第八話
***
先にほんの少しだけ事情を知る蒼は、女性だったことを告げる正樹の話を目を見開いて聞いている碧がいつ凶行に出るか不安だった。恋人がいたら既成事実なんだから、が口癖の碧が既成事実ですら「正樹のお嫁さん」になることはできない―それを突きつけられていた。
高校2年生で頭が若干弱いように受け取れがちで、夢見がちだと同級生に言われているが――実際のところ、欲望に忠実なだけなのだ。『したい』、『ほしい』ということにすべてを注ぐ。だから、少しでも碧は正樹にふさわしいように努力していた。容姿も、運動や学業も。蒼と同じく、碧のすべてだった。
そのすべてが、崩れる。
「……そんな……そんなのって…」
ゆっくりと、涙が頬を伝う。瓶底眼鏡の分厚いレンズ越しに、正樹は涙をこぼす碧に動揺した。動揺したが、逃げることだけはしなかった。
真実を伝えた。身体が女だった。だから、『女』になったのだと。
「なんで…戸籍だけでも、男のままにしてくれればいいのに…」
あまりに自分本位な発言に蒼は誰が育てたこの子供。と、蒼は眉を跳ね上げた。だが、蒼も碧も『新城正樹』と新城家に育てられものだ。育てた本人が、一番居た堪れないのだろう。身を縮めていた。
「ごめん。クソ親父が、成人式に振袖着せたいとかほざいて…」
「見たい!」
しゅんっと肩を落としていた正樹の発言に、こぼした涙が嘘のように碧が反応した。
「正樹の振袖姿みたい!見せて、あるわよね写真!」
「げ…」
嫌そうに顔を歪めた正樹に、
「見せて。正樹の振袖みたいっ!あ、正樹。女の子ならもっと可愛い格好しないと!そんな不衛生なカンジだめだよ!正樹はもともとカッコイイんだから!」
パーカーに手を伸ばし脱がせようとし始めた碧に正樹は慌てた。慌てて全力で逃げる。
「確かに身体は女だけど、心は男だからな!女装は絶対パスだっ」
「そんなどこかの探偵漫画みたいなセリフ言わないで。正樹はかわいい女の子だよっ。女装じゃないよ!それにその眼鏡、ダサいから」
「いいだろ!なんでもっ。蒼、碧何とかしろっ。ちょ、どこさわって」
ぎゃー、と両隣の部屋に叫び声が聞こえるくらい大きな声を上げる正樹に碧が馬乗りに乗りかかって、正樹はだすべすべー。と声を上げた。
「蒼、なにかこう。可愛い服とかないかな。こんなダサイ服じゃなくて。蒼、そこのクローゼット開ける!」
「こら!プライベートだろ!?蒼お前何してる?!こら開けるな~~~」
碧に言われるままクローゼット開ける。ここで碧に反論して今後の食事事情を粗末にされるのも嫌だった。最愛の兄さんを生贄の羊にすることに心を痛めながらも、興味があったので開けてみた。
開けてみて、
「……兄さん」
色違いのLLサイズのパーカーが並ぶクローゼットの中を指差し、
「もっと別なもの着ましょうよ」
「うるっさい!いいだろ。こら碧上からどけろ」
「うー。やーだー」
「やーだーじゃないっ。お前ら嫌いになるぞっ」
駄々をこねる碧がピタリと止まる、そして蒼もクローゼットの扉に手をかけながら床に転がる正樹を見た。見て、
「「いまなんて?」」
二人は声を合わせていった。その声色は、低く、なぜか背筋に悪寒が走った。
いつもなら、これでいたずら、もとい正樹を困らせるのが好きな碧や従順な蒼を従えることができた。出来ていたのだが、二人の様子がおかしい。
「嫌いになるの?正樹は。嫌いになっちゃうの?」
「嫌いになるんですか。そうですか」
へーっと二人が冷たい視線を正樹に向ける。
「じゃあ。わたしも正樹を嫌いになっちゃう」
「では。僕も正樹兄さんを嫌いになります」
同時に告げられた嫌いという言葉にその身を激しく震わせた。ぽかんとして、二人を見上げる。見上げて、
「え?」
「正樹が嫌いになるなら、わたしも嫌いになるよ」
怒ったような顔つきで碧がすっと目を細めた。蒼はただただ呆然としている正樹を見た。
「正樹が女の人になったのはすごくショック。それだけでもわたしにとっては正樹を嫌いになる要素だよね?」
「み、碧?」
「ずるいよね。正樹は。そう思ってたよ。嫌いだって言えば、わたしを従えさせられるって思ってたんでしょ?でもわたしが、正樹を嫌えないからいいようにわたしの気持ち利用してたんでしょ?ならもうわたしが正樹を好きでいる理由なんて――」
「碧」
蒼の呼びかけにはっとして碧は自分の下で震える正樹を見た。眼鏡越しに、はっきりと泣いていることが分かった。驚いて碧は正樹の上から飛び退いた。正樹はゆっくりと身を起こして、眼鏡を押し上げて服の袖口で涙を拭く。拭うが次から次へと溢れてきて、「あれ?あれ?」と言葉を繰り返す。繰り返して、眼鏡が邪魔でよく涙をふけないやと引きつった苦笑いを浮かべ、弦を持っていた指先が震えてカシャンとラグの上に眼鏡が落ちた。ぼろぼろと涙がこぼれてくる正樹は両手で顔を隠して丸まった。震える身体がまるでダンゴのようだ。
「あ。あ、ああ」
碧は真っ青になりどうすればいいのか、困惑した。困惑して、ただ、正樹を『本気』で傷つけたのだと知った。蒼に涙を浮かべて助けを求めるが、その視線は厳しい。正樹を泣かせてしまったのが、―碧だといっているのだ。
嫌いだって二人で行ったのに。嫌いになるって二人で行ったのに。その目はなに?
ヒステリックに叫びだしたかった、けど。
「ご、め。おれ、だ、って、みど――だ、…すき…ぅえ…」
断片的に聞こえる音―声に、碧が崩れ落ちた。
『大きくなって碧に俺以上に好きなやつがいなかったら嫁に貰ってやるよ』
『そんなのいないよっ。わたしが好きなのは一生正樹にいだけだよっ!だから、彼女なんて作っちゃだめだからねっ』
『彼女かー。部活もあるし、お前らの勉強も見てやりたいし。いまのところ付き合う暇ないな~』
『じゃあ、一生面倒見てっ!』
『だからな、碧。おまえ話し聞いてたか…おいっからまるな』
『お嫁さんになるなら、正樹にいをにいって呼ぶと他人行儀だよねっ。今日から正樹って呼ぶからっ!お嫁さんに絶対してね!』
『だから人の話、聞けーーー!!』
小さいころの約束。
正樹が中学1年生のときのものだ。それからずっと、『彼女の気配』なんて無かった。ずっと、部活動や学業に精を出し、駒形兄妹の面倒を見ていた。それが、新城正樹の日常だった。そこに『異物』は無かった。
――変化したのは、大学に行ってからだ。連絡が取れなくなった。連絡をよこさなくなった。不安だった、不安で心が破裂しそうだった。正樹は約束、覚えてる?今でも、これからも正樹が一番だって―。
正樹の一番、に。
「正樹兄さん…。いつもの碧のわがままですよ。そんな深刻に受け止めなくても――」
「ぐず…嫌いに、なるって言った…。おまえら…。やっぱり、兄貴じゃないから…こんなんなら、…きらわれるなら…。やっぱり―― お前らに一生会わないほうがよかったっ」
「そんなことない!大好きだよ!!」
「ちょっとした碧の冗談ですよ!?」
「ちょっと。蒼ひどいよ!わたし一人に責任押し付ける気?!」
「兄さんに対して言い過ぎだっ!」
正樹の言葉を全力で否定し、冗談だと叫ぶ兄妹が、責任を押し付け合い始めた。
はじめ、
「ひどいよ!蒼!」
「ひどいのは碧だろ?逆を考えてみろ。もしも碧が『男』になったらどうする?兄さんの気持ちも考えろ」
「っど、同性結婚できる海外で暮らすもん!」
同性恋愛に嫌悪を抱かなくとも、それが自分となれば理解の範疇を超える。虚勢をはって叫んでみるが、想像が付かない。いつも碧が思い描いていたのは、『男女』の恋愛だった。
ので、
「こんど、本で勉強するもんっ」
「しなくていい。あと、無理しなくていい。それに、まだ碧は兄さんに対して謝っていない」
切り捨てるように碧に言うと、碧は謝ってない?と首をかしげ…そして顔を歪めた。
言い過ぎた、とは思っていた。けど、碧にとって今までの不安が爆発したものだ。嘘じゃない。冗談じゃない。
――碧の、『ほんとう』の気持ちだ。
だから、
「いや。謝らない」
「碧!」
「だって先に言い始めたのは正樹じゃない!」
丸まっていた正樹が酷く震えた。ゆっくりと身を起こし、赤くはれた目元をこすりながら、
「そうだな。俺が悪かった―。ごめん、碧。蒼」
そう言って頭を下げた。その様に碧が息を呑む。息を呑んで、悔しそうに。
「……正樹はずるいよ。いつだって、いつだって」
「大好きだよ。碧」
そう言って、床にへたり込む碧の元に行き正樹は抱きしめた。正樹の匂いだ、と碧はすがりつくように抱きしめ返した。正樹はいつだって、自分が間違っていたら素直に謝る。決して見苦しい言い訳はしない。蒼と碧の手本になるように、憧れの兄貴であるために、いつだって気持ちいいほど真っ直ぐしている。
「ぅ…う…っ」
碧の知っている正樹そのものを、碧は大好きで――。
夢が、ずっと抱いてきた夢が叶わなくっても、やっぱり大好きで。
失恋じゃないのに。大好きだって言ってくれているのに、やっぱり――繋がりが無いことが一番悔しくて…。
「正樹の子供になるぅうう」
「……おいおい」
ぎゅぅうと、力いっぱい抱きしめた。呆れる正樹は、碧に厳しい言葉を投げかけていた蒼がほっと肩を落とす様を見てくすりと笑った。笑われたことに、羞恥で顔を赤らめ拗ねたような顔つきで正樹を見た。正樹は目元を拭って、
「大好きだよ、おまえらのことっ!」
笑顔で言った。
持ち帰ったバーガーやポテトを温めて三人で食べた。食べてから、碧がまずいまずいと騒ぎ始めた。
「そりゃ冷めればおいしくないだろう」
もともとおいしいものでもないし、と蒼がぼやく。すると正樹が目を輝かせて、「じゃあ腕を俺がうまいものを食わせてやる!」と立ち上がった。
が、冷蔵庫には正樹が思い浮かぶほどの『おいしいもの』が作れるだけの材料が無い。保冷室からたまねぎとじゃがいもとにんじんを取り出し、
「すまん。カレーで我慢してくれ」
と冷凍していたひき肉を取り出した。
似非キーマカレーを作ろう。そう思い立って野菜を油で揚げるためにサラダ油と油鍋を取り出した。
「手伝うっ」
碧が飛び跳ねるように素早く正樹の元にかけていくと、蒼は出し抜かれた形になって腰を上げた状態で固まる。
「蒼はそこで座ってるといいよ~」
役立たずだしね、と笑顔を向けられて引きつった顔つきを碧に見せた。碧は鼻を鳴らせて、先ほど責め立てたことへの意趣返しだと視線で睨んだ。口をへの字にして蒼はキッチンで鼻歌を歌いだした碧を憮然として見つめた。
碧が見て見てと包丁を使った野菜切りのパフォーマンスをして、正樹を驚かせ、正樹はカレー用の肉が無いからな~と残念そうに切った野菜を油で揚げようとし、長い前髪がうっとうしくなった。もうばれてしまったし、蒼や碧に隠す必要も無いということで、碧に油の温度を任せてクローゼットの衣装ケースから服を取り出した。蒼は正樹が徒然着替え始めたことに驚いていた。正樹は身体の線を隠すためのパーカーを脱ぎ、Tシャツにカーディガンを羽織る。ぼさぼさだった髪を整えて、うなじの辺りでひとくくりに縛り分厚い瓶のそこのような眼鏡を置いた。
「よしっ」
拳を握り締めてガッツポーズを取り、
「うまいの作るぞっ」
と意気込んだ。蒼は、ぽかんと口を開けてラグの上で着替え終わった正樹の様変わりした姿を見て驚いた。
「…兄さん?」
「ん?なんだ?」
正樹かと問うと、何だと返事が返ってきた。きたので、目の前の『女性』は正樹なのだろうと、着替え姿を見ていたのに服と眼鏡を取っただけでかなり違う。そういえば、と白い肌を思い出して思わず頬に熱が上がる。きょとんとした正樹の視線から逃れるように顔をそらすと、その態度が正樹は気に食わなかった。気に食わなかったので、
「なんだよ。なんかあるなら言えよな」
近づいて正樹のそらされた顔を両手で挟んで自分の方へ向けた。むっと眉を寄せた正樹の顔が目の前にあり、不満があるならいえよ、言え言え!と頬を伸ばしたりし始めた彼―彼女に思わず蒼は、
「んむっ?!」
その不満で尖らせた唇を塞いだ。