116:カナメチョウメトロ
1/21:【真機那】→【魔機女】に変更。
阿部愁が大学進学の折に故郷の行田から上京して、初めて一人暮らしを初めたのが豊島区要町だった。
最初の「我が城」である築三十年六畳1Kのアパート。四年間、有楽町線で(金欠の月は自転車で)飯田橋にある法治大学に通った。それなりに古くて防音性や遮熱性に難はあったものの、家賃は相場より手頃で交通の便もよく、なにより徒歩で池袋まで出られることがステータスだった(埼玉県民のサガだ)。
卒業後に渋谷のウェブ広告を扱う会社に入ってからも、そのアパートから引っ越すことはしなかった。そのままでも特に不満も不自由も感じなかったし、招待する女性もいなかったからだ。
学生時代の十倍は忙しくしんどくなった新生活でくたびれていく心身を、それでもあのあばら家は受け止め、癒やしてくれた。懐かしい思い出、語り尽くすには十分、いやせめて五分ほしい。
そんな要町ライフを満喫していた当時の阿部愁に、糸繰りの国の狩人アベ・シュウは言いたい。
お前んちの地下、百年後には立派なダンジョンになってるぞ、と。
***
カナメチョウメトロはイケブクロトライブが専有する「所属狩人の鍛錬用メトロ」の上級編だ。
地下四階までと階層は少ないが、地下一階の時点でとんでもなく深い。三千段もの長い長い階段を下りる必要があり、それだけでもはや修行感満載すぎる。
ようやくたどり着いた先はオウジ深層並みに広いフロアで、初っ端から推定レベル20オーバーの獣がわんさか出てくる。そして当然、下に潜れば潜るほど獣も強力になっていく。
それだけなら「初段以上レベル50以上、あるいはそれを過半数が達成しているチーム」を進入の条件とするには大げさかもしれないが、上級編と定められているのには理由がある。一階から四階までほぼ全域に分布する、非常に強力なメトロ獣の存在が原因だ。
「来るぞっ! 陣形戻せっ!」
餓鬼(ぽっこりお腹のヒョロガリ肉食猿)やマンティコア(おっさんぽい顔つきのライオン)といったレベル30台のメトロ獣混成軍との乱闘に突入した矢先、先頭に立つギランがさけぶ。
言われなくても愁たちは気づいている。近くの地底湖の水面に黒い影が浮かび、盛り上がってきているからだ。
やがてその巨体がザパッと姿を現す――ベヒーモスだ。
ファンタジーでお馴染みの強敵モンスター。雄牛のような鋭い角を持ち、ネコ科の大型獣を思わせる筋肉質のたくましい四肢を備え、頭はカバ。ユーモラスな顔つきに見えなくもないが、元々の世界で隠れ地上最強候補と称されたポテンシャルはしっかり受け継がれている。
「ブォオオオオオオオッ!」
ベヒーモスは身震いして水気を払い、地面に上がった足をずしんと重く響かせる。
四足獣だが体高四メートル以上はある。オオツカの成長個体カトブレパスより二回りは大きく、威圧感ではオウジのボスメットに近いものを感じられる。その平均レベルはここカナメチョウメトロ地下三階では破格の55超――殺傷能力という点ではその評価でも足りないくらいだ。
名実ともにこのメトロの生態系の頂点だ。下層に向かうにつれてその強さも巨大さも増していき、この三階の個体ともなると今のイケブクロでも挑める狩人はほんの一握りらしい。
「私とアベくんでやる! 残りはみんなで頼む!」
「りっす!」
「はいっ!」
タミコとノアが返事をし、クレは後ろから裸絞めをかけていたマンティコアの首をへし折る音で応じる。
愁はモフっとした銀毛のオオカミ男と並び立ち、ベヒーモスと対峙する。ちらっと目を合わせる。それだけで通じる程度には一緒に死線をくぐってきている。
「わかっているさ、これが終わったらイカリさんの手づくりランチタイムだろ? 女の子の手料理というのはいくつになっても心が躍るというものだ」
「そうだけどそうじゃねえわ」
「ブォオオオオオオオオオオオッ!」
おたけびとともにベヒーモスが突進してくる。ギランは横に大きく飛び退き、愁はその場で腰を低くして身構える。
右の角での突き刺しを内側にかわし、【鉄拳】で両方の角を掴んで指をめりこませる。
「ぐううっ!」
そのまま足裏を削ってふんばる。背中と下半身の筋肉が悲鳴をあげるが、それでもどうにか十メートルほど押し込まれたところで勢いを殺す。すかさず横から飛び込んでくる影――ギランが【炎刃】をまとわせた【騎士剣】で斬りかかる。
首を狙った赤橙色の一閃を、ベヒーモスは身をよじって前脚の肩で受け止める。「ブォアアアアッ!」と苦痛にうめき、角を掴む愁ごと頭を振るってギランを突き放す。【炎刃】は【光刃】よりも切れ味で劣るが、高熱を伴う攻撃が与える苦痛は想像するにえげつない。
「すまん、外した」
再び横に立ったギランが言う。
「こっちは結構しんどいんすから」
愁はちょこっと恨みをこめて言う。
「後ろは――問題なさそうだな」
タミコとノアとクレは、群がる敵を着実に減らしている。クレがサブミッションで一体ずつ仕留め、その背中をタミコとノアが守る形だ。ノアのレベルアップのおかげで連携もかなり安定している。
「とはいえ、こいつをあっちに向かわせるわけにはいかない。頼んだぞ、カベシュー」
「むかつくわあ、その呼びかた」
愁は両手に【大盾】を出し、ガツンッと両端をぶつけ合わせる。
身震いとともに向き直ったベヒーモスが、怒りと痛みに濡れた目で愁たちを睨めつける。熱い鼻息を蒸気にして噴き出し、前脚をぐっと地面にめりこませる。
全力と全体重を乗せた突進を、愁は【光刃】をまとわせた【大盾】で受け止める。避けることは許されない、これも修行なのだから。
前脚の振り下ろし、噛みつき、角による薙ぎ払いとかち上げ。
縦横無尽に襲いくる、メトロの地形が変わるほどの暴力。
カナメチョウ最強モンスターの猛攻へと、愁は真っ向から飛び込んでいく。
ギランの攻撃が通り、ダメージは蓄積されていく。手負いとなったベヒーモスのヘイトがそちらに向かっても、愁が正面に回って引きつける。
「おおおおおおっ!」
ガリガリと足裏で地面を削りながら、それでも前に押し返す。気合と根性、筋肉は裏切らない。
ベヒーモス戦もこれでちょうど十戦目。相手の攻撃を正面から受け止める壁役を押しつけられたため、靴はとっくの昔にオシャカになり、今履いているのはベヒーモスの皮からこしらえた足袋だ。ぶ厚くて強靭で摩擦にも強いが、それでも足裏が痛いことに変わりはない。
身体のあちこちが軋みだした頃、ようやくベヒーモスが片膝をつき、続けて地面に倒れ伏す。恨みをこめた目はそれでも生にしがみつこうとしているかのようだ。とどめはギランが刺す。
***
「――うおっ!」
階段付近にあるキャンプ地に戻り、ソフトボールほどもあるベヒーモスの胞子嚢二つを胃袋に詰め込んだとき。身体に異変が訪れる。
(ようやく来た、身体ビキビキ!)
待ち望んでいたレベルアップのサインだ。
「っしゃぁっ! 滑り込みレベルアップ! やったぜ!」
「よくやったりす! さすがはあたいのパダワンりす! ぴぎー!」
テンションが上がりすぎて踊る男とリス。ノアとクレも拍手で喜んでくれる。
他のメンバーが仲よく一つずつレベルを上げた中、愁だけが遅れをとっていたのだ。今日が修行合宿の最終日、どうにか間に合った。
「おめでとう、これで君は71か」とギラン。「にしても……前回からたった一カ月ちょいでレベルアップ、おまけに菌能も一つ進化して……つくづく〝糸繰士〟というのは羨ましい成長力だな」
「ズルシューりす」
「結局ギランさんとの差は詰められなかったですけどね」
この男も先日73に上がっていた(愁のベヒーモス専有はその後からだ)。本人曰く「二年ぶりの感触だよ。正直ここいらが限界だと半ば諦めていたが、もう少し上をめざせるらしい」とのこと。努めて平静を装っていたが、翌朝の遠吠えが倍うるさかったのは偶然ではないだろう。
結果的にはアオモトの対戦相手に塩を送った形であり、スガモ勢としては申し訳ない感もある。オウジで修行中の彼女がそれ以上にレベルアップしていることを願うしかない。チワワにうつつを抜かしていたらもう知らない。
「だが君は、スピードはともかくパワーやタフネスではとうに私を超えているよ。同レベル帯の〝獣戦士〟がバフでもかけてるのかってほどの馬鹿力だ」
黒い胞子嚢でのステータスアップの恩恵か、それともオーガだのゴーレムだのボスメットだの怪力自慢ばかりと殴り合ってきた実績からか。愁はそういう傾向に育ってきているようだ。
そもそも狩人の身体能力の傾向は菌職に依存するものが大きいが、愁の場合はそのデータがない。そして気づいたら脳筋系に片足を踏み込んでいたようだ。
愁としては「日本のマンガにありがちなスピードタイプ」推しだったが、こればかりはしかたない。自分でコントロールできるものでもないし。
「ともあれ、この一週間で実戦経験を積みまくり、レベルも一つ上がった。本番に向けて準備万端、といったところかな?」
「うっす、あざっす!」
「りっす、ありっす!」
来たる大一番に向けて、短期間で少しでも強くなるにはどうしたらいいか。対人戦の技術を磨くため、ギランに稽古をつけてもらおうとイケブクロにやってきたのが一週間前だ。
愁とタミコにとっては初めてのイケブクロ、初めてのトライブ領地探訪。スガモより幾分古びた街並みを観光気分で歩いていたのも束の間、ギルド支部でギランと偶然合流し、「私も試合に向けて鍛え直したいと思っていたところだ」という彼の提案でそのままカナメチョウに出向くことになった。
そうして始まった、打倒ハクオウ・マリア特訓合宿。昼はメトロ獣狩り、夜はギランとクレを同時に相手どっての模擬戦。大学の体育会系もかくやというハードスケジュールで己を磨いてきた。
ギランはそこそこ本気のテンションで殺しにかかってくるし、クレはなにか別のものを求めて襲いかかってくる。この手練二人を同時にしのぐのは至難だったが、それができなければハクオウ・マリアの主力スキル【魔機女】には太刀打ちできないのだ。カベシューと称してベヒーモスの攻撃を受け続けたのもその一環であり、もはや修行というか虐待に近いような有様だった。
オオツカメトロでも短期間でここまでみっちり鍛えたことはなかった。スパルタオオカミに何度も叱咤され、「大人になって怒られる」というのがどれほど心苦しいものかを思い出さずにはいられなかった。何度スガモに帰りたいと思ったことか。
それでも――どうにか一週間を乗りきれた。レベルアップと菌能進化という結果もついてきた。達成感もひとしおだ。
「――はい、お待ちどおさまです」
ノアとクレが湯気の立つお椀を持って戻ってくる。昼食のメニューは餓鬼肉と野草のすいとん汁(リクギ村のカヤのレシピだ)、付け合わせは野草とキノコの炒めもの、そして干し芋のてんぷら。洞窟にこだまする「うまたにえぇん!」。
「ちなみに、ぶっちゃけギランさん的に、今の俺に勝ち目ありそうですか?」
「……正直、一週間前なら勝ち目はほとんどなかっただろう。だが、今の君なら――君の隠し玉が通用すれば、じゅうぶん渡り合えると信じているよ」
分が悪いことに変わりはないだろう。
それでも愁自身、手応えはある。やれるだけのことはやったという自負がある。
あとはそれを、思う存分ぶつけるだけだ。
「さて、最後にレベルも上がったことだし、少し早いが食べ終わったら地上に向かうとしようか。今夜中にはイケブクロに戻れるだろう」
「うっす……タミコ、なんで俺のてんぷらまでかじってんの?」
洞窟にこだまする「ああっ……! まだたべてるとちゅうりすからぁっ……!」。
「ノア、ごちそうさま。うまかったよ」
「あ、はい。そこ置いといてください」
水辺で食器を洗うノアの横顔は、いつもの彼女のそれだ。あくまで表面上は。
彼女の中のキラキラと愁たちが交わした会話を、彼女自身は知らない。愁たちもそれを彼女に話してはいない。あの日のことは「ドタバタで何日も張り詰めっぱなしで、不安やらなにやらを全部吐き出した拍子に気が緩んで眠くなってしまったようだ」という風になっている。
彼女にとっては突然の菌職昇華現象についてなにも解決していないままだったが、愁が無理やり今回の修行に同行させた。彼女から目を離すわけにはいかなかったのと、思い悩むより身体を動かして発散させたほうがいいと思ったからだ。
ちなみにウツキは「久々にシャバに戻ったんだからもう少し満喫させて」ということで留守番している。うちに男を連れ込んだら永久追放だと約束させたが可能性は五分と睨んでいる。
愁の思惑どおり、メトロで忙しくしているうちにノアの機嫌もしだいに直っていった。元々が狩人として向上心の高い子なのだ、獲得した能力を遠慮なく活用しようと前向きになれたようだ。キラキラもあれ以降、愁たちの前には現れていない。
とはいえ――いつまで隠しとおせるものか。いつまでも隠したままではいられない。
いずれ必ず、すべてを打ち明けなければいけないときが来るだろう。彼女はそれをどう受け止めるのか――考えると少し怖い気もしてくる。
「――君の判断は、間違いではなかったと思う」
愁の心を読んだかのように、ギランが小声で話しかけてくる。
「かと言って、正解かどうかもわからない。そのときになってみなければな。だが……君があの子を守ろうとしてくれている限り、私は君の味方でもある。一人で背負いすぎなくてもいいんだ」
愁は苦笑する。どこかで聞いたようなセリフだ。
「あの、ギランさん」
「ん?」
「ノアの身の上話とか、ギランさんとノアの関係とか、結局ノアの口から聞けるタイミングがなくて。なんでそこまでノアに肩入れするんですか?」
ギランは言葉を選ぶように間を置き、左右に伸びたヒゲを肉球のてのひらでごしごしと撫でつける。
「……彼女自身というより、彼女の曽祖父と私の関係、だな」
「ノアの、ひいじい? もう亡くなってるんですよね」
「ああ……私がこの手で殺した。八年前のクーデターのときにな」
愁は息を呑む。いきなりすぎて、言葉が脳みそにしみるまで時間がかかる。
「えっと……それって――」
「シュウさん?」
気づくとノアが後ろに立っている。慌てて飛び退く愁とギランだが、彼女の表情を見る限り、聞かれてはいなかったようだ。
「そろそろ出発するんですよね? 二人とも準備してください。忘れ物ないようにしてくださいね」
「「あ、はい」」
ギランに続きを問いただそうとしたとき、洗って干していた愁のパンツをクレがくすねようとするのを目撃。「違うんだ! 洗い物とり込んで畳んであげようとしただけなんだ!」という弁明を無視して最後の特訓開始。
***
話の続きを聞きたかったが、「話せばとても長くなる。祭りが終わったら酒でも飲みながらゆっくり話そう」ということで、ほどなく地上へ向けて出発することになる。
シリアスな顔で「私が殺した」とか「話せば長い」とか、思わせぶりオオカミのせいで多少モヤモヤしたままの道中になるが、長い長い階段を修験者のごとく黙々と上るうちに懊悩は浄化され、一同汗だくで「ファイトォ!」「おおっ!」などと声をかけ合いながら太ももを上げ続ける。
出入り口に着いたときにはすっかり夜で、そのまま領地内の宿に直行して倒れるように眠る。一週間ぶりの布団の柔らかさは夢を見ることさえ許さない。
翌朝。七月二十二日、御前試合まであと二日――。
今度こそイケブクロ観光を、イケフクロウ詣でからの名物のにんにくラーメンをと息巻いていたオオツカメトロ卒のアニマル二匹だったが、「早めにスガモに戻らないと」とノアに首根っこを掴まれてあえなく退出。「ワニバスは街道が混み合って余計時間がかかる」とのことで、徒歩でスガモまでの数時間を歩くことになる。
ノアの読みどおり、街道は馬車やらダチョウ車やらが渋滞し、連休の高速かというノロノロとした進み具合になっている。愁たちは一足先にとその脇をすり抜け、昼前にはスガモに到着してほっと一息。
「つーかさ、試合参加者の事前ミーティングって夕方からだし、そんなに急いで戻らなくてもよかったんじゃね?」
暗にラーメン食べたかったと恨みがましい百三十歳。
「なに言ってるんですか」とノア。「今日の昼頃に到着するって聞いたじゃないですか」
「あ、あー。うん、それな」
知ってた、お前を試したんだ的にうなずいておく。
西の大通りは馬車が進めないほどの大混雑だ。家には寄らず、そのまま人の流れに沿って中央区に向かう。五輪選手のパレードかというほどの人混みをかきわけ、市議会議事堂前の通りに並ぶ見物客の列の先頭に陣取る。ちょっとマナーの悪いやりかただが、愁としてはどうしても見ておかなければいけないのでご容赦願いたい。
やがて、ラッパのような音が夏の空に響く。
わあっと群衆から歓声があがる。
(……リムジンかよ)
南通りのほうからゆっくりと現れたのは、六輪タイヤの巨大な輪入道車だ。真っ黒なボディーがギラギラと太陽光を反射している。周りには黒いスーツのような服装を着た護衛らしき男たちが並走している。
あれに乗っているのが、この国を統べる男。
シン・トーキョー都庁政府の長、都知事だ。
リムジンは議事堂の前で停まり、そして黒服の手で後ろのドアが開けられる。
愁:70→71 タミコ:43→44 ノア:30→31
クレ:51→52 ギラン:72→73




