第十五話
「好きです。付き合ってください」
一度目のキスは、セクハラだと言われ、二度目のキスは好きだと言われた。開いた口が塞がらないし、告げられた意味を理解しようとするが混乱して迷宮に飛び込んだ思考が、迷宮で迷って戻って来られない。
つまり頭の中がすごく混乱していた。
「す、すき?え、すき?」
蒼が好きだといった。正樹は、頷く、頷いて、「俺も好きだよ」と告げる。告げると蒼の顔が一段と苦虫を噛み潰したような顔つきになって、鋭く睨みつけてくる。びくりと背を正し、その視線から逃げようと身を引くが、椅子が少しずれるだけで動かない。
蒼が怖いわけではない。ただ、正樹の『好き』と蒼の『好き』が噛み合わない。行動が、噛み合わないのだ。キスをするのは、『好き』な相手とではないのか?
「別の言葉で言います。愛しています」
水を飲んでいたら噴出していただろう。真剣に、この幼馴染(男)は何を言っているんだろうか?男だろ?うん、男だ。自分も、身体は女になったが、心は男だ。だから、男と『どうにかなる』なんて想像も付かない。
「蒼、お、落ち着け。どうした、どこか頭を打ったのか?」
倒れたグラスを元に戻し震える手つきでテーブルをお絞りで拭いた。こんなときにでしゃばるウェイトレスは別のお客の接客をしている。視線を向けると、「ちょっと待って」と手で合図をされる。注文と間違えられている。ちがう。今すぐ来い、視線で助けを求めるが桃果は営業スマイルをお客に振り撒いて気づかない。
「どこも打っていません。あと、気の迷いでもありません」
「いや、迷いだろ?!どう考えてもっ。冗談にしても、これは…」
笑えない…。
「本気にしてくれないんですね」
吐き出された呆れた声は、非難を含んでいた。本気にしろという、蒼が。正樹は目を大きく見開いて、苛立ちに顔を歪めた蒼を見た。初めて向けられた表情に、びくりと震えた正樹。蒼は席を立ち、
「来年、正樹兄さん――、正樹の大学に受験しますから」
「は…?」
「楽しみにしていてください」
「え?」
「あ、お正月は碧と一緒に遊びに来ますから」
どうせお正月は家に二人しかいないので。と言って荷物を持って立ち上がり正樹を三度睨みつけた。
「兄さんにとってはどうでも良くても、僕らにとってはどうでもよくないことがあるんですよ。――碧だから譲っていた部分もあるんです。『正樹』には理解できないんだろうけど…」
まて、と手を伸ばすが蒼は一切振り返らず――喫茶・アルトから出て行った。
伸ばした手がだんだんと下がり、
「なに?ケンカしたの?あんたたち」
桃果が心配そうに声をかけた。顔色を無くした正樹は混乱して頭を抱えた。
正樹兄さんと呼んでいた蒼が呼び捨てにした。碧の、他人行儀よねっ!という明るい声が脳裏に響く。
(いや、いやいやいやっ!)
まさか、そんな、まさか!と正樹は否定の言葉を繰り返した。
この数日抜け殻だった正樹は、駒形青との再会の日から四度目の土曜日を迎えた。外出するわけでも、アルバイトのシフトも今日は入っているわけでもなく、アパートの部屋でパソコンのテレビ画面をつけながらぼんやりとリポーターの笑い声を聞いていた。あの後、連絡を取ることも出来ず、ただ、どうすればいいのか混乱していた。
蒼が、好きだといった。愛しているといった。どういう意味だ?
意味合いで取れば、LIKEとLOVEだと蒼が言うにはLOVEのほうだということだ。
何故に?と困惑する。蒼は可愛い弟分のような、大切な幼馴染だった。ちなみに、蒼は男で、正樹も男だった。今は身体は女だが、心―精神は男そのもので。つまり、そっちの気はないということだ。その弟の告白と、苛立った顔、冷たい顔…初めて見た表情にどうすればいいのか分からず、いや――分かっていても断ることが出来ない。傷つけたくない。大好きなのだ。駒形蒼、そして駒形碧が。
二人の兄妹と出会った切欠は…あの町に引っ越してきたばかりの頃だ。新学期が始まる前で、春休みの頃だった。なので友達がいなかった。友達が出来るか不安だった。寂しかった。暇で、一人でサッカーボールを蹴っていたときに出会ったのだ。衣類やぬいぐるみなどの荷物を紙袋に入れた二人が道端で途方にくれていた。「どうしたんだ?」と問いかけると二人は驚いた。碧を護るように蒼は前に出た。正樹は警戒されていることが分からず、首をかしげた。
「なんで怒ってるんだ?」
声をかけただけなのに。むくれた正樹に蒼が言った。
「知らない人に声をかけられたからにきまってる。誰だよっ」
正樹はボールを持ったまま、二人を見た。碧は脅えていた。蒼も怒ってはいたが脅えていた。
「そこの、アパートに引っ越してきたんだ。俺」
指を挿した先には、そこそこ新しいアパートがあった。2LDKの父親とその息子の二人暮らしにしては十分すぎるくらいの部屋。
「俺は新城正樹だ!こんど、吉村小学校に通うんだっ!て言っても春休みおわってからなんだけどな。お前らも吉村小学校にいってるのか?」
怖がられないように幼いながらも気にしながら笑うと、碧は脅えたまま頷いた。蒼はまだ睨みつけていた。
「名前は?」
「え?」
「ふたりの名前、俺まだ友達いないんだっ」
照れたように恥ずかしがるように正樹は笑った。
「ひとりだと暇だから、一緒に遊ぼうぜ」
ボールを突き出して見せる。サッカーやろう!そう誘うと、蒼は戸惑った。戸惑っていたら、紙袋から服の一枚がこぼれ落ちた。慌てて取ろうとすると、取った先から一枚ずつ落ちていく。蒼は泣きそうになってアスファルトに零れ落ちる服を集める。碧も手伝おうとするが、両手一杯でどうにもならない。きょとんとして正樹はボールを路面に置いて蒼の手から服を取った。なにするんだ!と声を上げた蒼に、正樹は「手伝う」とだけ告げた。
「これ、どうすんだ?家に持って返るのか?」
その言葉に兄と妹は震えた。首をかしげた正樹は、これどうしたんだよ。といぶかしんだ。盗んできたのか?その問いに、蒼が叫んだ。
「ちがう!ぼくらのおかあさんのだ!」
そう言って火がついたように泣き出した。正樹は驚いた。驚いて慌てた。蒼に釣られるように碧も泣き出した。正樹はまだ知り合いのいない―友達のいないこの町で出会った子供が突然泣き出しことに、抱えていた不安が爆発した。
「なっなくなよ!泣くなよぉっ」
涙を浮かべながら、二人の子供たちをアパートに連れて行った。連れて行って、父親が準備しておいてくれていたカップケーキの素を取り出した。イチゴとチョコだ。正樹は父と自分のマグカップに材料と入れ、箸でかき混ぜて電子レンジに放り込んだ。チン、と音が響くとふかふかのケーキが出来上がった。
正樹は急いで蒼と碧に見せた。
「できたっ!くえ!」
そして食べるように進めた。ほかほかのケーキに二人は泣きながら釘付けになった。材料が混ざりきってなく、まだらなケーキだった。けれど、二人のお腹がなった。
「お腹がすいてるなら、もっと食べろ!おれがたくさん作ってやる!そうすれば泣かなくてもいいだろ!」
無理にまとめた。泣いている意味も深く考えずに、正樹は自分が泣きそうになっていることも含めて、すべてがお腹がすいているからだ、とまとめた。
二人の兄と妹との関係は、――ここから始まった。
初めて父親以外に振舞った料理ともいえないケーキ。おいしいと食べてくれた子供たち。正樹は嬉しくなった。嬉しくなって、いろんなことを話した。いろんなことを聞いた。サッカーボールでリフティングすると「すごい」と言われた。すごいすごいと言われ、調子に乗った感もあるがそれでも蒼と、蒼の後ろに隠れる碧に褒められたことがうれしかったのだ。
初めての町で始めてできた友達。
寂しかった足元が、踏み固められていく、感覚。褒められてすごいと言われて、嬉しかった。二人の笑顔がきらきら輝いていて。まるで宝物のようだった。宝物。そう、二人は、正樹にとって宝物になったのだ。けれど、その宝物は独り占めしていいものではない。正樹以外にもその宝物が本気でほしいと思う人間がいることを知っている。正樹が鍵をかけてしまっておいてはいけないのだ。
気づかされたのは、いつだったか。思考が過去の出来事をアルバムをめくるように流れる。
そして、たどり着く。初めて女子に告白された時、「碧との約束があるから」と断った。「それでいいの?」と問われた。何を言っているのか分からなかった。それで、正樹はいいのかと。いいのだと言った。おかしいと言われた。言われたので言い返した。女子は泣いた。それから、どうした?
正樹はぐるぐると過去の記憶を回す。思い出していくうちに、どれだけ自分が、蒼と碧中心で生きてきたのか思い知る。友達と約束をしていた、けど碧が熱を出した。断って看病しに行った。蒼が交通事故で軽い怪我をした。その原因のドライバーに詰め寄った。警察官に説教を食らった。
蒼と碧を悪く言うやつがいた。許せなかったから一言文句を言ったら大喧嘩になった。暴力沙汰にもなったことがあった。また、警察官に説教を食らった。
過去を思い出してみて、やはり正樹は二人と『離れなければ』とだけ思った。その原因の、記憶――切欠。
高校に入って何度目かの告白を断って教室に戻ったとき、クラスメイトの女子生徒に呆れられた。
「新城君。君、その子のこと本気で好きでもないのにずっと断り続けるの?」
その言葉はいつも告白して来た女子の最後に聞かされてきた言葉だった。なので、面倒でお前には関係ないだろ?と苛立って答えてしまった。女子生徒は苦笑いを浮かべて謝ってきた。
「ごめんごめん。でも、わたしはいい加減その子を離してあげた方がいいと思うな」
その言葉に意識を持っていかれた。どういうことだ、と問う。
「新城君が幼馴染の子達大好きなのは知ってるけど、新城君がその二人にべったり依存している感じ。別に依存してることが悪いって言うわけじゃないの。ただ、新城君が二人に自分しか見せてないの。見せないの。だからあの子達は新城君が大好きで、なんていうんだろう…。そう…、うーん。そう、目隠ししてるみたいな感じ!」
目隠し―。
「碧ちゃんだっけ?新城君以上に好きになれる人が居ないかもしれないし、いるかもしれない。けど、今の状態じゃあ、お互いに1つの箱の中に入ってて依存し合ってる感じで、さらに、新城君が自分しか見えないように目隠ししてるの。カッコイイところしか見せてないでしょ?二人に」
見栄を張っていることを笑われた。正樹は呻きながら頷く。クラスメイトは良く正樹が失敗することを知っているし、努力家と言うことも知っている。そして、幼馴染の兄妹が大好きだということも。それゆえに、二人にはいいところを見せようとしていることも。
「もっと、周り見せたほうがいいんじゃないのかな?二人のためにも。あと新城君のためにも」
女子生徒とは、わりと仲が良く気があっていたので彼女の忠告は素直に心に落ちた。女子生徒の言葉が気になって、仲の良かった男子生徒に問う。
「ああ、間を得てる意見だな。俺から見た意見?まあ、なんていうか、お前が離さないってかんじだな。まるで大切な『宝物』を箱の仲に入れて大事にしてる感じ。正樹以外見させない感じ?あの幼馴染の二人の憧れっぷり既に崇拝っぽい感じじゃね?俺はじめて見た時どこの教祖様だよって突っ込みたかったぜ」
男子生徒の笑い声に、正樹は青ざめた。
二人にすごいといわれて、調子に乗っていた。嬉しかった。二人の自慢の兄貴でいたと思った。頑張った。がんばって、自分の良い部分しか見せなかった。
――自分しか、見せなかった。
県内の大学に進学しようと思っていた正樹は、進路指導室に駆け込んだ。ちょうど担任の教師もいたので正樹は真っ青な顔で進路を変更する旨を伝えた。
二人を、蒼と碧を正樹と言う『箱』から出そう――そう決めた。
そう、二人から離れるために、大学受験に県外を選んだ。
少しずつ、離していこう。近くにいては、『自分が』駄目だ。正樹が、二人を必要としている限り、手放せないから。いい兄貴でいたい。いい兄だと、まだそう思われているうちに。そう時間をかけて、二人から遠ざかろうとした。碧も、自分以上に好きになる男に必ず出会える。そう考えていた。大学に入学し新しい生活を始めた時、知った身体の事実。
――会う会わないじゃない、会えない。
良き兄でいたかった正樹は疎遠になっていって、それでも少しは何らかの繋がりがあれば…と甘い考えを持っていたのだ。兄ですらいられなくなった。会ってしまえば嘘をつけない正樹は二人に告げてしまう。実は女だった、と。はぐらかしてしまえばきっと傷つける。傷つけるなら、何も言わない方が良い。会わないほうが良い―。
それなのに、ただ一度だけ会って、知られてしまい―そして告白…。考え続けても、答えが出ないので、リモコンで画面をオフにし眠りに付くことした。あれから何のアクションもないのだ。蒼だってその場の勢いで言ったのだ。碧のこともあるから、きっと気を使ったのだ。――誰に?
「……」
正樹は無言でソファーベットの上に倒れこみ、
「だーーーーー!なんだよもうーー!」
頭を抱えて悶え始めた。




