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姫奏様の運転する車は海岸沿いの瀟洒な建物の前で停まりました。彼女のお話によれば、ここは資産家たちの保養施設が連なっている区域であり、五行家の別荘もその一角にあるそうなのです(ちなみに、後豊子の別荘はここにはありません)。建物の背後は鬱蒼とした山がそびえ立っており、その中にりんりん学校の宿泊施設もあるはずです。
別荘の前には年配の管理人夫妻がいらっしゃり、五行家のお嬢様が挨拶を済ませると車を車庫に入れ、私たちは建物の中に入りました。私の部屋は二階にあてがわれ、メイド服に着替えると、すぐさま姫奏様に呼ばれました。
「せっかくだからあなたに私の髪を整えてもらえるかしら」
姫奏様はすでに着替えており、腰より上にベルトをつけたサマーワンピースという格好でした。先ほどまでの大人っぽい格好と比較すると、星花女子学園時代の可憐さが想像できそうな気がします。
私はまとまっていた姫奏様の黒髪をほどき、背中まで下ろしました。癖っ毛の強い雫ちゃんと違い、はらりと滑るように流れ、ほれぼれするような艶を放っています。暫定的であれど、今はご主人様である姫奏様の、しかもとてつもなく美しい御髪をいじることに緊張をおぼえた私ですが、普段から雫ちゃんの癖毛を『くしくし』しているので、それに比べれば姫奏様の直毛は手入れのしやすいものでした。形だけは慣れた手つきで髪を梳き、希望された髪型に結わえます。
「ふうっ、やはり清歌に会うにはこの髪型が一番ね」
今の姫奏様の髪型は長髪の一部を頭の高い位置で二つ結びにし、他をすべて流しているという、いわゆるツーサイドアップというものになりました。私は在学中の姫奏様にお会いしたことはありませんでしたが、どうやらいつもこの髪型をなさっていたようです。清歌様といえば現在の生徒会長でありますが、そう言えばあの方もこの髪型をなさっていたような……。
「私と清歌は恋人どうしだからね。あの子が私の髪型をあやかるのも不思議ではないわ」
姫奏様と現生徒会長様の関係を、私は車の中でうかがいました。姫奏様が去年のちょうど今ごろ、会長職を次の方に譲り渡したばかりのときに泣きじゃくっていた清歌様と出会い、そのまま親密な関係にご発展なさったといいます。もっとも、姫奏様を遠巻きから慕う方は少なくなく、途中、何度かの苦難はあったそうですが、それも過去の話。今ではお二人を見守るファンクラブが存在し、誰もが現会長の清歌様の恋愛を祝福しておられるとのことです。
「智恵たちのサポートがあるとはいえ、清歌がこの一大イベントを果たせるかどうか気になってね。今の清歌は智恵や他の先輩たちに鍛えられ、頼りになる仲間もいると聞くけど、私は初めて会ったときの頼りなげな清歌を知ってるからね。どうしても心穏やかではいられなかったのよ」
智恵、というのは清歌様の前の会長、江川智恵様のことであり、先々代である姫奏様も信頼を寄せていた方だとか。彼女にこっそり頼めば、清歌様と会うように計らうことも可能でしょうと仰いましたが、最終的には姫奏様は向こう側の方々との連絡なしに、りんりん学校の会場に向かう腹づもりのようでした。
管理人の方から夕食が届けられ、それを済ませると、私は姫奏様に付き従うかたちで別荘を発ちました。そのときにはとっぷり日が暮れており、ぽつんぽつんと点在する街灯が道を照らすだけです。
「それにしても、本当に人がいらっしゃいませんね……」
こちらに訪れてから気になっていたことでした。もっとも、外出する時間帯ではないわけですし、明かりが灯っている建物もあるわけですが、通りには本当に人の姿が見当たらないのです。
私は身震いしました。夜風で身体が冷える季節ではありません。ただ、星の瞬く夜空に浮かび上がる山々の魁偉に恐れおののいたと言うべきでしょうか。
「この時間帯だと、ちょうど生徒会主宰の肝試しがおこなわれているころね」
歩きながら、私の背中から首筋にかけて悪寒がせり上がってきました。肝試しということは、いわゆるお化けが出るというわけで、雫ちゃんならともかく、私の人生では一生関わりたくない事象でありました。回れ右したい衝動で心臓が荒ぶるのを感じましたが、姫奏様を置いて引き返すのは論外です。私の異変に気づいたのか、姫奏様が気遣わしげに顔を覗き込んできました。
「もしかして雫、お化けが苦手?」
「は、はい。そういうビックリさせられるものはちょっと……」
「大丈夫よ。お化けがいたとしても所詮は生徒会の扮装に過ぎないのだから。ただ……この肝試しは表向きで、一定数の生徒たちは別の目的でこの行事に参加してるの」
「と、仰いますと?」
私が尋ねると、姫奏様はいたずらっぽく、同時に艶やかな笑みで答えました。
「この企画は裏で『悲鳴と嬌声の夜』と呼ばれていてね。仲の良い女の子ふたりが人目のつかない暗がりの中でさらに親睦を深めるの。何を意味しているか……晶にはわかるかしら?」
私の青い顔が今度は赤に変わりました。後豊子家のメイドの中にそういう事情に詳しい方がいらして、そのような付き合い方があることを教わったのです。さすがに生々しい内容まではわかりませんが、つまりは雫ちゃんの『ぎゅー』や『ほっぺにちゅー』よりもずっと先のことをするということでしょう。
そわそわする私に、姫奏様はハンドバッグから懐中電灯を取り出し、私に手渡しました。受け取った以上、この鬱蒼とした森の中に入ることは避けられないようです……。