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セレナーデは風の中に

作者: 木漏陽

小学生の恋物語です。純粋な気持ちは、きっとどこかに残る……。

先生の細い指がピアノの鍵盤の上を踊っているのを、僕はじっと見つめている。あるときは細かく、あるときは緩やかに、しなやかな指先が音を転がしていく。

初夏の風が時折、音楽室の白いカーテンを揺らす。その風が一緒に運んでくる良い匂いに、僕はチラッと先生の横顔を盗み見た。シャンプーとかトリートメントの匂いだろうか。いや……母の使う香水などとも違う独特な匂いが僕の鼻をくすぐった。


「……っていう、フォルテで終わる曲だけれど、最後、気持ちはフォルテシモくらいでいいかな」


模範演奏が終わり、先生は不意に僕の顔を覗き込むように言った。軽く弾んだ吐息、こぼれる優しい笑顔、僕はとっさに返す言葉を見失っていた。


樹生みきお君?」


更に顔を近づけてくる先生。慌てて僕は言葉を探した。


「あ、えと、フォ、フォルテ、より強い目で、の気持ち、の感じ、が、はい……」


先生はくすっと笑い小さく頷くと椅子から立ち、椅子の高さを少し下げつつ言う。


「校内合唱コンクール、男の子の伴奏は樹生君だけだから楽しみ」


先生は片手でガッツポーズのように拳を握って見せた。曲調が明るく元気な課題曲にあり、六年生という最上級生の中でピアノ伴奏を担当する男子生徒が僕一人であることに、先生は期待してくれているようだ。他のクラスは全て女子が伴奏をする。


( フォルテよりフォルテシモ気味、フォルテよりフォルテシモ…… )


どのクラスよりも力強く、でも乱暴にならないように、終わりが肝心、音楽的な強弱で……僕は心の中で唱えつつピアノの椅子に座った。

音楽教員の金澤奏子かなざわそうこ先生は二十四歳で、去年からこの小学校に勤めている。たまに授業クラスの名簿を間違えて持ってきたり、次の授業で使う楽器の準備を伝え忘れたりとおっちょこちょいな一面もあるけど、温和で優しく、特に男子生徒から慕われている。

一部の女子生徒からは“天然ちゃん”などとからかわれて呼ばれているが、何事にも一生懸命で生徒の相談にも親身になって耳を傾ける金澤先生に悪い噂は聞いたことがなかった。


「そこクレッシェンド、もっとはっきりがいいな、樹生君」


僕が“樹生君”と下の名前で呼ばれているのは、違うクラスに同じ苗字のピアノが得意な女子がいるからだった。もっとも同じ苗字といっても漢字表記が違う。僕の名前は小川樹生おがわみきおで、その女子は緒川華音おがわかのん

緒川は小学校に上がる前からピアノの英才教育を受けており、自宅にはグランドピアノがある。父親は有名なピアニストで、いわゆるサラブレッド。僕は自宅がマンションでピアノなど持っていない。

緒川が先生達から普通に“おがわさん”と呼ばれるのに対し、僕は“ちいさいかわ君”と呼ばれよく比較されていた。


「そうそう、さすが樹生君、力強くていいな」


そう、この金澤先生が音楽教員となった去年までは。

これでも音楽大学に入りたいと思っている僕は、学校のピアノが空いている放課後は出来る限り触れさせてもらっていた。そのためか、友達がほとんどいない。ほとんどいないと言うか……正直に言うと全くいない。

運動が苦手で背も低いし、勉強も出来る方ではない。暇さえあればピアノの練習曲を開いているような僕と話しが合うような男子などいるはずもなかった。


「そこ、トリル、ため気味がいいかも。ちょろっとなんとなく弾いちゃうと、なんかせせこましいかな」

「あ、はい……」


真剣な金澤先生の声が、すぐ後ろから聴こえる。息使い、柔らかい声、吐息。

いつからだろう……先生を好きになったのは。

そうか、きっとあの時だ。

去年も合唱コンクールの伴奏指導をしてくれた、あの時。

ピアノの表現力ではとても敵わないと思っていた緒川華音。あの子と一緒に指導を受けていた時のことだ。


「打音の力強さ! やっぱり男の子ね、樹生君! 私、驚いちゃった」


これまで、緒川と指導を受けると必ず彼女が手本にされ、休符のリズム感、円運動のような滑らかな音符並び、クレッシェンド、デクレッシェンド……ここを真似なさい、あそこを彼女のように直しなさい、と言われるだけだった。それが……


「私、驚いちゃった」


僕が思わず振り向いたそこには、心底感心して驚く金澤先生の顔があった。

今考えると、ただ褒められただけなのかも知れない。けれど、初めて認められたような、男として肯定されたような、そんな気がして、僕は心臓の鼓動が激しくなっていくのを感じたのだった。


蝉の鳴き声が聴こえ始める季節になり、校庭の大きな桜の木も濃い緑を茂らせ優雅に揺れている。僕はふと足を止め、風に揺れる木を見ながらあるピアノ曲を思い出していた。


( なんていう曲だったっけ……確か、“緑の季節”だったかな )


子供用の独奏曲集にある簡単な曲。難しいところは無いのだけれど、シンプルなだけに弾く人によって表情が全然違ってくる曲。弾き始めの一音目、その奥深さ、大切さに散々苦労したことを思い出す。

あのレガートを金澤先生ならどう弾くかな……


ドシッ!

「あいっ……」


不意に僕の後頭部を衝撃が襲った。


「小川!」

「おい、平気か?」


クラスメートの声が聞こえる中、僕はふらっとよろけて校庭に倒れ込む。

倒れながら思った。

まずかった。体育の授業中に、サッカーの試合中に、ぼーっとピアノのことなんか考えていたのはまずかった……。

膝を擦りむいた僕は手当てをしに保健室に向かった。体育は苦手だ。サッカーとか、あんなのまるで格闘技じゃないか。肩をぶつけ合ってボールを取り合って何が楽しいのか。全く理解が出来ない。


「ほい、終わり!」

「てっ……ど、どうも、すいません……」


絆創膏の上からバシッと無神経に叩かれ、保健の先生はガサツだなぁとつくづく思う。金澤先生とは大違いなおばさん先生。ボールが当たってじんじんする頭を押さえながら、僕は保健室を出た。

校庭に戻ろうとしたが途中で授業終了のチャイムが鳴り、そのまま向きを変えて教室に向かう。

保健のおばさん先生は気が強くて苦手だ。あの感じ、すぐ怒るし、なんだろう。例えるなら……ヴィラロボスの“野生の詩”のような……いや、あんな高尚な感じじゃないか。もっとガサツな……


『私、驚いちゃった』


ふと思い出す。

ピアノのことを考えていると、やはり思い出す。金澤先生の感心した顔、驚いていた表情。

力強いピアノ。男の僕が弾く、僕のピアノ。いつか弾けるようになりたい……


「野生の詩、ヴィラ……」

「わ」

「あわっ……」


無意識に手を掛けた教室のドアが内側から勝手に開き、背の高い女子とぶつかりそうになった。頭一つ分くらい、というと大袈裟だけれど、大きい女子、武笠結菜むかさゆいな。大きいと言っても百六十センチくらいか。僕が小さ過ぎるのだ。


「野菜の? ビラ?」

「あや、いや、ごめ……」

「あ、もしかして、女子の着替え覗こうとしたな小川!」

「ち、ちが……」


ああ神様。どうして女子をこんなにも大きく強い生き物に作りたもうたのか。そして僕はなぜこうも背が低いのか。

武笠は僕の頭越しに廊下を覗き見て言った。


「ほら、男子まだ誰も来てないじゃん。覗きだ覗き! 変態!」

「ちょ、ちがうって、声でか……」


彼女は僕の頭を掴みくしゃくしゃっと撫でまわすと、そのまま軽く廊下へ押しやった。


「良いって言うまで入んなよ、変態ミキオ」


カラカラカラ……ピシャ!


武笠が教室のドアを閉めた。

散々だ。

サッカーボールをぶつけられ、でか女に頭を掴まれ、変態と言われ……早く放課後になれ、と僕は心底祈った。金澤先生との時間、ピアノ指導の時間よ早く来い、と。


教室の中ではドアを閉めた武笠が腰に手を当ててあからさまな溜息をついていた。


「はぁ、変態ミキオ、やらしー」


着替えを終えた別の女子が言う。


「ゆいなー、トイレ行くんじゃなかったの?」

「小川がいてさぁ」

「別にいいじゃん。皆んなほとんど着替え終わってるし」


武笠は活発な女子で友達も多く、仲の良いグループの中ではリーダー的な存在。運動神経が良く、たった今も体育館でのバレーボールは彼女の独壇場だった。耳がやっと隠れるくらいに切り揃えたストレートの黒髪を下に引っ張るようにいじりながら言う。


「だってさ、気配消してんの、ドアんとこで。キモいってば」


いかにも小川が気持ち悪い、みたいな表情を作ってみせているが、数人の女子は気付いていた。小川樹生を執拗にからかう武笠結菜の、隠れた想い。


「え、頭撫でたりして、仲良さそうじゃん」

「はぁ!?」

「なーんてね。入れてあげなよ、小川」


何の気持ち持っていなければ小川なんか無視してトイレに行けばいい。でも武笠は内心、少し恥ずかしかった。トイレに直行する自分を小川樹生に見られることに、やはり少し抵抗を感じていたのだった。


武笠結菜は一年生、二年生、五年生、六年生と四回、小川樹生と同じクラスになっている。

一年生の頃、内気で友達を作ろうとしない小川を活発な武笠は昼休みなどによく遊びに誘っていた。


「僕はいいよ。走るのとか苦手だし」


けれど、男子とも女子ともなかなか打ち解けようとせず、本ばかり読んでいる男の子だった。

二年生になると彼は休み時間にピアノの教本ばかりを見るようになり、武笠がこっそり覗き見たその楽譜には赤い字のカタカナがいろいろと書き込まれていた。スタッカート、テヌート、モデラート……意味の判らない言葉もあったが、自分の知らない世界を持っている男の子、小川樹生に、なんとも言いようのない憧れに似た感情を武笠は持つようになっていた。

誰とも連まない小川樹生。

気が弱そうに遠慮がちに話すくせに、放課後一人で黙々とピアノを弾いている彼の横顔はどこか凛々しい。

一途に、静かに、自分だけの世界に一生懸命な、とても繊細な男の子……そんな風に武笠には見えていた。


( でも、好きとかじゃない。好きとかじゃ、ない…… )


武笠は友達数人と一緒に廊下に出た。そして横目で睨むように、小川に言った。


「まだそんなとこにいたの?」


小川は居場所なさ気にうつむくと、すごすごと教室に入っていった。ふと彼の膝の絆創膏が武笠の目に止まる。


( あれ? 怪我?…… )

「……ドジ」


武笠のつぶやきが友達の耳にも入った。


「え、なに?」

「小川、コケたみたい。ドジだよねー」

「え?」

「絆創膏貼ってた」

「へー、よく見てるね、ゆいな」

「まぁ、別にどうでもいいけど」

「ふふ」

「なによ」

「ふふふ」

「だからなによ、もう」

「弟みたいに可愛いんだよねー、ゆ、い、な」

「か、かわいい? どこが! キモい」

「あはははは」


武笠はむくれた顔でトイレの個室に飛び込んだ。


一学期も終わりに近づき、校内合唱コンクールの自由曲の方を決めるため、僕たち六年生各クラスの伴奏担当者は音楽室に集められていた。

音楽室はエアコンが設置されているが、今日は窓が開け放たれている。まとわりつくような七月中旬の熱気の中、僕はコピーされた課題曲の譜面でパタパタと首の辺りを扇いでいたが、ふと目をやった緒川華音は涼しい顔で背筋を伸ばして静かに座っている。それを見て僕は扇ぐのをやめた。


「演奏は各クラス二曲、課題曲と自由曲です。ピアノ伴奏の難易度もあるため、自由曲は今日決めてしまいます」


金澤先生から一通り説明があり、各クラスで提案された自由曲を吟味していく。候補となった自由曲を二声合唱、多くても三声合唱に編曲し直すのは金澤先生の役目だ。


「あら、あれれ……」


先生の様子がおかしい。大量の譜面を左右の小脇に抱え込みながらなにか探しているようだ。


「えっと、三組の、曲が……」


緒川がすっと手を挙げた。慌てながら譜面を探し続ける金澤先生に声を掛ける。


「あの、先生」

「ちょっと待ってね、確か、あったのに……」

「その曲なら暗譜あんぷしていますけど」

「えっと、伴奏に難しいところがないかどうか、あ、え、暗譜しているの?」


緒川はくすっと笑い、頷いた。暗譜していると言うことは、難しい曲かどうかの判断の段階を通り越して当たり前に弾けます、ということだ。


「弾いてみせましょうか?」


緒川は再びニヤッと笑った。

金澤先生はどうやらその曲の譜面を忘れてきてしまったようだが、僕には緒川の笑い方が先生を馬鹿にしているように見え、少し腹が立った。譜面を忘れてきた上に難易度をこれから見るの? 天然ちゃん……そういう笑い方に見えた。

演奏された緒川の伴奏は完璧で、改めてその滑らかに流れていく音符のしなやかさに驚かされる。


「問題ないわね。ありがとう、緒川さん、ごめんね、助かりました」


嫉妬心、そして腹立たしさ。

常に僕の先をいくピアノの技術と、先生を小馬鹿にした態度。

なんだか悔しい。

このままだと悔しい。

無性に悔しい。


( 僕だって、僕だって!)


僕の口から、常識で考えれば突拍子もない発言が飛び出した。


「あの、あ、あの、最後の、あ、六年生最後だし、校内合唱の時に、ピアノ独奏、生徒の、独奏コンクールもやりませんか!」


過去、校内合唱コンクールに生徒によるピアノ独奏会など、それもコンクール形式など行われたことは一度もない。学校の年間行事予定は当然決まっている。

言った直後、僕は後悔した。


( あ、う、言わなきゃよかった……)


ちょっと頭に血が上り、見返したいと思っただけだ。

緒川華音を、先生を馬鹿にした彼女を見返したくて、勢いに任せて言ってしまった。

冷静に考えると、そもそも曲目は? この緒川華音に勝てる曲などあるのか?

ショパンやブラームスの上級者曲を弾いてるところを何度か聴いたこともある。

いや、その前に、勝ち負けや順位を決める目的は?

なんだっけ、何のためのコンクール……


頭が冷えてきた僕は気付いた。ただ単に金澤先生が馬鹿にされたと思っただけだ。それも、緒川は暴言を吐いたりしたわけじゃない。ちょっと笑っただけに過ぎない。


「そうねぇ……」


金澤先生は譜面を揃えつつ考える仕草をし、一応生徒に聞いてみた。


「皆んな、どうだろ、樹生君の提案」


六年生は四組まである。四人だけのコンクールとなると選ばれた者だけを特別視する不平等さが生まれる。ピアノ技能は公立小学校の必須科目でもなんでもない。そういう意味でもコンクールとしては現実味が無いだろう、と内心で金澤先生は思っていた。

緒川がまたニヤッと笑い、僕をチラッと見て言った。


「私なら、やってもいいですけど」


やってもいい、という言い方、その高飛車な言い方がまた僕のカンに触った。四人の伴奏者のうち、緒川と僕以外は顔を見合わせて悩んでいる。

僕は緒川の顔を盗み見るとすぐに目を伏せた。何か緒川華音に一矢報いることは出来ないか、などと性懲りもなく考え始めている自分に気付く。

何かないか。

この英才教育サラブレッドに対抗出来るものは……


「そう。まあ、でも、コンクールの形は多分難しいかな。ピアノは学校が公に指導している科目じゃないしね」

「あ、の、それじゃあ……」


僕はガバッと顔を上げて言った。


「自作の曲を、コンクールじゃなくて、競うんじゃなくて、か、簡単なのでも、自分で作曲して、合唱の前座みたいに、弾いて、聴いてもらったら、どう、かな……」


僕は緒川の顔をチラ見して、そして二度見した。なぜなら緒川華音の表情があきらかに困惑したからだった。それはそうだろう。音楽大学を目指しているピアニストとは言え、小学生が作曲など出来るわけがない。

創作課題というものはそのうち付いて回るだろうが、今はひたすら再現、既存曲をいかに指定通り再現するか、その技能を叩き込まれる時期だからだ。

金澤先生が急に明るい声を出した。


「あら! それは素敵ね。学校に提案してみようかな」


先生のリアクションは僕にとってことのほか嬉しかった。

心臓の鼓動が高鳴ってくる。先生の嬉しそうな表情に、顔が熱くなってくるのがわかる。

笑顔が消えた緒川から、小さな声が漏れた。


「作る暇があれば……お父さんにも相談しないと……」

「そうね、じゃあ希望者だけという形で学校に言ってみるわ。皆んな、それでいい?」


生徒四人は頷くと、決めた自由曲の練習スケジュール打ち合わせに入った。

ふと気付く。

しまった……


( 僕も作曲なんかしたことないぞ…… )


やってしまった。

自分もやったことのない創作曲という提案……墓穴。

気分が後ろ向きになると、いろいろと気がついてくる。

僕は最初、コンクールのかたちで無謀にも緒川に喧嘩を売り、受けてくれた彼女から、勝ち目がないと気付くと逃げたんだ。

そして緒川が出来そうにないことを探し、自分を棚に上げてまた吹っかけた。彼女を困らせるために。

嫌がらせ。単なる子供じみた嫌がらせじゃないか。


( なにやってんだ僕は )


そうか。

それほど嫌だったのか。

先生が、金澤先生が馬鹿にされたことが、自分を見失うほど嫌だったんだ。

それほど先生が……好きになっちゃったんだ。


「……で、いいかしら、樹生君」

「へ?」

「夏休み中の個人練習、私が立ち会える日と、代わりの先生が見てくれる日」

「あ、はい、夏休みは、僕はいつでも……」


後で予定表を配布するということだけど、一応日程のメモは取った。今日はこれで解散となる。僕は先生にこの後ピアノを使わせてもらってもいいか聴いた。


「うん。私は五時くらいまでいるけれど、そうだなぁ、四時までにしよっか」

「はい、ありがとうございます」


他の伴奏担当者は帰り、僕は練習前に最初に当たる運指の教本を出そうと鞄を開けた。


「ん……」


ない。教室の机の中には絶対に置かない。でも、ない。鞄の中に無い。

先生が心配そうに近づいて来た。


「どうしたの」

「え、と、ハノンが……家かな……」

「あら、無いの?」

「うん……」


先生は軽く目を泳がせて少し考えると、思い立ったように音楽準備室に入っていった。そしてハノンを持って出てきた。


「あったあった、はい。いろいろ書き込んじゃってるけど」


それは年季の入ったボロボロのハノンで、青い表紙もそれを縁取る淡緑色の枠も色あせて黄ばんでいる。表紙の裏側には下の方に手書きで“金澤奏子”と書かれていた。


「ああ、どうも、いいんですか、借りて」

「うん。教員になれたし、私はピアニストじゃないから、良かったら樹生君が使って」

「え?」

「いらないか、こんなボロボロなの」

「え、いえ、そういう、そんなこと、あ、え、い、いいんですか、持ってても」

「いいよ。忘れてきた用に置いておいたら? 学校に」


( や……や……やったあああああああぁ! )


先生のハノンをもらってしまった! 学校に置いとくなんてとんでもない! 持って帰って枕元に置いて寝る! いや抱いて寝る! 毎日抱いて寝る!!


「じゃ、一旦職員室に戻るから」

「……ひゃ、ひは、はい」


思わず変な返事が出てしまった。少し手が震えている。


「頑張って話し通してみるね、オリジナル曲の独奏」

「あ、はい……」


そうか、それがあった、と僕は少し気が重くなった。


「すごい楽しみ。樹生君、どんな曲作るんだろう……私は作曲なんてやったことないけれど、その人の心の中が音楽になるなんて、考えただけでドキドキするな」


( 心の中が、音楽になる…… )


曲を創作するということ、その意味を僕は深く考えていなかった。けれど、先生の言葉が、ただ気が重くなっていただけの僕に微かな風を送り込む。

絵を描くように、詩を書くように、音楽を描く。自分の心の中を、音符にしていく。どんな気持ちを表現すればいいのだろう……

僕の頭には自然とベートーベンの“エリーゼのために”が流れていた。かつてベートーベンが愛する女性に向けたというピアノ曲だ。決して難しい曲ではない。けれど、どんな情景を思い描いて、どんな気持ちを込めて弾くかによって色気のある強弱が美しく宿る。自分で作るとなれば尚更……


「……先生のために……」


無意識に僕はつぶやいていた。


「ええ?」

「……あや、な、なんでもない、です」


先生はにこっと笑い、言った。


「私のための曲なんて、もし作ってくれる人がいたら、感激して一生大事にしちゃうな」


それは穏やかな言い方だったけれど、僕の頭に向かって遥か上空から落ちてくる爆弾のような、衝撃的な言葉だった。


( い、一生、大事!? )


「じゃあ、四時ごろ見にくるわね」


一生大事、一生大事、一生大事……その言葉が炸裂し、僕の頭の中をバチバチと弾け、ぐるぐると回り出す。


( 作るんだ、先生のために作るんだ、一生大事な、先生のための…… )


いつ出ていったのか、いつの間にか音楽室に先生はいなかった。

その後の練習は運指から何からぐにゃぐにゃで、まともに練習にならなかった。僕は耳が真っ赤になっており、顔もカーッと熱くなったままで、練習後も先生のハノンを両手に抱いたままふらふらと夢遊病患者のように下校した。


夏休みに入ると、僕はピアノ教室と学校の音楽室を交互に通うような生活をしていた。両方とも使えない日は図書館へ行き、楽典の知識をあさる。曲の創作のためだ。

専門書は駄目だ。和声法だけでも時間がいくらあっても足りない。楽曲というものは和声わせい=コード、律動りつどう=リズム、旋律せんりつ=メロディという大きく三つの要素で構成されているとのことだが、一つ一つを一から作り始めるとなると何年掛かるか判らない。


「作曲家ってすごいんだな……」


“簡単作曲法”みたいな本も読んでみたが、他の曲の和声の流れを真似るとか、とりあえず根音を四分音符で埋めるとか、そんなもの作曲でもなんでもないじゃないかと言いたくなることしか見当たらなかった。

“エリーゼのために”の和声や律動がどういう作りになっているのか調べてみたけれど、小学生の僕ではとても時間が掛かる上に、数小節やってみた時点で、構造がわかったからと言って新しい曲が作れるとは限らないことに気づき、僕の手は止まってしまう。


( あるんだ……メロディみたいなものが思い浮かんでるんだ……でも理論の無いハッタリでいいものかどうか…… )


やるしかない。やってみるしかない。

学校の音楽室で僕は一人、整然と並ぶ鍵盤に向かい、大きく深呼吸をした。

エリーゼのためにはイ短調だけれど、僕が作りたいのは明るい出だしで、きっと長調だ。

左手で“ドミソ”という和音を弾いてみる。思い浮かんでいるメロディ……右手で“ド”を、一音目を弾いてみた。左手の和音と右手の単音が綺麗に重なる。

でもその響きは何か当たり前過ぎる、と僕は感じた。

右手の“ド”の代わりに“ミ”を落としてみた。すると“当たり前過ぎる安定感”から少し変化がつき、何かの物語が途中から始まるような感じになった。それでもまだ“これじゃない感”がある。

次に一音目を“ソ”に変えてみた。


「お……」


気持ちが高いところからすっと現れる感じ。悪くない。けれど、まだ何か違う。いきなり高揚しているようで、何というか、金澤先生の……そう、透明感みたいな感じと少し違う。

“ド”と“ミ”と“ソ”、構成和音は全部試してしまった。ハ長調の中で出だしに使う和声を四和音にした場合、確か“シ”が加わる和声になると本にあった。左手で“ドミソシ”という和音を弾き、右手で“シ”の単音を弾いてみる。


「んー……」


おしゃれな大人っぽい感じになるのだけれど、どこか物悲しく、明るい出だしとは離れてしまった。

となると出だしは“ソ”か。

無難に“ド”が、やはりいいのか。


( どうせ理論なんかちゃんとやってないんだ! )


僕は開き直り、左手の“ドミソ”を改めて鳴らすと、右手のメロディの最初の音を探すために全ての音を順番に試していった。


「ファと、レ……」


どちらも不協和音に聴こえる。一音目に使うと音がぶつかって聴こえるのだ。でも、二音目に“ミ”とか“ド”を持ってくると、きれいに落ち着いてくれる。思い付いていたメロディに近い流れは……


レ……ミ……ド……ソ……


「おお」


不協和音ぽく始まるように聴こえた“レ”から始まるメロディは、何とも言えない透明感を伴って流れ始める。


「これだ……」


僕は音を探していくのが面白くなり、夢中で二小節目の和声を模索し始めた。


「なにしてんの」


開け放した音楽室のドアから不意に女子の声がし、僕はビクッとして廊下の方を見た。

そこには武笠結菜が立っていた。髪が濡れ、ポリ樹脂製のバッグを持っているところを見ると、学校の水泳講習の後のようだ。


「え、練習、合唱の、伴奏……」

「うそ、弾いてなかったじゃん、合唱曲なんか」


武笠はつかつかと音楽室に入ってくると、ピアノの譜面台をズイッと覗き込んだ。彼女の髪から水滴が鍵盤にポタッとしたたり落ちる。譜面台にはハノンや課題曲の譜面の上に重なり、一番上には書き始めたばかりでほとんど白紙の五線譜が置かれていた。

武笠の視線がそのタイトルに向く。


「金澤先生のために? 仮? なにこれ」

「うああ!」


僕は慌ててその譜面を台から掴み取った。その拍子にシャープペンが台から転げ落ちる。


「な、なんでもないよ……」


武笠は転げ落ちたペンを拾い、右手でそれをクルクル回し始めた。


「なんでそんな慌ててんの。合唱のピアノ練習で解放されてんでしょ、ここ。いいのかよ、違うことしてて」

「違うことじゃないよ、この創作も、やるやつだし」

「創作?」


彼女の手で回っていたペンがピタッと止まり、僕が抱え込んだ胸の譜面にその視線が向く。そして彼女は瞳を少し泳がせた後、ペンを譜面台へ荒々しく戻した。


「へぇ……曲作るんだ。天然ちゃんのために」

「た、ためにっていうか、仮タイトルだし、まだ、その……」


笑われるのかと思ったら、なぜか武笠は不機嫌そうだ。何を怒っているのだろう、と僕は少し不思議に思った。


「なに、やらされてんの? 皆んな作るように言われたの?」

「いや、希望者だけ、合唱の前に弾くやつ、前座みたいな、開会後に独奏で、弾くやつ」

「希望者?」

「うん」

「なら、やらなくていいじゃん。そんなの」

「僕が、僕が提案したんだ、やろうって」

「え?……」


武笠は少し驚いたような表情をし、そして口をへの字にすると僕を睨んだ。何か言いたそうに見えたが、そのまま黙って音楽室を走って出て行ってしまった。


( なんだったんだ )


そもそもなぜ音楽室に来たのだろう、仮タイトルを言いふらされたりしないだろうか……そんなことを考えながら僕は“金澤先生のために”という文字を消し、その上に“ハ長調 独奏”と書き直した。


武笠結菜が時々小川のピアノ練習の音を廊下で聴いていたことを、小川は知らない。それは夏休みだけではなく、もっと前から、別のクラスだった三年生の頃から、ずっとだった。

最初は誰が弾いている音なのかその姿を見ないと判らなかったのだが、今はすぐに小川だとわかる。

低音も高音も力強い。特にズドンと響くような低音が、武笠は大好きだった。

高音は硬い音で、ややバタバタした感じはあるものの、くっきりとそこに存在しているような感じ。


( 金澤先生のために? なにそれ )


小川は自分で提案したと言っていた。創作曲を、金澤先生のために。それってどういうこと?……

小川の“天然ちゃん”を見る顔が、武笠の頭を次々と過っていく。音楽教師だから尊敬している一面もあるだろうな、くらいには思っていた。でも、それだけではなかったんだと気付く。


( 自分からわざわざ……あんなタイトルまで付けて……それって、好きってことじゃん )


「むかつく」


何が、と聞かれるとよく判らない。自分がどうして不機嫌になっているのか、よく判らない。とにかく……


「むかつく!」


小川なんかどうでもいい。でも“天然ちゃん”が好かれるのは意味がわからない。忘れ物したり、なんかふわふわしていて先生らしくないし、ダメ教師じゃん、あんなの。

小川が“天然ちゃん”のために曲を作って弾くとか、小川のピアノの良さは私が一番知っているのに、小川なんかどうでもいいけど……


「ああむかつく!!」


学校の正門を飛び出した武笠の顔は、泣きそうな表情になっていた。


夏休みも終盤に近付いていた。金澤先生との個人練習では、結局僕は創作曲の相談をしなかった。思いのほか時間が掛かり手こずっていたけれど、楽しみだ楽しみだと言ってくれる先生には本番まで聴かせたくなかったからだ。

今日はピアノ教室も学校も使えない。仕方なく自分の部屋でピアニカを使い作曲を続けていると、珍しく家にいた父に怒られてしまった。


「そんなこと言ったって……じゃあ買ってよ、ヘッドフォンで弾けるキーボードとか」

「高いんじゃないのか? 中学に上がったら考えてもいいぞ」

「遅いよそれじゃ……」

「とにかく、お隣に迷惑だからやめてくれ」


うちはマンションで特別防音でもない。当然ピアノなど無い。こんなピアニカですらも部屋では吹けない。一小節作るのに一時間近く掛かることもあるのに……この八方ふさがりな感覚は僕をどんどん暗い気持ちにさせていった。例えるなら……僕の頭にはショパンのノクターン第二十番が悲しげに流れていた。

ジュースでも飲もうと台所へ行くと、母が苦笑いしている。僕と父とのやりとりが聞こえていたようだ。


「お父さんもね、結婚した当初は四十歳までには一戸建てを、なんて言ってたんだけれど、会社も厳しいらしくてね」


もう四十六じゃないか、父さん……などと思いつつ冷蔵庫からリンゴジュースを取り出した時、僕はあることにふと気付いた。


「あれ、母さん、三十三歳だよね」

「そうね。なに、急に」


なんということだろう、こんな身近に……僕はリンゴジュースのパックをテーブルに置くとコップに注ぐのも忘れて母に聴いた。


「気にならなかった?」

「何が?」

「結婚。父さんと」

「え?」

「とし、十三歳も離れてて」

「ああ、別に、気にはならなかったかな。もともと若く見える人だったし」


僕と金澤先生は干支が同じだ。つまり十二歳差……父さんと母さんよりも歳が近い。


( 気にならない……気にならない、気にならない、近い、近い、近い、近い…… )


しばらく目を泳がせていた僕は、そのままふらっと台所から出て行こうとした。それを見て母が言う。


「ちょっと、ジュース、飲まないならしまいなさい」


ガンッ


僕は母の声もまともに耳に入らないまま、台所のドアに頭をぶつけていた。


二学期に入ると厳しい残暑の中、今年はゲリラ豪雨のような土砂降りが多かった。その日も風を伴った雨が音楽室のガラス窓を打ち付ける中で、僕は金澤先生と合唱コンクールの個人練習をしていた。次の授業の日にクラス全員と合わせる予定の自由曲、その完成度を見る。


「んー、悪くないんだけれど……せっかくのモール調だし、もうちょっと丁寧にいってみようか」


雑に聴こえてしまうのは、多分僕の集中力のせいだ。いつもならもう少しまともに弾けるのに、つまらないところでミスしたり、ピアニシモが歌を邪魔するほど強すぎたりする。それは……先生に聴きたいことがあるのに、聴けずに悶々としていたからだった。


突然顔を近付けてきたり、目を覗き込んだり、僕の肩を触りながら話すのはなぜですか?

女子生徒は皆んな僕に冷たいのに、先生がそんなに優しいのはなぜですか?

どうしてそんなに一生懸命練習に付き合ってくれるんですか?

その笑顔は、どんな気持ちの笑顔なんですか?

好きな人はいますか?

歳の差とか、気にしますか……


小学校六年間、片想いはあったけれど、女子から好かれたことなんか一度も無かった。中学に行っても、高校に行っても、僕にはきっと彼女なんか出来ないだろう。自分でわかる。だって、僕には何の取り柄もないのだから。


( 好きな人はいますか? 歳の差とか……気にしますか!? )


僕は唐突に演奏を止めた。


「あ、ああ、あの!」

「え?」


聴けない。怖くて、聴けない。

頭が熱くなり、顔まで熱くなり、手が震え、足も震えだす。


「どうしたの、樹生君」


聴きたいことが頭の中をぐちゃぐちゃに渦巻き始め、絡まったまま、僕の口からは違う言葉が出ていた。


「……そ、創作の、曲はちゃんと作って、せ、せせせ、先生のために作ってプレゼントします! 今日はちょちょちょ調子悪いんでか、かか帰ります!」


僕は譜面台から楽譜をがばっと掴み取ると、乱雑に鞄に押し込み、逃げるように音楽室を飛び出した。

下を向いたまま廊下を走っていたため、中央階段への曲がり角で女子とぶつかりそうになった。同じクラスの武笠結菜に見えたが、夢中だった僕はそのまま階段を駆け降りた。

昇降口で、焦っていてなかなか開かない傘を中途半端に抱えたまま校庭へ飛び出す。土砂降りで前がよく見えなかったけれど、僕はずぶ濡れになりながら走り続けた。

先生から少しでも遠去かりたくて、ひたすら走り続けていた……。


合唱コンクール当日。


「う……ん、え、えあ、うわああ!」


ベッドから飛び起きた僕は、創作曲の終結部、残り八小節が出来ていないまま眠ってしまったことに気付き、慌てて時計を見た。今からすぐ家を出れば……三、四十分は音楽室が使えそうだ。

終結部が空欄の譜面を鞄に押し込み、寝癖だらけの髪のまま、僕は朝食も取らずに自宅マンションを飛び出した。


学校に着くと僕は担任の先生に事情を話し、音楽室の鍵を開けてもらうよう頼んだ。


「金澤先生、もう来られて、体育館のピアノを準備していると思うぞ。呼ぼうか?」

「いえ、残り、ハァ、ハァ、創作曲の、ハァ、やっちゃうだけなんで、ハァ、ハァ、大丈夫、です……」


全速力で通学路を走ってきた僕は息を弾ませつつ、音楽室の時計を見る。プログラム序盤の下級生が当日練習を開始する時間まであと一時間弱ある。幸い他の伴奏者もまだ登校していないようだ。

僕は担任に御礼を言うと、楽譜をピアノの譜面台に起き、トイレに向かった。実はこっちもやばく、漏れそうだった。それはそうか。トイレどころか朝食も取らず家を飛び出してきたのだから。


( あと八小節、一時間で出来るか…… )


コーダ前までは出来ている。やるしかない。

第一楽章、第二楽章……と自分で作ってきた曲なので、コツは掴めてきている。けれど、何と言っても終結部、ある意味メイン楽章より大事だ。


( 先生が感動するような、低音トリルも入れて……でも優しい感じは壊さずに…… )


頭の中で使う和声を整理しつつ、僕は音楽室に戻った。


「あれ」


ない。

たった今譜面台に出した創作曲の楽譜がない。僕は改めて鞄の中を探したが……無い。

合唱曲の譜面に挟まっているのか……何度も見たが、見つからない。ピアノの下にも落ちてはいなかった。


( どこかで落としたか?…… )


音楽室を出て廊下を見渡したが、落ちていない。良く思い出してみるに、家では確かに譜面はあった。それを鞄に入れたことも覚えている。鞄は音楽室の中で開けた。ということは、通学路や廊下などに落とすとは考えにくい。

でも、ない。現実に、無い。

時計を見ると、下級生が当日練習に来る時間が刻々と迫っていた。

ピアノは音楽室と体育館にしかなく、もちろんピアノが無いと曲は完成しない。


( どうしよう……どうしよう…… )


心臓は毒々しい鼓動を打ち始め、それが限りなく強くなっていき、四方八方が塞がれるような圧迫感を僕は感じていた。


六年一組の教室に今しがた駆け込んで来た武笠結菜は、まだ誰も登校していないことを確認すると、手に持っている譜面を見た。

タイトルの欄に小川樹生の字で“ハ長調 独奏”と書かれている。五線譜の中の音符は何度も消しゴムで消したあとがあり、苦労して作ったのであろうことが伺えた。


「どうせ見なくても弾けるんだろうけど。でも間違えたら面白いな」


聴き手の“天然ちゃん”ががっかりすればいいな、などと想像し、武笠は悪戯っぽく笑った。

彼女はその譜面を、合唱コンクールが終わった後に音楽室の床にでも落としておこうと思い、自分の鞄にしまい込んだ。


合唱コンクール開会式の三十分前になり、僕はプログラムの変更を申し出るしかないと覚悟すると、担任と金澤先生へ事情を説明しに行った。


「そっか、仕方ないわね」

「わかった。プログラムは映写するプロジェクターのデータを書き換えるだけだから大丈夫だ、心配するな、小川」

「ごめん、なさい……」


暗譜仕切れていなかった。自分の曲なのに、譜面が無いと弾けないところが数カ所ある。それに、結局完成しなかった。終結部は、コーダは未完のままだ。

金澤先生をイメージして作った、金澤先生のための曲。

合唱コンクールの後でプレゼントして、そして、その時に……


( 聴こうと思ったんだ……あの時に聴けなかったことを、思い切って、勇気を出して…… )


一生大事にしてくれると言った、僕が初めて作曲したピアノ独奏曲。


「……う、う……」


自然と溢れてくる涙を、僕は止めることが出来なかった。


「樹生君?」

「おいおい、小川、そんな泣くようなことじゃないぞ。もともと希望者が演奏する前座だろう」

「う、うう、う……」


悔しくて、悲しくて、情けなくて、気持ちを落ち付けようとしても、僕の目からは勝手に涙が溢れ続けていた……。


プログラムは六年生の部へと進み、クラス合唱の前に挿入されたピアノ独奏は、緒川華音一人だけだった。

彼女の演奏はチャイコフスキーの白鳥の湖の中の“情景”をベースにしたもので、装飾音を随所に加えた華々しい演奏はとても小学生とは思えない、と教員全員が感嘆の声を漏らしていた。


「え?……」


武笠は驚きを隠せなかった。小川樹生が独奏をやらなかったのだ。譜面があるのに、作った曲をこの目で見ているのに、どうして演奏しなかったのか。

一組の合唱の出番の時、チラッと見た小川の顔は、あきらかに泣いた後の目をしていた。


( なんで、どうして……天然ちゃんに言ってたじゃん、プレゼントするって…… )


あの大雨の日の小川と金澤先生の個人練習を、武笠は盗み聴きしていたのだった。慌てたような大声で、確かに小川は金澤先生に言っていた。『先生のために作ってプレゼントします』と。

六年一組の合唱、それを伴奏する小川の演奏は練習の時よりも刺々しい激しさで、歌っている武笠は心をグサグサとえぐられているように感じていた。

重たい低音も、甲高い高音も、今の彼のピアノの音は全て、まるで泣き叫んでいるかのように、武笠には聴こえていた。


( どうして……なんで……あんなに、あんなに一生懸命、時間かけて、夏休みも独りで……音楽室にこもって…… )


私……私……とんでもないことをしたんだ……

取り返しのつかないこと……しちゃったんだ……


プログラムが全て終了し、各クラスでのホームルームも終わった後、武笠が僕に聴いてきた。


「弾かなかったんだ、あれ」

「え、うん……駄目だった……完成、しなかった……」


どうせ武笠は後でまた僕を馬鹿にするだろう。自分で言い出したくせに出来なかったのか、と笑うだろう。

でもそんなことよりも、譜面ごと失くしてしまい発表の場も消えてしまった“ハ長調 独奏”が、金澤先生のための渾身の創作曲が水泡に帰してしまったことが、重たい絶望感となって僕を水底深く沈めてしまうようで……他のことは全て、今の僕には考えられなくなっていた……。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆


三学期。二月にもなると中学の制服の話がちらほらと出始める。特に私たち女子は制服のデザインで軽く盛り上がれるほど、その関心は強いのだ。

そして、二月のメインイベントとなるとバレンタインデーかな。まあ、関係無さそうな男子もかなりいるけれど。


「ほい」


私は小さいブロック型のチョコを小川樹生に投げつけた。袋にたくさん入ってるやつの、一個だけ。


「あてっ……」


チョコは小川の頭に当たり、ころりと彼の机の上に落ちた。


「なんだよもう……」

「ありがたく受け取れぇ、はははは」


私は小川に言っていない。あの楽譜をまだ持っていることを。そして、合唱コンクールの日に、皆んなが帰った教室で、独り大声で泣きはらしたことを。

楽譜はもちろん捨てられない。返すことも、私には出来ない。なぜなら……大好きな人が初めて作った、大事な大事な曲だから……。



セレナーデは風の中に

【終劇】

書いていて自分が泣いてしまったのは初めてです。

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