒に戦った? とか聞いたぞ」
「おー、マッコか」
愁たちは顔を見合わせてうなずき合う。ショロトル族々長ナイの娘、マッコ。愁が命を助け、一緒にボスゴーレムとも戦った仲だ。元気でなによりだ。
というか、ショロトル族は「愁が〝糸繰士〟であることを他の人間には内緒にしてほしい」という約束を守ってくれているようだ。今後のあれこれを考えると風前の灯火と化している感のある秘密だが、せめて御前試合までは隠しとおしたい。
「深層は三十階までとは別世界に厳しいところだった。希少金属を含むゴーレムのみならず、タウロスやズーといった強敵が私を待ち構えていた。私一人では厳しかっただろうが、ショロトル族のサポートのおかげで、この短期間でレベルを二つも上げることができた。最近滞っていたから一気に波が来てくれたのかな? 彼らは可愛いだけじゃなく、幸運ももたらしてくれたようだ」
「おー、おめでとうございます。あのー……実は……」
昨日まで彼女の対戦相手と修行していて、レベルを一つ上げるのを手伝ってしまったことを正直に白状しておく。アオモトも思わず渋い顔になるが、それも束の間だ。
「まあ、詰めた差が一つか二つかの違いさ。元から分不相応な挑戦なんだ、気にせず全力でぶつかるまでだ」
さすがは支部代表の器量だ、凛々しい。チワぐるみを小脇に抱えていなければ。
「そうだ、イカリ氏」
「あ、はい」
タミコと一緒に野菜スティックをかじっていたノアがびくっと顔を上げる。
「私が留守の間に、うちへの移籍が完了したと聞いた。ようこそスガモ支部へ、歓迎するよ。至らない代表で恐縮だが、困ったことがあればなんでも相談してくれ」
「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」
移籍手続きはイケブクロに出発する前に済ませ、スガモの刻印もイケブクロのそれが入っていた脇腹に改めて描かれている。愁たちのチームというだけでなく、名実ともにここスガモの狩人だ。
ちなみに唯一の部外者であるクレはというと、いつの間にか別の席で飲み食いしていたベテラン狩人のカラサワに声をかけている。漏れ聞こえてくる会話からすると、彼を手練と見込んで手合わせを誘っているようだ。
「さて、アベ氏。御前試合の事前ミーティングは今日の四時からだ。みんなと一緒でもいいから、遅れずに来てくれ。それと――彼女にはじゅうぶん気をつけてくれ。彼女の気性については、噂で耳にしているところだろう」
北東の城壁沿いにあるスガモで最も大きな建造物、スガモ武道館。
九段下にあったアレを一回り小さくしてシンプルにしたようなデザインだ。八角形の屋根、その頂点には玉ねぎでなくスガモの市章が鎮座している。
正面出入口の前の広場に〝御前試合運営委員会〟という名札をつけた職員らしき人たちがいて、声をかけると中に案内してくれる。三階建ての一階通路から関係者エリアに入り、薄暗い廊下をしばらく進むと両開きの扉の前にたどり着く。
「この先が舞台ホールです。そこで対戦者同士の顔合わせとルール確認を行ないます。他のみなさん、すでにお着きですよ」
まだ約束の十分前なのに、みんな早いことだ。というか一番下っ端が一番ドベか。遅刻したわけではないが、若干気まずい。
ごごん、と重たい音とともに扉が押し開かれる。ぶわっと砂混じりの空気が吹きつけてきて、愁は一瞬目をつぶる。
「……おおー……」
二メートルほどの壁に囲まれた、八角形の広い空間だ。開閉式らしい天井は吹き抜けになっていて、まだ明るい夏空がスポットライトのようにホールを照らしてくれている。向こう側の端まで五・六十メートルくらいはあり、下には砂が敷き詰められている。壁の上には木組みのベンチが整然と並んでいる、観客席だ。今は誰もおらずがらんとしている。
中心に赤いロープが円形状に置かれている、対戦リングというか土俵の境界線のようだ。その内側に十数人が集まっている――彼らが試合に参加する選手たちか。
ノアたちは入場口付近での待機となり、愁だけが選手と合流する。スガモ側の何人かは見たことのある顔だ、「アベ氏」とアオモトが手を振ってくれて幾分ほっとする。見慣れたオオカミ頭のギランもいる。
「すいません、遅れました」
「気にするな。集合時間まではまだ――」
「――おほほ……先輩方を待たせてのご登場ね、いいご身分だこと」
トゲのある口調でそうつぶやいたのは、愁と同じくらいの背丈の女性だ。腕組をして口元に手の甲を当て、不敵な笑みとともに品定めをするかのような目で愁を眺めている。
シャープな輪郭と切れ長の目を持つ美女だ。モデルのようなすらりとした体型とはちきれそうな胸を真っ白な狩人ジャージに包んでいる。その肌はこんがりと日焼けしたみたいに黒く、髪と瞳の色は銀色。目元と唇にピンク色の化粧をしている。そして――その耳はぴんと尖っている。
黒ギャル、というわけではないらしい。御年四十を越えてもピチピチのその姿は、ウツキと同じく亜人的特性から来ているらしい。いわゆる〝黒耳長人〟だ。
「まあ、怖気づいて逃げださなかっただけ褒めてやるわ。スガモのゴールデンルーキーくん。ほほ、ほほほ……」
(この人が――……)
愁の対戦相手、〝聖銀傀儡〟のハクオウ・マリア。
(……うん、全然似てねえわ)
あまり知られていないらしいが、ウツキ・ソウの腹違いの妹だそうだ。
次回、金曜日更新予定。




