第三話
* * *
新城正樹は、彼を見た瞬間血の気が下がった。
二年半ぶりに見た、近所の三歳年下の幼馴染は女の子と見間違うほどのかわいらしさが、男らしさと交わり、そう――呆れるほどかっこよくなっていた。
うらやましいほどに。
ぼさぼさ頭で、瓶底眼鏡をかけ、だぼだぼのパーカーとジーンズで身体を隠す自分の有様と180度違う。
うらやましいと言う感情が、情けなくる。しばらく彼、駒形蒼を眺めていると、彼は誰かを待っている。
いや、探している。そのことに、さらに血の気が引いた。
大学に入ってからの友達である相沢翔に蒼に何とか帰ってもらうように頼み込んだ。会いたくない理由を翔は理解してくれて呆れながらも承知してくれた。
そして、泣かしやがった。
翔に悪いことをした、と思いながらも蒼を泣かした翔に苛立ち、そして正樹は蒼が望む答えを渡すこともできず、逃げるように席を立ち喫茶店を出て行った彼の背中を悲しく見つめた。
たぶんもう、関わることも、関わらせても、もらえないだろう。
小さな頃から、自分を憧れの対象にしてきた少年のために、新城正樹は駒形蒼と碧だけの『ヒーロー』になるために、ただ、蒼に、碧に『すごい』と言われたいがために、すべてにおいて自分を磨いてきた。スポーツにしろ、勉強にしろ、料理にしろ。
失敗してきたことはすべて蒼にひた隠しにし、自分の良いところばかりを見せてきた。蒼の実の兄にはなれないけれど、それでも実の弟妹のように触れ合ってきた。
今ですら、蒼を慰めに走り出したいと心が騒ぐ。
葛木桃果の呆れた溜息が聞こえたが、それを無視して砂糖たっぷりのハーブティーを駒形蒼を傷つけた自分の罰だという風に一気飲みした。甘さに苦しみながらテーブルに突っ伏す。
わずかに視界に入ったお札が福澤諭吉であることに目を見開いた。
(――帰りの電車代、あるのか?)
そう、思ってしまったらいても経ってもいられなくなった。
使い込んだ革の財布を取り出してレジで会計を済ませ、桃果の悪態を含む忠告を背に、駅に向かって走る。
たぶん、ここからなら一番近い駅は―。考えながら駆け出した足は、止まらない。
一分でも、一秒でも、早く。
蒼が困っている。
それだけが、正樹の原動力だった。
案の定、蒼は困っていた。
壁に背をつけ、携帯の画面を厳しい顔で見ていた。通話ボタンを押そうか迷う様に、慌てる。
慌ててしまう。誰にかけるか、厳しい蒼の表情からもしも蒼の『父親』だというのなら、正樹は一生後悔する。後悔して、二度と顔向けができない。
ホームから飛び込み自殺をして詫びたいほどに、だ。
だから、押される前に――。
早く、早く、と腕を伸ばす。
蒼の腕を掴み、携帯のボタンが押されていないことを確認し、心の安堵した。安堵し、泣きそうになった。それを誤魔化すためにずれた眼鏡を何度も直す。かけ直すが指先が震える。
どうせ、度なんて入っていない伊達眼鏡だ。
どんなに指先が震えていようが、視界は良好。
蒼の驚いた顔がよく分かる。地味さをかもし出すアイテムである眼鏡。魔よけの一種。正樹は、動揺を隠すように蒼にお釣りを渡す。
蒼が飲んだコーヒー代を差し引いたお金だ。
きっとここで正樹が奢ったら蒼が置いていったこのお金の意味がなくなってしまう。
決別をするなら、奢るべきではない。
最後に、最後に、よく触った柔らかい栗毛をかき混ぜて、そう。
(これで、さよならだ)
だめな兄貴でごめん。
正樹はそう心の中で呟いて、別れの言葉を口にした。背を向けて、駆け出したい衝動を堪える。堪えて、歩く。みっともない、余裕のない姿なんて絶対に見せたくない。
けど、ここで逃げればよかったのだと、後になって思う。
どんなに取り繕っても、無駄なことがあるのだと。
そう、分かっていたのに。
掴まれた腕、振り払おうとした腕、伸ばされた腕。
掴まれない様に身をそらした、それがいけなかった。蒼の手が、掴む。
掴んではならないものに、触れた。
痛い、と思った。痛くて、そして掴まれた感触に肌があわ立つ。
飲み込んだ悲鳴と、驚く蒼の表情。困惑する彼が、何度か、それを揉む。脂肪の塊を。
蒼が知っている男である、正樹に、あるはずのない、胸にある、脂肪の塊を。
痛い。
無遠慮に掴まれて揉まれることは、痛みが走ることなのだと正樹は知った。
驚く蒼が決定的な言葉を言う前に、その痛みと身体に走る不愉快な感覚を消し去るために――つい、拳を振り上げた。