第五話
食事を終えた二人は、正樹が洗いものを。蒼がお風呂掃除をした。
正樹は全力で断ったがなら、宿泊代と食事代を渡すと強固に言い放った蒼に折れた形となった。洗いものと掃除を終えた二人は、ベットからソファーへと戻した椅子に並んで座り、地デジチューナー搭載のパソコンでバラエティ番組を見ていた。と、言っても蒼はぼんやりと芸人たちの笑い声を聞きながら別のことを考えていた。
握り締めた、あの、柔らかいもの。
蒼とて男だ。
そして、本人は一切気にはしていないが周囲の女子が騒ぎ立てるほどの容姿を持つ。
告白されたことも何度もあり、一度だけ付き合ったことがある。
もちろん、肉体関係までいった。ただ、ひょんなことで分かれることとなったが、それまでその関係は続いていた。恋人同士として。
じっと自分の右手の平を見つめる。見つめて、あの柔らかさを思い出す。
どう考えても、
(女性の、胸?)
まさか、あんまんとか肉まんとか饅頭とかパンとかいう落ちはないだろう。
ぶかぶかのパーカーとくたびれたジーンズ。
身体の体型がぱっと見る限りではわからない。抱きしめればその形はわかるだろう。男なら、硬く、女なら―柔らかい。
まさか、と、口元が引きつるが、ならあの感触はなんだ?と問う声がする。
「―、お。蒼?」
はっと我に返り、蒼は畳んだタオルとTシャツとハーフパンツを持った正樹を見た。正樹はきょとんと首をかしげ、
「お風呂わいたみたいだから先に入ってこいよ」
そう言って畳んだタオル一式を渡した。蒼は素直に礼を告げ、狭いバスルームに入り身体を洗って湯船につかる。
(…せまい)
けれど、窮屈な家よりは―ここは、心地いい。心地よくてついうとうとしてしまい、中々上がってこない蒼を心配した正樹に起こされ、お風呂から上がったと同時にシーツが敷かれたソファーベットの上に倒れ込んだ。
「だ、大丈夫か?殴った…」
「あ、違いますよ。兄さん…。ちょっと疲れて…なんだか、とっても眠いんです…」
笑顔を精一杯浮かべるが、眠気でまどろむ。そんな蒼に、正樹は笑う。そっか、と。
「今日は色々ごめんな…」
正樹は蒼に毛布と布団をかけて、
「お休み。俺、風呂入ってるから」
そう言ってまどろむ蒼の髪を撫でた。
蒼は、優しいその指先を名残惜しむかのように、浅い夢の中に落ちる。
シャワーの音が聞こえる。
蒼は、まどろみの中からゆっくりを目を覚ます。まだ、眠い。けれど、とても喉が渇いた。
湯船の中で随分と水分を発散させてしまったようだ。
喉の渇きにたまらず起き上がり、蛇口から水を出し、グラスに入れて水を勢いよく飲む。水道水が美味しいとは思えないが、喉から胃にかけて水の冷たさが染みわたるように広がる。
しばらく蛇口から水を出したまま、排水溝に流れる様を眺める。自分まで流されてしまいそうになる、錯覚を覚えた。
バスルームの扉が開く。ワンルームの狭いアパートで脱衣所なんてない。蒼の時は着替えの際は、キッチンと玄関のわずかの間で着替えを行った。その際、室内から着替え姿を隠すためにアイボリー色の衝立が役立った。が、それはキッチン・バスルーム側とソファー側を隔てるものである。今、蒼は、キッチン・バスルーム側にいる。このままだと、丸裸の正樹と対面する。そう思いながらも、中学まで一緒にお風呂に入っていた間柄だ。いまさら裸がなんだ、碧だって裸同然の恰好でうろちょろしているんだから別に気にはしない、と。
「ひ」
「…え」
真っ白のな身体に、二つの脂肪の塊があった。細い腰の下には、ついてない。
蒼はかぶりを振った。降って目元を抑えた、変な夢だ。と、そして再びバスルームから出てきた『女性』を見た。
女だ。
「え?」
いぶかしげに、眉を寄せた。肩までの黒髪からしずくが落ち、白い肌に流れる。大きめな瞳は、正樹がよく気にしていた。もう少し鋭い目つきなれば男前になるのに、と。
そう、正樹に、良く似た、女が蒼の前にいた。
女はゆっくりとバスルームの中に戻る。戻って、パタンと扉を閉めた。
閉めて、水の流れる音を聞きながら、蒼は――手にしたグラスを落とし、割った。
* * *
バツ悪そうに視線を合わせない、新城正樹。
頭が混乱して、頭痛すら感じ始めた、駒形蒼。
正樹はあいかわらず体の線を隠す大きめのパーカーにハーフパンツを吐いていた。伸びる足は、サッカーをしていた頃から丸みを帯びた足。筋肉質だった足は今は、ただの美脚となっていた。ほっそりとしていた腰や腕、丸みを帯びた胸や尻。大きめの瞳、そのパーツそれぞれを組み合わせて出来上がった正樹はまさに、
「………、どういうことか…聞いていいですか…?」
女性だった。完璧な。可憐な、女性だった。
正樹は視線を合わせない。合わせないが、その手はせっせとグラスで手を切った蒼の手当てをしていた。グラスを割ったことに慌てた蒼が手を切り、「いたっ」と言う声に反応して素っ裸のまま正樹がバスルームから飛び出し、手当てをしないとと騒ぎ出した。騒ぎ出した正樹はその素肌を惜しみなくさらし、蒼に洗濯かごに押し込んだパーカーを頭から被されるまで気がつかなかった。
絆創膏をいくつも貼ったその、過剰なまでの手当てに蒼が顔を引きつらせていると、正樹が呟いた。
「女性仮性半陰陽。…ぶっちゃけると、俺、女だったんだわ」
その視線は、逸らされたまま告げられた。
「まあ、男として生きてもよかったんだけどな。俺の家族って親父だけだし?いろいろあって親父と喧嘩して、そんな哀しいこと言わないでくれって泣きつかれちゃってさ。なんていうか……さ。俺、隠し事苦手だし…、ほら、なんていうか…気持ち悪だろ?気分的に。生物的に女なのに、男のモンついてるし、胸出てくるし」
正樹の言葉に蒼は茫然と耳を傾けていた。ぎゅっと蒼の手を握りしめ、
「…おれ、蒼や碧のかっこいい兄貴でいたかったけど。やっぱり、身体が女でさ。筋肉つけようと頑張ってもなかなか思うようにつかないし、他の奴らと体力の差、開いてくし。胸、膨らんでくるし…」
ふに、っと蒼の手を自分の胸に押しつける。柔らかい。そして、温かい――。
「まあ、こんなんで、さ。あんまり地元に戻りたくねーんだ俺、ほら。嘘つけないしっ」
そう言って苦笑いを浮かべた。悪いな、と小さく謝罪し、
「まあ。蒼もこんなにカッコよく育ってるし。俺なんかいなくて大丈夫そうだし、碧も料理うまくなって…」
けらけらと笑いだす正樹は蒼の手を離す。
「碧は、正樹にいのお嫁さんになるのが夢なの、ってまた言われたよ。…ほっんと参るよな…」
歯を食いしばんでうつむき、正樹は吐き捨てた。
「……にいさ―」
「てことで、俺は兄貴じゃないんだよ」
兄貴になれないんだよ。と、哀しく微笑む。悪いな、と幾度も謝罪する正樹に、蒼は硬く目をつむって息を吐いた。そして、
「いいましたよね。情けなくても、みっともなくても、僕の兄さんは正樹兄さんだけなんですと。碧だって兄さんは正樹兄さんだけだって言いますっ。たとえ、新城正樹と言う人間が男であっても、女であっても、僕等兄妹は、正樹兄さんに、正樹さんに憧れてずっと、一緒にいたいと願ったのは、あなたなんです」
無造作に落ちていた正樹の両手を掴み、握りしめた。
「僕は、どんなあなたでも『憧れ』た人です」
目指していた人です、大好きな人です。そう、気持ちを込めて、
「だから、どんな正樹兄さんでも僕の兄さんはあなたです」
そう、気持ちが伝わることを願った。握り締めた手が強く握り返され、
「ありがとう…蒼」
再会して、初めて――心から正樹の笑顔を見た。
色々なことを聞きたかった。けれど、正樹が「高校生はもう寝る」と蒼をソファーベットに押しこむ。
「兄さんは―」
「俺は床でも平気だ」
「だったら僕が」
「お客様を床に寝せることをするなんて、俺はできねえよ。大丈夫だって、このラグも結構気持ちいいんだから」
毛足の長いラグを叩きながら、気にすんな。と言って笑う。その笑みに押された形となって、蒼は苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、…お言葉に甘えて…」
ソファーベットに腰をかけて、
「でも、兄さん掛け布団とか毛布とかあるんですか?」
「大丈夫大丈夫」
「………」
薄手のハーフケットを出してきて、エアコンを少し高めに設定する。な!と笑いながらラグの上に寝転ぶ。クッションを枕にしながら、
「明日の朝何食べたい?」
と聞いてくる。蒼は秋の肌寒くなってきたこの季節、ハーフケットで寝ようとしている兄を睨みつつ、肩を落とした。
「兄さんが作るのなら何でも食べます」
「そっか」
うれしそうに笑う正樹に、かけ布団を渡し、
「これでも鍛えてるんです。毛布で十分ですよ」
と言って有無言わさず毛布に包まって背を向けた。背後から正樹の抗議の声が聞こえるがかけられる掛け布団を蹴り正樹の方に落とすという地味な攻防の末、正樹が根を上げた。
灯りを消し、二人で「おやすみ」と挨拶を交わし――再会の日は終わりを告げた。